鉛の剣士バラク・後編
南方新王国、大プロマキス帝国領ザウーナ自治区、自治省所在地カプア。
円形闘技場は満員を超える観客たちを収容していたが、その様子からは考えられないほどに静寂が支配している。裁判官や審査員、検察官に、本国の監察官なども座す闘技場の中央席では、壮年の裁判官が今回の仇討ちの正当性やその根拠を『拡声』の術式に乗せてとうとうと宣言していた。
「……よって、大プロマキス帝国憲法第十一条、『個人の復讐の権利の保護』及び、古代元老院法第二十一条『法執行の公開性と権利尊重の公開性の保護』を根拠とした、代行人を伴う仇討ちを認め、これより施行する!」
裁判官は巻物を厳粛な仕草で閉じて着席し、儀礼槌を鳴らした。
「仇討人および代理人、入場ッ!」
東西に延びる楕円形をした闘技場の、対面となる大きな格子戸が引き上げられる。緊張している娘を囲うような配置で、バラクと覆面の集団は光と視線溢れる闘技場に進み出た。
夏の日差しの中、それでもわずかな風が時につむじを巻いて、多くの血と汗を吸った闘技場の土ぼこりを巻き上げる。
──バラクだ! 応援しているぜ鉛の剣士!
──今回も見せてくれよ! 『鉛の剣!』
──おめぇこそカプアの誇りだ。戦士の中の戦士だぜ!
観客たちはバラクに熱い声援を送る。
「へっ、熱いな。悪くねえぜ」
バラクは逆光に目を細めて独り言ちた。
「……」
他の覆面の者たちは無言だったが、その空気がバラクの言う事に同意していた。
「来たぜ、あのクソガキが辺境伯の甥って奴か? おーおー、金に物言わせてなかなかメンツ揃えてんじゃねえか」
布を被っていてもそれとわかる、大柄でごつい人物が楽し気に言う。
反対側の格子戸から出てきた集団もまた、中心に高価そうな鎧を着た若い男を囲んでいたが、その男は鎧を着ていると言うよりは着られていると言った方が正しかった。明らかに戦った経験など無く、それでも焦りと驕りのある表情をしていた。バラクが何度か遠目に見た事のある辺境伯の甥に間違いがない。その周囲には、バラクが見た事のない代行人たちばかりで固められてる。
「金に物言わせて裏稼業の奴らを募りやがったな、辺境伯め。人殺しと仇討ちは違うんだぜ」
吐き捨てるようにつぶやくバラク。何度も死地に立ったバラクには、相手の代行人たちの腕がある程度うかがい知れていた。辺境伯の甥の代行人たちには、しばしば代行稼業で相まみえる、裏社会の戦士たちの冷たい空気が漂っている。
双方の集団は木杭で囲まれた天幕の前に整列した。代理人を交えて戦う場合は、怪我人や戦意喪失者はこの天幕内に退避すれば攻撃対象から外されることになっている。
ここで、円形闘技場の中央席そばにある大銅鑼が、てかてかと黒く日焼けした上半身裸の太った男によって鳴らされ、銅鑼が太陽の光をわずかに乱した。
「これより、一部代行人の名を読み上げる! なお、今回の代行人の名乗りは、仇討申請人側のみである! ……まず、魔の国キルシェイドの勇猛なヴァスモー(※いわゆるオークに似た種族)の戦士、ギュルス!」
「っしゃあ!」
大柄な人物が勢いよく布をはいだ。筋骨隆々の緑の肌に、重い鉄の丸盾。猪系統の顔をしたヴァスモー族で笑顔だが、凄みのある陽気さが漂っている。
──魔の国のヴァスモーだ! 本物だ!
──普通のヴァスモーとは違うな! 身体がでけぇ!
