【はじめに】
ウロンダリアの伝説の武人にしてシスラ共和国建国の父、武王ガイゼリックと『美しい人』セシレの出会いの物語のひとつです。
『武王ガイゼリックと美しい人セシレ』、『剣王ドランと賢妻ユリア』、ウロンダリアでしばしば語り継がれている、有名な武人と上位魔族の姫の物語です。
2章ではルインとラヴナの組み合わせが、過去にバルドスタ戦教国を訪れたこの人たちになぞらえて語られていましたね。
セシレは美しく有名な詩人であり、またとても口の立つ人だったと言われています。
語る言葉は詩のように
壮年も後半に差し掛かった顔に傷の多い大男が、深まる秋の寒気にも関わらず裸の上半身に玉のような汗をかき、その傷だらけの肌や灰色の髪からは湯気が上がっていた。すでにこの深い森はだいぶ日が傾いている。
「ならず者共の墓としては上出来であろう」
傷だらけの大男はスコップを杖のようにし、大きな半円の盛り土を眺めた。手伝っていた二人の若い、しかし色あせた服の農民もその手を止めて汗をぬぐう。
「貴公ら、旅の戦士の無理にここまで付き合う必要も無かろうに。これより冬。貴重な一日を無駄にさせたな」
二人の若い農民は久方ぶりの笑顔を浮かべた。
「三日もかけてこのならず者たちを倒し、我々の村を守ってくれたガイゼ様が、それでもこいつらを弔うというなら、おれ達も手伝います。その気高い心に!」
「おれもです!」
「刃を交えたのだ。せめて最後は土の中で眠り、大地の母神の胎内へと戻り、次は曲がった生を選ばずに生きて欲しいものよ」
ガイゼと呼ばれていた戦士はこの後、別れを惜しむ小さな村の農民たちに息災であるように声をかけ、暗くなる山道を次の救いを求める村のために急いだ。決して裕福ではない村に、一食の負担でもかけさせるべきではない、という判断からだった。
「おお、今宵はレダの月が見事なものよ。果たして本当に、あの影の中の瞬く夜景に、月の人々がいるものなのか……」
影の部分に夜景の見える、大きな月を眺めて独り言ちるこの男の名はガイゼリック。自由なる国、シスラをウロンダリアの古き地に興し、家督を息子たちに譲った後は、武を通して人生の解けない謎を探求しつつ、やがて墓標の無い死を迎えるべく旅を続ける、国を捨てた武人であり、王だった。
(冷えるな……)
荷物を積んだロバと共に旅するガイゼリックは道すがら、飛び出してきた小柄な鹿を弓で仕留め、やや森深い場所に雨を凌げる岩場を見つけると、火を起して鹿をさばき、岩塩と香辛料をまぶして焼いて食うと、けぶるバーダル鍛銀の鎧を通して伝わる焚火の温かさに、やがて肩にかけた斧槍の形にした黒曜石の武器オーレイルもそのままに、うつらうつらと眠りに落ちた。
それから、だいぶ時間が経った。
「……し、……もし」
ガイゼリックは自分を呼ぶ声で目が覚めた。
「何者だ?」
だいぶ小さくなった焚火の照らす闇のはざまに、黒い鳥羽のドレスに透けるケープを被った女が立っていた。
「武王、ガイゼリック様ではございませぬか?」
何という美しい声だろうか、とガイゼリックは思った。色とりどりの花が春の夜風に揺らぐような情景の浮かぶその声の美しさに、しかしと人外を感じて気を引き締めた。
「名はいかにも。しかし武の道を究めておらぬし、また王でもなくなった。武王などと名前負けよ。……それより、そなたの強い魔力と佇まい、およそ普通の存在ではあるまい。思えば魔の者どももずいぶんと討伐した。このような復讐もまた……驚く事ではないな」
ガイゼリックは斧槍のままのオーレイルを杖にして立ち上がり、女に向けて構える。
「誤解はございますが、少し、手合わせしていただけるのは嬉しゅうございます」
女の両手に荊を金象嵌した優美な小剣が滑るように現れる。
「面白い!」
しかし、ガイゼリックはこの女に殺気が無い事に気付いていた。
「はあっ!」
突きからの薙ぎ払いを仕掛けたが、女はゆらりとかわし、短剣の切っ先が迫る。それを斧槍の柄でしのいで、引き足から下段への突きを放ったが、女はあり得ない事に斧槍の上に乗った。
