陽炎の憂い・前編
無限世界の遠い昔。界央の地を取り巻く十の『至聖下の地』の一つ。『栄光』の地平、ホーダー。
後の時代に『原初の大征伐』と呼ばれる原始世界の平定を行った神々は、そのほとんどがこの地に集結していた。神々の武威によって嵐の如く陰る空には無数の青白い稲妻が走り、術式で形成された雲をも貫く半透明の軍旗は彼方まで並び、武神や戦神たちの外套のように勇壮にたなびいている。
大地は全て神々の軍勢とその兵士たちの煌びやかな甲冑と武器の光で満ち、空にも巨大な古き竜や天翔ける馬、翼ある蛇などを主とする大軍勢が幾層も整然と並んでいる。さらに神々の権能で見据えれば、星の海にも偉大なる言語の力で翼を広げては虚無を駆ける無数の星船がひしめいていた。
今、『界央の地』との対話の為に建造された、多くの世界の山々よりなお高い神の構造物『栄光の壇』に、特に優れた戦働きをした神々が整列しており、この地に集う多くの神々や兵士たちはこの壇上に集う神たちを注視していた。
──静粛に。
白い光の柱が天から降りた。厳かな声が全ての者の心に響き、いかなる蛮勇に満ちた神々も思わず頭を垂れる。
──我ら『界央の地』はこれより、此度の大征伐における功を論じた末の賞を与える。
神々の間に、期待と羨望の空気が見えない波のように広がる。『界央の地』の声はわずかに場が収まったのち、話を続けた。
──此度、特に目覚ましい働きをしたのは、古きハシュト火山に闇の王ゴルムオーズを倒し封じ込めた『陽炎の武神』マリーシアであろう。マリーシアよ、進み出でて賞を受け取るが良い。
『栄光の壇』にいた神々はある一点に視線を向けた。無数の視線の先、炎のようなたてがみを持つ白い馬に騎乗しているのは、流麗な暗い銀の鎧に深い藍色の外套が映える甲冑姿の武神だった。その武神は堂々とした姿にもかかわらず、甲冑の曲線は至美の女性の体の線そのもので、兜を脱いでこぼれた黄金にけぶる髪と共に現れたその顔は、きつく一線に結ばれた口元の威厳を凌いでなお美しいものだった。
──無限世界最強と噂される、陽炎の武神マリーシア。
歴戦の神々、特に男神たちはマリーシアの美しさと威厳に息を呑んだが、当のマリーシアはそのような空気を寄せ付けない静寂が漂っており、瞳孔の見えないその瞳は南国の海のように青く澄んだ光に満ちて、全く感情が読めなかった。
──武神マリーシアよ、望む物を言うが良い。そなたは『界央の地』において偉大なる聖魔の王の妻となる事も許されよう。
多くの男神たちから残念そうな空気が漂った。しばしの静寂の後、きつめに結ばれた口をわずかに開いて、マリーシアは威厳漂う声で思いを述べる。
「叶うなら、私の父と母の名を知りたく存じます」
──それらは闇の者どもが全て消し去ってしまい、もはや何も無い。幼子であったそなたを我々が保護し、それが今日のこの栄誉をもたらしたのだと思うと感慨深いが、伝えられることは無いのだ。
再びしばしの沈黙が漂う。
「ならば、私にかのハシュト火山のある地に住まう事と、行き場を失った民たちをあの地が受け入れられるように、ささやかな祝福と道をお示しください。また、我が戦友たるアラレスが永遠にわが友でいられる祝福と」
マリーシアはそう言いつつ、わずかに笑みを浮かべて愛馬の首を撫でた。この時、威厳ある武神の美しい笑みに多くの男神がその心を射抜かれたが、続くマリーシアの言葉は恐ろしく意外なことだった。
「また、私に求婚を持ちかける者はその武にて見極めたく。よって、私との戦いに敗れて彼らが怪我を負い、または死しても罪に問われぬ約定を望みます」
──それらささやかな希望は全て是としよう。全てこの瞬間より有効である。
「ありがたき幸せ。身の引き締まる思いです」
──そなたの働きに対する報奨はこれではとても釣り合わぬ。しかし、そなたの心中にこれ以上の願いは見当たらぬ模様。故に、そなたはあと三つの願いを申し出る権利を有していると認めよう。
「身に余る光栄、深甚の至りです。早速、新たな地に向かおうと存じます」
マリーシアは深々と礼をすると、すぐに馬首を返して空に飛び立ち、その姿を消してしまった。多くの男神たちの失望や困惑、驚きの空気が伝播していたが、一顧だにしなかった。
闇の王ゴルムオーズが支配していた見捨てられた地、『ウダル・カ・ラ』。