「へっ、オレ様は強そうだろうが! うおーっ!」
ギュルスは歓声にこたえるように、斧と鉄の丸盾を高く掲げた。より一層歓声が上がる。
「続いて、魔の国の麗しい女戦士、ミッシュ!」
「はーい!」
布をはいで現れた現れた女戦士の姿に、ギュルスへの歓声が違う種類のものへと変わってしまった。嘆息と欲望交じりのそれに、ギュルスが驚いて言葉を失う。ミッシュと紹介された長い黒髪の女戦士は、いささか進歩的に過ぎる水着や下着と変わりない、非常に露出部分の多いもので、上位黒曜石の防具は胸と股と肩程度しか隠しておらず、あとは白いマントのみだった。
その輝くような白い肌を隠さずに、女戦士ミッシュは両腕を掲げて愛想を振りまいている。闘技場にはらしからぬ口笛や下卑た声援も飛ぶが、ほとんどは極めて好意的な雰囲気ばかりだった。
「あっ、なんて格好してんだよミッシュさん、おれの歓声が!」
「男が細かい事を言うもんじゃないわ、あなた百人隊長でしょ?」
笑顔から一転、振り向いて不機嫌な顔をするミッシュ。
「続いて、『麗しの戦乙女』ケイラ!」
「私の出番ね!」
次に布をはいで現れたのは、白い羽の飾りを多くしつらえた銀の鎧に身を包む、金髪の女戦士だった。物語に出て来る戦乙女さながらの姿に、観客たちからは神々しい何かを見たような歓声が上がる。
「さあこれで、肌を見せれば喜ぶ観客たちと、美しいものを見て喜ぶ観客たちの両方の心を掴めたわね。肌見せ担当を進んでやってくれる得難いお友達には感謝しかないわ」
ケイラはさわやかにミッシュに対しての皮肉めいた軽口を混ぜていた。これに気付いたミッシュから得意げな表情が消える。
「肌見せ担当って言った? しかも私への歓声が……ちくしょう!」
「ぐふっ!」
ミッシュの悔しそうな言葉にギュルスは吹き出しかけたが、ミッシュの目が赤く光ったのを見て慌てて目をそらした。
「続いて、魔術師ネーレ!」
「女の敵を倒すのは女の仕事よ。よろしくね!」
ゆったりした女魔術師用の暗い藍色のローブドレスと、同じ色のとんがり帽子。しかし、美しい腕と胸元が露出し、スカートも深い切れ込みが入っているため、かえって注目を集めている。今度は主に貴賓席や貴族階級の年配の観客から声が上がった。
「私は年配の方々を担当させていただくわ。さあ、これでカプアの殿方の心はほぼ全て掴めたわね。すべからく男心を取りこぼしてはいけないわ。慈愛とはそういうものよ」
一番若いはずなのに、妙に歳の功を感じさせるネーレが、またも年配の男性好みの装いをしている。しかし、ミッシュが余計な事を言った。
「まーたこの子ったら乾物趣味(※いわゆる枯れ専趣味の事)丸出しで……」
「それは味わい深いという意味かしら? それなら確かに同意するわ。奥深く熟成された男の人の心の味わいは良いものね」
「うまい事言うわね……」
ネーレの年配男性趣味を揶揄するミッシュに対し、その奥深さで切り返すネーレ。
「えー続いては……人の心を持つ熊の戦士、ゴーガー!」
「ゴアッ!」
四つ足の大きな姿が布を剥ぎ、いぶし銀の鎧を所々に身に着けた黒い熊の戦士が立ち上がる。今度は驚きとどよめきが観客席から上がった。
──熊だ!
──人の心だって?
──鎧を着て立っているぞ!
「ゴーガー、向こうの仇討人を次々とぶっ飛ばすのよ? いいわね?」
「ゴフッ!」
ミッシュの呼びかけに勇ましく応じるゴーガー。その大きな姿に、辺境伯の甥の仇討代行人たちもさすがに動揺を隠せない。
「次、ベオ・ヤイヴ(※緑肌の小型の亜人上位種族。いわゆるゴブリンに似ている)族の戦士、『影の爪』ラズロウ!」
小さな人物が布を剥ぎ、鎖帷子と両手の手甲鉤が特徴的なヤイヴの戦士が姿を現す。ギュルスの飲み友達であるこのヤイヴは、魔の都の有名な戦士の一人だった。
「へへっ、たまには目立つ戦いも悪くねぇぜ、ありがとよギュルスの旦那ァ!」
ラズロウはこれ見よがしに長い舌で手甲鉤を舐めて見せ、狂気じみた闘争心を演出していたが、この様子が明らかに観客を引かせている。
「へっ、はしゃぎすぎて命を落とすんじゃねえぞ?」
「旦那こそ!」
こうして、名前の申請をしていた代行人の紹介は終わり、辺境伯の甥側は誰一人として名前を出さなかった。戦力に優れるバラク側は他に二人、覆面のままの人物がいたが、この二人は魔の都の闇の古き民のラグと、『キルシェイドの眠り人』ルインに仕える眠り女の一人、教導女シェアだった。
裁判官が大きめの儀礼槌を持って厳かに立ち上がり、闘技場に静寂と緊張が漂う。