「なんと!」
「殺気がないことに気づいておられますね、ガイゼリック様」
「それにしては、影の如き身のこなしに、閃光の切っ先。いかなる意図でわしと話そうと?」
女は無言で斧槍から飛び降りると、短剣をどこかへしまい、フードをめくる。その姿にガイゼリックは息を呑んだ。碧の艶のある紐なしの黒い羽根のドレスを着た女は、紅玉の髪と石榴色の瞳を持ち、焚火に照らされたその眼はこぼれる涙に濡れて、息を呑むような美しさだった。
「なぜ泣いているのだ?」
「お会いしとうございました、ガイゼリック様。そして嬉しいのです。言葉にできぬゆえ、泣いておりますが」
「待て、全く分からん。そなたわしを殺す意図は無いようだが……」
「やっと見つけた、我が良人となる方を殺す道理がありましょうや?」
「夫だと? ますますわからんぞ! そなたわしをからかう気か!」
「申し訳ございませぬ。私の名はキルシェイドの寡婦(※孤独な女性のこと)セシレ。名前くらいは聞いたことがあるかと存じます」
「セシレ? 『美しき人』セシレか?」
「はい。私こそ名前負けしておりますが……」
セシレは涙に濡れた目で微笑んだ。
「ははは! わしの言葉への返しか、面白い事を言う!」
「そのような声で笑うのですね。国を捨て、おのれに墓標無き旅を課すお方の話を聞き、募る思いを止められなくなったのでございます。長き時を生きる女にしては小娘のような振舞いと、どうかご笑納くださいませ」
セシレは頬を赤らめている。ガイゼリックはこれが夢か何かの罠である可能性を考えたかったが、それが失礼な事のように思えるほどにこの女は純粋な表情を見せていた。
「まるで、わしがそなたの想い人のように聞こえるが……」
「想い人でございます。良人となっていただきたく」
「わからぬ! そなた……」
ガイゼリックは思わず出しかけた疑問を呑み込んだ。しかし、セシレは意図を読んだのか微笑む。
「寝首などかきませぬ。あなたのような方が次にいつ現れるやも知れぬのに、どうして自らを寡婦にし続ける恐ろしい事をする必要がありましょうや?」
ガイゼリックは驢馬の鞍から敷き布を取り出すと、畳んで適当な岩の上に敷いて女の座る場所を作ると、焚火の火を強めて残っていた鹿肉を焼き始めた。
「そなたの言う事は全くよくわからぬ。しかし、立ち話も無粋であろう。岩塩と山胡椒で炙った鹿肉に、わずかな茶と酒しかないが、何か話があるのであれば聞こう」
「ありがとうございます」
とてつもなく高価そうなドレスであったのに、セシレは躊躇なくガイゼリックの敷き布に座った。その佇まいは完璧な美に近く、また、黒い羽根のドレスは所々がわずかに透けて肌色が見えており、その様子からうかがい知れるこの女の体つきは、おそらく男が望むものは全て与えてくれるであろうとうかがい知れた。
「お望みなら、褥を共に致しますが」
ガイゼリックの考えを読んだのか、セシレは柔和に微笑む。
「待て! わしはそなたを美しいとは思ったが、そんな事は考えておらぬ! しかし、そなたを見て一片も男の心が動かぬかと言えば、それも嘘となろう。すまぬな」
「お気になさらずに、真面目なお方」
しばらく沈黙が続いたが、その間もセシレはどこか嬉しそうにしていた。その様子はガイゼリックの心も次第に揺るがし始めていたが、武骨な武人は努めて冷静にふるまう。
「鹿肉も焼けたか」
ガイゼリックは木皿に数種類の木の実と鹿肉を乗せたものと、発酵を進ませた濃い茶色の茶を木のコップに入れて渡した。
「ありがとうございます」
「それで正直なところ、何が目的でここに来たのだ?」
「先ほどから申し上げておりますが、私の良人となっていただきたいのです」
セシレは高貴な、曇りのない微笑みを浮かべて同じことを言った。
「それが本当にわからぬのだ。わしはそれとも、夢魔の類に夢でも見せられているのか……」
「夢魔ですか? 確かにあなた様ほどの武人なら、夢魔の女王リリス様が推して参る事も考えられましょうが、あの方はもう少し洒落を解する方が趣味のはず。私は……いえ、私たちは、武骨な武辺者とされる方のほうが好みですから、ガイゼリック様のような方が一番良いのです」