かつては焼けただれた死人の肌のように荒廃した大地に、巨大なハシュト火山は穢れた血膿を垂れ流す腫瘍のように悍ましくそびえていた。しかし『原初の大征伐』のおり、闇の王ゴルムオーズとその勢力を滅さんとする神々との戦いにより、神聖なる天の隕石が何度も降り注ぎ、古龍たちの原初の雷火で焼かれ、女神たちの清めの雨が降り注いだこの地は、今は和毛のように若草の芽吹く穏やかな地に変質しつつあった。
白馬アラレスと共にハシュト火山の火口の縁の大岩に降り立ったマリーシアは、甲冑を脱ぐと地味な作業着に着替え、まずは鉄を採取して良い道具を作ることから始め、次に石を切り出して神殿や街、水路を作ろうと考えた。そこに、マリーシアの武名を慕った農耕や技術の神々と様々な民たちがこの世界に渡ってきて、やがて世界の隅々にまで人は拡大した。
また、マリーシアを妻にしたいと多くの名だたる軍神、武神が訪れたが、結局のところ誰もマリーシアに勝つことはなく、やがて訪れる神は居なくなった。
次第に文明は発達し、時に大きな戦争も何度も起きた。戦いの中で武人として何かを問う者たちはマリーシアの神殿を訪れ、時には挫折し、時には何かを掴んで、中には歴史に名を刻む者たちもしばしば現れた。それでも長い年月は過ぎに過ぎて平和と共に人々が神々の姿を忘れた頃、マリーシアは世俗の仕事に近い神々たちに人間たちの事を任せ、愛馬アラレスと共に自分の領域へと引きこもり、永遠に等しい思索をする事に決めた。
それから更に長い年月が過ぎた。既に人々に寄り添う農耕や技術の神々も忘れられて眠りにつき、大きく繁栄していた人間たちは自分たちの問題を自分たちの力で解決するだけの気概を持っていた。
人間たちは発達した学術により、聖なるハシュト火山がいつか再び破局的な噴火を起こす可能性があると気付き、これを止める必要があると考え、巨大な溶岩の迂廻路をいくつも作って溶岩を逃がし、火山の圧力を下げる大事業を開始した。この困難な大事業は難航したが、それでも人間たちは経験と技術を蓄積させ、高温に耐えて自動で動く機械を作り出して継続し、ハシュト火山の溶岩の圧力は下がり始めた。
やがて人間たちは、火山の溶岩の中に大小さまざまな高温でも溶けない未知の金属で組成された隕石を発見し、この物質を解析して飛躍的に文明が発展した。いつからか再噴火を止める事業はこの隕石を掘りだす事業へと性質が変わり、この金属と関連した技術を持つ組織と持たない者たちの間で大きな格差が発生し始めた。
ある日、ハシュト火山の火口深部に見いだされた広大な隕石塊の採掘が自動機械で半分以上進んだ頃、突如として大災害が発生した。
地震と共に隕石塊は溶岩の海に沈み、溢れた溶岩は各導入路を満たして焼き溶かし、地盤そのものが広範囲に溶岩層に陥没して連鎖的に破局的な噴火が始まった。この時、人々には噴火の中で溶岩が一瞬黒く染まる錯覚を見、恐ろしい笑い声のようなものを聞いた者たちも少なくなかった。
世界は噴煙によって闇に閉ざされ、常に火事のような臭いが満ち、かろうじて噴火の直接の被害を避けられた人々は肺を蝕まれ、また清浄な水や食料も手に入らなくなった。闇の中には何か恐ろしい生き物が潜んでいるようで、惨たらしく食い殺された死体が多く見られるようになり、闇の中で奇声を上げて動き回る得体の知れない者どもも闊歩するようになった。
この噴火の時、大岩の上に建っていた堅牢なマリーシアの神殿は中にいたわずかな信徒たちともども吹き飛ばされ、だいぶ離れた山間の洞窟そばに落下した。奇跡的に軽傷の者たちしかおらず、信徒たちはマリーシアの加護が今でも生きていると涙した。
破局的な噴火からひと月以上が過ぎた。マリーシアの神殿とそれを載せた大岩、そして鍾乳洞のある洞窟は、破局を迎えた世界で唯一の避難所の役割を果たしていた。噴煙だけではない異様な闇が世界に立ち込め始めていたが、反してマリーシアの神殿とその周囲の洞窟だけは暖かな波動と不思議な光を放ち、多くの人々が救いを求めてすがるように集まってきていた。
マリーシアの神殿と教えを維持してきた神官と巫女たちは、破局的な噴火で飛ばされたのに神殿ともども無事だった奇跡にマリーシアの意志を感じ取り、闇に閉ざされた世界でも精力的に人々の救援を続けていた。しかし、地獄と化した世界の現実は何も変わらず、洞窟と神殿に避難民を受け入れ始めたマリーシアの信徒たちは、日々自分たちの無力さに涙し、人々には絶望が重く漂い始めていた。