「これより、仇討ちを開始とする。戦闘の刻限は日没まで。勝敗は全滅または双方同意により決することとする。……始めっ!」
儀礼槌の音が鳴り響き、さらに大銅鑼が鳴り響いた。
「やるぞ! ぶちのめしてやる!」
バラクの声に全員が答える。辺境伯の甥側は三人の戦士と一人の魔術師が甥を囲い、指揮役らしい男が他の九人の戦士を指揮している。
「おいみんな、気を抜くなよ? 奴ら、あと一人助っ人を隠してやがるようだ」
代行人の総数は十四人。しかし、申請は十五人だと聞いている。この異常にバラクが気付いた。届け出さえ出していれば、必ずしも戦闘開始時に全員がそろっている必要が無く、時に奥深い駆け引きにもなるのが大プロマキス帝国の仇討の特徴でもある。
バラクは何か嫌な予感がしていた。既にこの状況は辺境伯の体面は潰されかかっている。一方で、意にそぐわぬ者への報復はしっかり考えている可能性が高いと感じていた。
「へへ、何がどれだけ来ようが同じだぜ! みんなひき肉にして玉ねぎと混ぜ込んでやらぁ!」
「山胡椒を混ぜるのも忘れずにね!」
ギュルスの心強い言葉にラグが合いの手の言葉を放つ。。
長めの槍を手にした三人がゆっくりと進み、その間に三人の長柄の武器を獲物とする三人。その背後に、剣や斧など短柄の武器を持った三人が続く。これは大人数での仇討での伝統的な構成だった。多くの場合は、ここから双方が長めの槍での叩き合いになり、しびれを切らした側から隊列が崩れ、次第に乱戦へと移行していく。
「へっ、いつも同じじゃ面白くねえだろ!」
ギュルスの突進に合わせて、覆面のラグと熊のゴーガーが隊列の右側に走り、素早く何かを投げた。鈍色に光るそれは蜘蛛の巣のように展開した戦闘用の投げ網で、辺境伯側の集団にかぶさる。
「今だよ、ゴーガー!」
ラグは掛け声とともに、ゴーガーの口に投げ網の端部をくわえさせる。
「ゴアッ!」
ゴーガーの疾走と共に投網は引き絞られて集団をひとまとめにした。
「くそっ! いきなり網だと⁉」
舌打ちや罵声を吐くが、熊の力には逆らえず、集団は引きずられ始める。
「おらおら、とっとと抜けねぇと焼き魚にして食っちまうぞ!」
ギュルスは挑発しつつ、鉄の丸盾に斧をガンガンと当てて駆け寄り始めた。
人なる熊、ゴーガーに引きずられた集団の長柄武器の穂先は、丈夫な網に絞られてきらきらと穂先を上にまとまる。それを見逃さなかったギュルスは、鉄の丸盾を構えてぶちかましを仕掛けた。この攻撃で三人ほどが転び、武器の短かった後列の三人が網から抜け出す
「さあ、切り花の時間よ!」
ミッシュとケイラも続いて、槍と長柄武器の柄を切り落とす。魔の国の磨かれた剣は使い手が適切に揮えば、長柄武器の茎ごと切り落とせる業物が多かった。美しい二人の予想外に鋭い剣閃に、観客たちから喝采が上がる。
「くそっ!」
網の中からそれでも切られた柄で戦おうとする者もいたが、振るたびに斬られて柄が短くなるありさまで、抵抗の意味を成していない。
「戦いの経験が違い過ぎるな。網の材質もいい。やっぱり魔の国は別格だぜ。敵じゃなくて良かったってところだが……」
バラクは落ち着かない娘に聞こえるようにつぶやいた。
一方的な戦いに、辺境伯の面目は今のところ丸つぶれで、観客たちから熱狂的な歓声が上がっている。経過は順調だが、しかしバラクは仇討人の娘の護衛をしながら注意深く見守っていた。一人だけ足りない相手方の助っ人が気になっていた。
「皆、気を付けてくれよ? 順調な時ってのが一番やべぇからな!」
バラクの呼びかけに対し、それぞれが声を上げて応じる。士気が高く、また注意を怠っていない確認でもあり、状況は決して悪くなかった。網に囚われた代行人たちは一人、また一人と降参をし、天幕に退場していく。
(気に入らねぇ流れだぜ。何かがおかしい……)
バラクの長年の勘が何かを訴えている。バラクはおもむろに、背中から大きなぼろ布の包みを取り、その布を剥いだ。現れたのは妙に幅の広い、切っ先にのみ鋼の刃のある歪んだ鉛製の大剣だった。
──鉛の剣。
ウロンダリアにおいて、魔法の力を打ち消す鉛で作られた抗魔法の剣。剣と言うには鈍器に近いそれは、ほとんどの魔法を打ち消せるものの、武器としては全く洗練されていない。しかし、仇討ち代行に一人だけ参加させられる魔術師を、権力者や金持ちは高確率で参加させており、これを打ち消せるこの剣は、仇討ち代行では特別な意味を持っていた。
(頼むぜ、相棒!)
