詩人に手向ける夜の詩

詩人に手向ける夜のうた

 広大なる魔の国は『黒曜石こくようせきの都』。その都を取り囲む大城壁の『西のやぐら

 かつて『混沌カオス』の神々との決戦を見越して建造された乱世の都は、その傾斜した大城壁も町の建物も全てが魔力に満ちた黒曜石で出来ていた。大きな国の名城にも等しいこのやぐらには、現在は『キルシェイドの眠り人』と呼ばれる生ける伝説に等しい男ルインと、彼を長い眠りから目覚めさせた眠り女と呼ばれる女たちが暮らしている。

 ある夏の日の夕方。

 夕闇の迫るバルコニーのベンチに人影をみとめたルインは、誰かが転寝うたたねでもしているのかとそっと近づいた。

 世界樹ユグラの木材と鉄で作られた頑丈なベンチで、首を傾げたまま転寝うたたねをしていたのは、赤いドレスも美しいティアーリアだった。『魔の国一の淑女』と呼ばれる彼女の正体は夜に活動する巨大な鳥の魔物リーニクスの姫だとされているが、ルインはその姿をしっかりと見た事はない。

「……ん、ふあ……あら?」

「……ああ、起こしてしまったか?」

 優雅な伸びをしつつ目を開けたティアーリアはルインに気付いてわずかに驚いた顔をし、その後妖艶さの漂う微笑みを浮かべた。

「ふふふ。はしたない所を見せてしまいましたね。夏の夕方の風が心地よく、つい転寝をしてしまいました。淑女と呼ばれる私が居眠りなどするものではありませんが、ここは私にとって心の羽根を休められる場所なのだとご笑納しょうのうくださいね?」

 小鳥のような可愛らしい声に、夜の闇の藍色あいいろを帯びた長い黒髪を揺らしてティアーリアが笑った。肩にかかる同じ色の夜魔鳥やまちょうの羽根のショールが艶やかに夕闇を吸い、それはまるで彼女の一部に見える。そのショールが流れて白い肩がのぞいた。

「ところで……」

 ティアーリアが言いながら、赤くけぶる瞳をルインに向けた。ショールは幻影のように消えてしまい、奔放ほんぽうだが艶のある髪がさらさらと流れると、赤いドレスがひもで吊る様式のものだと分かる。同時にそれは決して控えめではない胸元を上から見るような位置になってしまい、ルインは目をそらそうとした。

「ふふ……『寡婦かふ』の宿命を持つ私には、時に視線は好ましい物なのですよ? 夜の闇の中を飛ぶ時に少しだけ心が温まるというものです。……ただそれは、尊敬に値する男の方のものに限りますけれどね」

「だがまあ、しげしげと見るものでもないからな」

 ルインは少し困ったように笑いながら言う。ティアーリアは意外な言葉を続けた。

「見る事から始まるお話をしようと思っていたのですよ? ルイン様、私の姿はその位置から見るのが最も美しいのだそうです。私は特にそうは思いませんが、ルイン様にはどのように見えていますか?」

 言いながら、ティアーリアは白い胸にこぼれていた髪を優美な動作で払った。長い脚を曲げ直すと、黒絹くろぎぬのタイツをはいた足の付け根にまでドレスの切れ込みが入っており、美しいが華奢きゃしゃでは無い脚の線も現れる。

「そうだな……」

 ルインから見たティアーリア。長いまつ毛の下の赤い目は好奇心と熾火おきびのような赤い情念じょうねんが燃えているようで、これは大抵の人間には直視できないほどの力がある。多くの場合、おのれの恐怖や欲望、虚栄きょえいに囚われて心の安定を欠くのだ。しかし、ルインはそうはならない。

「人とは比べ物にならない強い情念の火が、その肌の下で燃えさかっているようだ。芸術に近い解釈をしたくなる気持ちなら理解できるかな。美しい、という言葉では、いささか火力が足りない気はする。こちらも焼かれるような魅力と言えばいいかな?」

 ティアーリアはこの答えに眼を細めて笑う。

「いろいろな解釈があった事を感じさせる答えですね。もうずいぶん昔の事になりますが、夜会やかいの合間に座っていた私を見てしまったエンデールの詩人が、それ以降はずっと私の事を詩にして生涯を終えたのですよ。ルイン様から見た私のこの位置が最も美しいと言ったのは、その詩人なのです。まったく……! ふふふ!」