ガイゼリックは腕を組み、少し悩んだ。全く理解できないこの状況には、失礼でも直接的な表現で本質を問うしかないが、それをするにはセシレの佇まいは美しすぎ、あまりに無粋かと考えていた。
(いや、元々わしはただの武辺者よ……)
武骨な男は意を決して言葉を放つ。
「非礼を承知で言うが、わしはもう国を息子たちに任せ、側室たちにも十分な今後を保証し、国を捨てた。この旅はおのれと、おのれの武に向き合う、墓標無き死出の旅よ。つまり、版図も地位も名誉も財貨も無い。そのような男に何の価値を見出すというのか?」
しかし、セシレは微笑んで答えた。
「その旅に価値と意味を見出されたあなた様が、私にそれを聞くのですか? 私が心より好ましく思っているのは、その生き方に価値を見出したあなた様の心なのです。何より……」
セシレは少し沈黙し、石榴色の眼から、焚火の火を映した涙がまた幾つかこぼれた。
「心からは、ただ一人の方しか愛さなかった方が、失われたその方の言葉と温もりを探し、時に語らうように、より心を凍てつかせる旅に向かうのを、女としてはとても放っておけないのです」
ここで、ガイゼリックは深いため息をついた。
「……さすがは『美しき人』、詩人セシレよ。我が心をそこまで。……本来なら、この部分にはいかなる女も立ち入らせないのだが、そなたは素足で立ち入るのだな。心貧しい女であれば切り捨てさえするような、我が心の禁足地であるのに。しかし、それでますますわからぬ。そんな男の心に、おのれの部屋はないと分かるはず」
「部屋を頂きたいのではありませぬよ? あなた様は、いわば帰る港を失った気高き船。しかし、たとえ異界の鋼の軍船であろうとも、帰る港を無くした船は、いつかはひっそりと沈むのです。それが嵐の夜なのか、こぼれるような満天の星空のもとなのかは分かりませぬが、それが私には耐えがたき悲しみなのです。この同じ空の下に、私がおりますのに……」
よく泣く女だ、とガイゼリックは思っていたが、その涙に曇りが無く、困惑が続いていた。
「なぜそなたはそれほどにわしを評価しておるのだ?」
「わたくしども、古き女魔メティアなどと呼ばれている上位魔族の者たちは、実際のところは淫らな魔の者ではありませぬ。確かに、少し似たような部分を持ち、殿方に至上の快楽を与える事も出来ますが、いささか本質は異なるのです。私たちは『混沌』よりは少し進んだ、いわば知性ある混沌とでも言うべきもの。世界を生む母なる古き神のようなものなのです。幾つかの外つ世界では、わたしたちをキュベレなどとも呼んでおります。そのような私たちの世界は、いわば光無く冷たき泥濘。その天地と海と陸を分かつには、鈍色に輝く槍の如き、清らかな武人の心が必要なのです」
しばしの沈黙が流れた。
「つまり、わしの心がそなたと交わる事があれば、どこかに新たな世界が生まれると?」
「はい。しかしながら、そのようなお方は滅多におらず、寂しさを詩にして諦めの言葉の花で周囲を飾っておりました。それでも時折聞えてくるあなた様の風評には、しばしば運命を感じておりました。ついには世の多くの者たちが求める物を全て捨てて、墓標無き戦いの旅に出られたと聞き、もういてもたってもいられず……」
ガイゼリックは腕を組んで深く考えた。自分の今の考えも行動も、息子や側室たちでさえ、真には理解していなかった。理解を寄せる者がいたとしたらそれは、、遠い昔に先立った妻だけだろう。自分が建てた国の名の元になった妻、愛しくも失われたシスラだけだった。しかし今、セシレはその妻が言いそうなことを言っていた。
「わしは風聞でしか聴いたことが無かったとはいえ、古き女魔メティアになど、自分の心が揺るがせられる事などあるまいと思っていた。しかし、全くそうではなかった」
「それはそうでしょうとも。これは理解であり、愛ですもの。……美味しゅうございますね、この鹿肉」