バラクはこの重くゆがんだ剣を構え、辺境伯の甥側の代行人たち、特に魔術師らしい男を睨んだ。鉛の剣の刃越しに見るその男は、陽炎のような透明な揺らめきを伴い、何らかの魔術を行使している気配がある。
「魔術の気配だ! 皆気を付けろ!」
このバラクの言葉に、魔術師は指揮役らしい男に声をかけた。男は腰から巻物を取り出し、バラクの背後に投げつける。
「何かやべえ! 助太刀するぜ」
いち早く、ヤイヴの戦士ラズロウがバラクのそばに走り寄った。
「転移解放!」
魔術師の声と共に巻物は何らかの転移術式の光となって展開し、大きな人型に光り輝く何かが現れた。
「娘さん、こちらへ!」
覆面のままのシェアが、何が起きたのかをまだ把握していない娘の手を取って走った。
「今だ! 全員巻き返すぞ!」
甥側の指揮役らしい男が声を上げると、甥の周囲を固めていた男たちも武器を抜いて走り出した。優勢だが人数で劣るバラク側は全員を足止めとはいかない。さらに、魔術師が杖を掲げて魔法の矢を放った。
「いけない!」
シェアが娘と共に地面を転げる。しかし、シェアの予想に反して、数本の光り輝く魔法の矢の全てがバラクを標的としていた。
「そういう事かよ!」
バラクは腰をわずかに折り、前かがみに肩をすくめて剣を構えた。一見不格好だが、鉛の剣で身体の急所の多くを護れる構えでもある。そして、見もせずに長年の勘で鍔迫りのように鉛の剣を押し出す。魔法の光が炸裂して、全ての魔法の矢が霧散した。
しかし、次の瞬間に何者かがバラクに体当たりをし、よろめいたバラクの背後を何かが恐ろしい勢いで通り過ぎる。
「バラクさん、でかい人食い鬼だ! 危なかったぜ!」
体当たりをしたのはラズロウ。冷や汗と共に笑うその視線は、バラクと共に正面の巨躯に向かう。
──錆び岩肌の人食い鬼。
人の二倍ほどの屈強な上背に、赤錆びをまぶした岩のような肌。二本の角のある原始的なごつい面長の顔には、知性は無いが凶暴さが溢れている。そのオーガーは棘のある鉄輪をいくつも嵌めた大きな棍棒を持ち、既にこの状況に興奮して涎を垂らしていた。
しかし、老戦士バラクの口角が嬉し気に上がる。
「辺境伯め、おれだけはぶっ殺してえって考えか! 上等だぜ豚野郎。クソにどれだけ香水ぶっかけようがクソなように、お前の腐った腸ァ、引き裂いて豚みてえに逆さ吊りにしてやらぁ!」
「援護するぜ、バラクさん!」
老戦士の闘志にラズロウも高揚して答える。
「皆、あとの雑魚どもは頼んだぜ!」
それぞれの高揚した返事が乱戦の中から返ってくる。
「ラズロウ、こいつの獲物はおれのはずだ。おれはこいつの棍棒をよく見ていなす。おめぇは隙を見てこいつの目を潰してくれ!」
「わかったぜ!」
バラクは脱力して鉛の剣の切っ先を地面に落とした。ここぞとばかりにオーガーが棍棒を大振りする。バラクは年齢からは想像するのが難しい柔軟さで腰を落とすと、引き足を取って上体が膝に着くほどに腰を折り、強靭な足腰で回転した。その頭上すれすれを恐ろしい勢いで棍棒が通り過ぎる。ちょうど、オーガーにはバラクが背を向けたように見えていた。
「今だ!」
「おうっ!」
ラズロウはバラクの背を踏み台にして跳躍し、オーガーの右目に手甲鉤を突き刺して離脱する。棍棒が転がり、オーガーは涎をまき散らして苦悶の叫びを上げた。バラクは低い姿勢のまま鉛の剣を引き、次は竜巻のような足さばきで回転すると、独楽のように移動してすれ違いざまにオーガーの踵の腱を断ち切った。
「ガアッ!」
何が起きたのかわからず、眼を押さえたまま片膝をつくオーガー。その両手首に鉄輪と鎖を見止めたバラクは、このオーガーが何年か前に地方の村を襲って捕縛された個体だと気付いた。
(なら、情けは要らねぇな!)