 呆れたように笑うティアーリアの小鳥のような心を揺らす笑い声とは裏腹に、ルインには何か追憶ついおくの気配が漂っている気がして笑わなかった。

「……何か思い出されることが?」

「ええ。その詩人は生涯、六度も結婚と離婚を繰り返したのです。私に憧れ、私と似た女を探したのですが、その女たちはみな人間でしたし、私は私。所詮それは無理な事でした。結局、彼は晩年を孤独に過ごしてその生涯を閉じたのですが、臨終りんじゅうの際には手を取って見送ったものです。そして、そんな彼をしのんで手向たむけを送る時期がまた近づいているのですよ」

「優しいんだな」

「多くの方々に淑女しゅくじょと呼ばれては、やがて振る舞いもそうなるだけのお話ですよ。私には彼の生き方も考え方も理解できませんでしたが、想いはとても尊いものですもの。こうしてたまに思いめぐらす程度には気にかけていますからね。飛び続ける永遠の夜の闇の中の一番小さな星程度のものではありますが」

 少し涼し気な風が流れて、ティアーリアの夜の藍色めいた黒髪を揺らし、彼女はその長い髪を手でいた。夏の夕日は周囲を茜色あかねいろに染め始めていたが、ティアーリアの赤くけぶる双眸そうぼうがそれに勝っている。

 その双眸そうぼうが再びルインに意識を向けた。

「ルイン様、私は今夜エンデールの二人の故人こじんしのんで墓に参ろうかと考えていたのです。よろしければ一緒にいかがですか? 女の頼みごとにろくな事はないものと言いますが……私の誘いは別ですよ?」

 ふふふ、とティアーリアは特徴的な心くすぐる笑いで話を終えた。赤く燃える瞳は興味深げにルインに向けられている。

 ルインは夏の夕空を見上げた。今夜も晴れた美しい星空になりそうだった。記憶を手繰り、確か神聖エンデール帝国は魔の国よりだいぶ涼しいと何かで読んだ記憶がある事を思い出した。

「……同道させていただこう。護衛役としてな」

「嬉しいです。では現地で落ち合いましょう? 私はもう少し暗くなったら魔鳥の姿を取ってエンデールに飛びます。恐ろしい姿ですからその姿は見ないでくださいね? 裸の寝姿ねすがたを見られるより恥ずかしいですから」

「わかった。気を付けるが、おれは恐れも気後れもしないぞ?」

「わかっていますよ? では、また素敵な夜に」

 こうして、ルインはティアーリアと共に深夜の墓参に出る事となった。

──エンデールの詩人セデラックは、本来は伝統を重んじた詩作と抒情詩の再解釈などに功績の認められた有名な宮廷詩人だったが、ある夜会の時に夜魔の姫にして魔の国一の淑女ティアーリアの姿に感じ入り、以降は彼女の詩ばかり作っていたとされている。

──ストリン・ハヴラス著『詩人セデラック』より。

 深夜、神聖エンデール帝国、帝都ドゥルザリア西部、イルミスオラ大慰霊公苑だいいりょうこうえん

 どれほどの雨と風に長年さらされたのか、触れれば砂のようにほこりが付きそうな古い岩の転移門てんいもんから出たルインは、夜の草原を流れる柔らかな風と、青みがかった闇を埋め尽くさんとする星の海にため息をついた。

 その何一つとして足すものが必要なさそうな夜の世界に、理解を超えた美しい歌声が流れてくる。

──生の終わりのその日も、あなたは悲しむ事はないの。

──全ての人が悲しむその時でさえ、私はあなたの為に歌い続け、

──闇も光も届かないあなたの心に、私の歌を届けるでしょう。

 ティアーリアの歌声が柔らかな夜風に乗っている。その声は普段の小鳥のさえずりを思わせるものとは違い、深い闇のいつくしみに満ちており、ひそやかな夜の星の光と風が白日の下の強い春風のように増幅されて感じられた。

(この歌は……)

 このごく些細ささいな何かを拾い上げるような優しい歌に、ルインは声なき死者の黄泉路よみじを照らす深い優しさを感じていた。

 歌は止まり、近くの草原に立っていた人影が優雅な歩き姿でルインに歩み寄る。赤いドレスと闇の中でもわかる魔族の赤い瞳。ちらちらと白く見えるのはスカートの深い切れ込みからのぞく美しい脚だった。

「ティアーリア、遅れたかな?」

「いいえ、時間通りですよ? 誰かのために歌うのは久しぶりなので、少し歌を練習していたのです」

「聞かせてもらったが、良い歌だな」

「はい。歌自体はそれほど格式のあるものではない、五百年ほど昔の流行歌です。ただ、込める思いは闇の世界を旅する死者へのものですね」

「不思議なものだ。この星空と草原が、まるで違う感覚で見たように、明るくまぶしいものに感じられた」

「多くの場合、生命の力は死者にはそのように見えているものです。眩しく、温かく、強く、そして決して手が届かない。闇夜に落ちた一つの松明たいまつのようなものです。それが、こちらの生けし者たちの世界には満ちているのですけれどね」