奥深い事を言いつつも、武骨な鹿肉を美味しいと喜ぶセシレに、ガイゼリックは何か心温まるものを感じた。
「岩塩と山胡椒をまぶした武骨な間に合わせぞ?」
「切り方も味も、男の人の料理の良さが出ておりますよ? 粗野にして濃いめの味が、今の私には心温まるのです」
「そなた、少し孤独に心をさいなまれ過ぎておらぬか?」
「そうかもしれませぬね。ガイゼリック様、決して邪魔は致しませぬので、その気高き旅に同道させていただけぬものでしょうか?」
セシレはガイゼリックの遠回しな心配を否定せぬまま、驚きの申し出を口にした。
「何を申しておる⁉ そなたのような美しい女が、このような危険な旅に……いや」
強調したい点のずれに気付いたガイゼリックは、続く言葉を言い直した。一人で『万人に敵する』とされる上位魔族の姫は、他国に無断で入る事は軍事侵攻に近いとされる存在だ。危険を説いてもあまり意味が無かった。
「わしとて、枯れかけているとは言えまだ男。わしがそなたに乱暴狼藉を働かぬとも限らんぞ?」
「あなたはそのような方ではございませんでしょうに。……そもそも、我が良人と心に決めた方ですもの。そのような気持ちの時は仰っていただければ良いのです。そこに愛があるのなら、切り刻むような事をされてもよろしゅうございますよ?」
「うーむ……」
ガイゼリックは黙り込んでしまった。何を言っても口で勝てそうには無い。
「なぜそこまで?」
セシレの眼から再び涙がこぼれた。
「貴方がどれほど武を磨いたところで、愛せる誰かがいなければ、港の無い船のように彷徨い続けることになるでしょう。嵐の夜に沈むか、満天の星の夜に沈むか、それだけの違いです。そして……」
囁くようなため息を挟んで、セシレは続けた。
「私もまた、どれほど美しいと言われようと、知られざる場所に咲く、誰も知らぬ花のようなもの。詩としては美しいかもしれませぬが、心ある花だとしたらそれを望みましょうや? 誰にも知られる事なく、愛でられることなく枯れていくのですよ?」
その様子があまりに悲し気で、少しだけガイゼリックの武骨な心が動いた。これほどの美しい女が、それゆえに自分を理解するものがいないと長く嘆き、そんな自分を愛でるに足る男としてガイゼリックを選び、訪ねてきたと言っている。
ガイゼリックは焚火に薪を足した。
「気高く生きれば生きるほど、例えようのない寒さを感じる事はある。わしのような武人は幾らでも戦えばよいが、そなたのような気高い美女には、それは無理であるものな。妥協で孤独を癒そうとしても、そなたにかける言葉と理解全てが穢れになりかねぬ、という事か」
「はい。かりそめの温もりで、真の気高さの無い方と結ばれても、私の世界は穢れていくだけなのです。分かっていただけましたか」
今度は涙を残したまま、屈託のない美しい笑顔を浮かべていた。ガイゼリックはこの女の表情が変わるたびに、戦いで不意の一撃を受けたような揺さぶりを感じていた。これが戦いだったら、自分はとうに負けていた事だろうとも考えていた。
「ふぅむ。わしがそなたほどの女の眼にかなう男とはとても思えぬが、そうして泣かれ、また笑われるのはかなわぬ。同道は好きにすれば良かろう」
「ありがとうございます! 不束者ではありますが、これから永久によろしくお願いいたします。婚姻は求めませぬが、私は今よりあなた様を良人と思い生きてまいります。これで、人知れず泣き続ける日々とも決別できます」
「待て! そこまでの覚悟は求めておらんぞ?」
「あなた様の旅のお覚悟は、これより遥かに重かったはずでございますが?」
「そなた本当に口が立つのう……」
この日以降、のちに『武王』と語り継がれる男、ガイゼリックと、長きにわたり『美しい人』と呼ばれるセシレの奇妙な世直しの旅が始まった。様々な逸話が伝わっているが、この夜の会話を伝える書物はどこにも残っていない。
first draft:2020.10.10
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