回転の勢いを上げ、かするようにオーガーの首に一筋の切り込みを入れると、バラクは回転を止めて鍔と柄を握り直した。
「この剣はおれと同じく、古くていびつで鈍らだ。だがよ、絶対に折れねぇ鋼の芯がある!」
バラクの渾身の横平突きが、オーガーの斬られた皮膚から首を貫き、オーガーは溺れた人のようにもがいたのち、土ぼこりを上げて倒れた。
予想外の展開から静寂していた闘技場に、すさまじい歓声が上がる。倒れたオーガーを見下ろしながら肩で息をするバラクに、周囲を見ていたラズロウが声をかけた。
「ケリは大方着いたみたいだぜ、バラクさん」
「みてぇだな」
ギュルスやミッシュの奮闘と、オーガーが破られたことにより、代理人たちは次々と降参の意思を表明した。辺境伯の甥はすぐに捕らえられ、顔面蒼白で言葉を失っている。
「娘さん、あとはあんたの番だ。復讐を果たしたらいい」
シェアに付き添われていた元使用人の娘は、口をきつく結んで小剣を抜いた。観客席からは『殺せ!』と規則正しい連呼が起き始めている。
「やめろ! やめてくれ! 本当に悪かった! いくらでも補償する! だから、命だけは……!」
辺境伯の甥は涙目で震えながら慈悲を乞う。しかし、バラクはそれを打ち消すように無慈悲な事を言った。
「娘さん、緊張してて何度も刺してもうまくいかないと、かえって下手人を苦しめちまう。小剣なら目をぶっ刺して頭ん中をぐりぐりやれば、わりと楽に殺してやれると思うぜ? このガキは既に死刑相当って事なんだ。だからまあ、悔いのないように殺すなり何なりしたらいい」
「やめてくれ……」
バラクの残酷な言葉に、辺境伯の甥は命乞いする顔からも生気が無くなってしまった。元使用人の娘は小剣を構えてしばらく緊張していたが、やがて大きく息を吐くと、小剣を落としてしまった。
「何だか、人を憎むのも殺すのも、とても疲れます。もう何もなくなってしまって……」
この様子に、辺境伯の甥はようやく、自分がしでかしたことの大きさに気づき始めた。
「やっぱり殺してくれ……」
「皆さんと、私に、十分な補償をして、最大限罪を償ってください。残りの人生を、私の父と母に償うために生きて下さい! もう私は、何も考えたくありません。何もなくなってしまって、さらに誰かが死んで、何がどうなるものでもないですから……」
辺境伯の甥はこの言葉に、額を地面に擦り付けて嗚咽した。
「娘さん、本当にそれでいいんだな?」
バラクは戦いに臨むような眼で娘の目を見た。娘の目は暗い悲しみに満ちていたが、返事はよどみなかった。
「はい。本当にありがとうございました」
「あんたの考えを尊重するよ」
こうして、カプアの街をしばらく賑わせていた事件と仇討ちは終わり、約束通り『ブロッキーの折れた剣』はバラクの奢りで大変ににぎわった。しかし、バラク自身はその場に顔を出す事は無く、多くの戦士たちが返礼にとバラク用に店に預けた酒が、専用の棚で一つ分にもなった。
さらに、実質は州長官に過ぎない辺境伯の罷免や調査が大規模に行われ、カプアは本国から派遣された新しい州長官が監督することとなった。
それから十日ほど後。
鎖の男デランは『ブロッキーの折れた剣』に全く姿を現さないバラクについて、店主に尋ねていた。
「バラクはあれからもずっと店に来ないままか?」
『三代目ブロッキー』と呼ばれる、太った糸目の店主は皿を洗う手を止めずににこやかに答えた。
「はい。仇討の日に、皆さんにお大尽をするにしても十分すぎるほどの代金を頂きましたが、バラクさんはこう仰っていました。『しばらく酒を飲む気にならなくなる時がある。今回は少し長くなりそうだ』と」
「そうかい。あいつらしいぜ。たまにそうなるんだよなぁ」
デランはバラクを称える文言が書かれた酒瓶の並ぶ、バラク専用の棚を見やりながらつぶやいた。
「また一緒に飲もうぜ、バラク」
カプアの街に、束の間の静寂が訪れていた。
first draft:2021.08.25
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