 一陣の強い夜風が吹き、ティアーリアは暴れる髪を押さえた。指の間からこぼれる闇色やみいろの髪は、死者の視界を語るにふさわしい何かに満ちている。

「それに、この場所も変わっている。こんなに広い草原とは。墓参りだと聞いていたから、寺院のようなものを何となく想像していたんだけどな」

 広い草原と、夜でもわかる幾つかの白いがけ。それらの崖にはかなりの数の暗い開口部があり、ルインはそれらこそが墓所なのだろうと目星をつけていた。また、所々に草原を移動している大きな人影がある事にも気付く。

「この『イルミスオラ大慰霊公苑だいいりょうこうえん』は、遊牧民だったとされる古代エンデールの皇族のゆかりの地です。彼らは今でもここで巻き狩りの神事を行ったりするのですよ? そして、この豊かな草原はもうじき放牧で食べつくされてしまいますが、私はその前のこの時期に墓参に来るようにしているのです。草原を渡る夜風の音が好きですからね」

「それでか。興味深い場所だな」

「エンデールの民は、『草原より来たりて、草原に帰る』と言い伝えられています。この草原は彼らの象徴なのです。だから彼らの社会で評価された人々もまた、この地に葬られて大切にされるのですよ。……行きましょうか」

「どこに向かえばいい?」

「詩人セデラックの墓所はあそこです。『詩人の丘』と呼ばれていて、エンデールの高名な詩人たちはほとんどがあの丘の墓所に葬られ、また分骨ぶんこつされているのです」

 ティアーリアは白い崖の切り立つ幾つかのまばらな丘のうち、開口部の少ない台形の大きな丘を指さした。

「思ったより遠いな?」

「驚きましたか? ここから普通に歩いたら結構な時間がかかりますが、……その心配は要らないのですよ。ルイン様は私と共に歩いてください」

 転移門から四方に草の踏みしめられた道が伸びている。そのうち一つをティアーリアと共に歩き始めたルインはすぐに小さな驚きの表情を浮かべた。

 何も無かった草原に、突如としてあおい金属ベレンサにつたさくと、エンデール帝国の威厳ある国章『凱旋門がいせんもんに繋ぎ馬』の模様をかたどった大きな庭園門ていえんもんが現れた。さらに斧と槍を手にした巨人の門番も二人現れる。

 突起の無い兜を身に着けた巨人の門番のうち、槍を持つ巨人がまず口を開く。

「魔の国の淑女ティアーリア殿、そしてキルシェイドの眠り人ルイン殿、お忍びの来訪は皇帝陛下より承っております。我が国の誇る偉大なる詩人セデラックの名が今でも語り継がれ、合わせて風雅ふうがを愛する我が国の名が語られる事、あなた様の変わらぬ墓参のお陰でもありましょうとの事。どうぞ、お通り下さいませ」

 続いて斧を持つ巨人がアーチ門に掛けられたかねひもを引いたが、不思議な事に音が鳴らなかった。しかし巨人は号令をかける。

霊体馬れいたいばをここに!」

 優美ゆうびにして威厳いげんあるアーチ門は開き、輪郭りんかくの薄青い霊体の馬が現れた。

「ルイン様、手綱さばきをお願いいたします。この馬で墓所まで行きますから」

「そういう事か。理解したよ」

 ルインは霊体馬のくらまたがると、ティアーリアの手を引いた。ティアーリアは一瞬だけ幻影の翼を広げると、ふんわりとルインの後ろに横座りして美しい脚を揃える。

「では、お願いいたします」

「行こうか」

 霊体の馬はすぐに夜風のような速さで草原を走り始めた。ルインが大きな人影と見たものは巡回の巨人らしく、さらにしばしば死者が幻影のように二人を眺める立ち姿が現れては消えていく。その速さは厳かさには馴染みがたいものだったが、『詩人の丘』の緩やかな傾斜に差し掛かると霊体馬はゆっくりと歩き始めた。

「エンデールの文化、いかがですか?」

「なかなかに興味深いものだな」

「そう言ってくださると思っていたわ。私にはなじみのあるものですから。今夜は趣向を変えて、こうして男の人の駆る馬に足を揃えて乗る女の気持ちを楽しんでいますけれどね」

 ティアーリアはくっくっと小鳥のような声で笑う。その楽し気な声にはルインも自然に笑みを浮かべた。

「詩人セデラックの墓はあそこです。すぐそばまで馬で行けるのがエンデールの作法なのですよ」

 丘の緩やかな傾斜の中には草生す古い墓もあれば小さな尖塔せんとうのある大きな墓もあり、詩人セデラックの墓は祭壇もある立派なものだった。

「かなり高名な詩人なのだな」

「あの人の有名な詩はある時期から全て、私をうたったものなのですけれどね。エンデールで『美しい女』の印象と言えば、今も赤いドレスの似合う淑女ですもの」

「それはつまり……」

 二人は詩人セデラックの墓に着き、ティアーリアはまた幻影のような翼を広げてふんわりと降り立った。同じく霊体馬を降りたルインに笑顔で振り向く。

「それを私が言うのは僭越せんえつに過ぎますからね。ふふふ……!」

 詩人セデラックの墓は幾つかの詩碑しひを伴った上に尖塔のある立派なもので、祭壇の両側に二輪の不凋花ふちょうかが咲いており、妖精の光が蛍のように飛んでいる。

「セデラック、今年も来たわ。今がいつで、どれだけの時が経ったのかはわからないけれどね」

 ティアーリアは赤い花束を祭壇にそっと置くと、ルインと落ち合った時の短い歌を謡った。

──生の終わりのその日も、あなたは悲しむ事はないの。

──全ての人が悲しむその時でさえ、私はあなたの為に歌い続け、

──闇も光も届かないあなたの心に、私の歌を届けるでしょう。

 ティアーリアの歌が終わると一瞬だけ大きな墓石の前に男の幻影が現れ、慎み深く微笑んで消えた。

「今のは?」

「詩人セデラックですよ。私が歌うと若い時の姿でいつも現れます。今でも私の事を案じているみたいなのですよ。全く困った人ね」

「強い思いだな」

「それが彼を詩人たらしめているのですよ。彼の最期の想いは……そこの詩碑にあります」

──熾火おきびのようなあなたの目の奥にある心。鉄さえ溶かすそれは、誰もつかむ事ができない。いつか誰かがそれを掴み、あなたを寡婦かふの宿命から解き放つことを、私は望み、祈り続けよう。

「生涯思い続け、死してなお思い続ける……か」

「私を理解するために似たような女と六度も結婚してまで、ね。それでも理解はできなかったのですが」

「理解できなかった?」

「ええ。愛している女を本当に理解できたとしたら、それを詩にして世に解き放つと思いますか? それは愛している女の心を裸にして世に解き放つようなものですよ? それが本当の詩人の言葉なら、ですが。彼は私を理解できなかったからこそ、無数の詩にして世に出せたのです。賞賛する人々もまた、無理解ゆえに賞賛していたのですけれどね」

 ティアーリアはルインの言葉を待つように沈黙した。その言葉の意味をしばし考えて、ルインはゆっくりと答える。

「良く心を交わした大事な女の事は、おれなら詩にもせず誰にも語らないかもしれないな。存在さえしていないように。……だがティアーリア、それなら君はこの詩人の心にいつまでも付き合っているわけで、それは……」

「ふふ、全て言ってはいけませんよ? あこがれは理解から最も遠く、しかしそんな男の人の憧れに応えたままにしてあげる。それもまた大事な事でしょう? 本当の男女の理解は、時には互いの臓物ぞうもつに触れるようなおぞましくも蠱惑的こわくてきな面もありますけどね。そして何より……」

 一陣の夜風が流れていき、ティアーリアは言葉を続けた。

「彼は生涯を分かっていてそう演じていたかもしれません。そう考えると今度はなかなかの詩人でしょう?」

 ティアーリアはおかしそうに笑い、ルインもその意味を考えて笑い始めた。

「ふ、それは確かに大詩人の資格があるな!」

 ティアーリアとルインの虚実きょじつ混じった解釈は、難解な生涯を送った詩人の供養に最も適したものだった。それがどこからが仕込みなのか、或いは詩文の神の仕込んだ偶然なのかは分からない。

 笑う二人を見て、詩人セデラックの霊体が一瞬現れ、満足げに頷くとすぐに消えてしまったが、ティアーリアもルインもそれに気づかなかった。

──熾火おきびのようなあなたの目の奥にある心。鉄さえ溶かすそれは、誰もつかむ事ができない。いつか誰かがそれを掴み、あなたを寡婦かふの宿命から解き放つことを、私は望み、祈り続けよう。

──詩人セデラック・ルガシドの最期の言葉。

first draft:2021.8.5

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