ある日、大変な数の避難民がマリーシアの神殿に一気に押し寄せた。遥か南方、ハシュト火山近くの大きな街の人々は、自分たちの街を蹂躙する巨大な化け物と、その化け物の周囲にいる残忍な有翼の怪物たちの話を震えながら話した。爛れた灰色をした細身の怪物たちは、人をさらっては暗い空に連れ去り、やがて恐ろしい悲鳴と断末魔の後に惨たらしく食い荒らされた死体だけを落とすといい、いずれそれらがこの神殿にも来るだろうと絶望的な予測を立てていた。
そして、その日は来た。
マリーシアの神殿はついに魔物たちの猛攻にさらされ始めた。灰色に爛れた肌をし、手足の長い有翼の魔物の大群は頑丈な石の壁を削るほどの爪を持ち、人々は手製の弓や、わずかに残っていた熱線を放つ銃などで対応していたが、おそらく空を埋め尽くすほどの騒々しく邪悪な気配が闇の彼方に満ちており、長くは持たないと思われた。
魔物たちの猛攻が続く中、年老いた神官と戦う力のない巫女たちは祭壇に飾られた鏡と、マリーシアの遺物とされる三頭の龍の彫られた精巧な水晶の六角棍に祈りをささげ続けていた。
おそらく深夜。魔物たちの猛攻はぴたりと止まった。戦っていた人々と神官、そして巫女たちは疲れた顔を見合わせ、この静寂に喜ぼうと束の間思ったが、何か巨大なものが歩き寄る地響きに気付いて、それが絶望の前の静寂だと気付いた。
その巨大な何かは、あれほど堅牢だった神殿の石壁を地獄のような雄叫びと共に粉々に粉砕し、ゆっくりした滝のように落ちる石の粉の向こうから、地響きを伴って巨大な存在が現れた。
気丈なマリーシアの巫女や神官、魔物と戦っていた戦士たちの誰もが恐怖で動けなくなった。血色の大きな爪を持つ四本脚と胴は鋼のような黒い鱗に覆われ、そこから生えた屈強な猿のような上半身は黒い針金のような毛が生えており、弓のような赤い角の生えた頭もまた黒い。
憎悪に燃える赤い目は濁った血の色で、牙だらけの口には人の服の残骸と血のぬめりがこびりついている。何より恐ろしいのは、腰や肩にかけられた鎖に肉吊り鉤で吊られた何人もの人間の死体だった。誰一人として恐怖で動けなかった。その手には虚ろな口を開けて厭らしく笑う彫刻のされた巨木の棍棒が握られている。
巨大な化け物は吠えるように名を叫び、その声は多くの者たちの心を握りつぶすように恐ろしかった。
「我こそはこの地の王、ゴルムオーズなり!」
──封じられていたウダル・カ・ラの闇の王、ゴルムオーズ。
ゴルムオーズは手にしていた巨木の棍棒で、腰が抜けて動けない男の一人を雑に薙ぎ払おうとした。しかし、気丈な巫女の一人が弾かれたように走り出て男を体当たりして飛ばし、身代わりとなったこの巫女は祭壇に打ち飛ばされてしまった。
人々はここで我に返って叫びをあげ、神殿の奥へと逃げ始める。何人かは崩れる祭壇と巫女に目をやったが、それでも助けには寄れなかった。ただ一人、老神官だけは崩れた祭壇を庇う様に、錆びた剣を手にして巨大な闇の王に立ち向かう。
「よくもわが孫を!」
老神官は悲しみと怒りに震えていたが、闇の王は羽虫にでもそうするように再び棍棒を振り下ろす。
人々が次の瞬間に起きるであろう事の惨たらしさに目を閉じると、大音響と共に神殿が揺れた。
──何だ⁉
闇の王ゴルムオーズの驚きの声に皆が目を開けると、驚いて固まった老神官と、その前に立ち上る青白い光の柱、そして神殿の天井にめり込んだ棍棒が落ちてくるところだった。ゴルムオーズの巨腕は何かに弾かれたように上に伸び、その先に棍棒があった。
「何が?」
老神官も人々も驚いていた。青白い光の柱が消えると、そこには先ほど打ち飛ばされたはずの巫女、老神官の孫でもある若い娘が水晶の六角棍を手に微笑んで立っていた。
「神官様、いえ、お爺様。私は大丈夫です。マリーシア様が守ってくださいました。そして、『これより災いを取り除く』と。しばし私はマリーシア様に身体をお貸しする事となります」
「何と⁉」
若い巫女はそう言って微笑んで闇の王ゴルムオーズに向き直り、青白い炎がその身を包むと、燃えるような金髪に流麗な暗い銀の甲冑を身に着けた女の姿が現れた。神殿は祭事の時のような厳かで神聖な空気に満ち始める。
──陽炎の武神、『最強の幻像』女神マリーシア。
瞳孔の無い南国の薄水色に輝く瞳をしていたマリーシアの目は、瞳孔のある目に一瞬戻って素早く周囲を見回した。
「私があの戦いの記憶をたどって修練していたわずかの間に、もう世界はこのように。しかし、世界もまた戦いと同じく時には死地巡るもの。嘆くには値しない。困難は戦いととらえ、挑めばよいのだ。そして挑み続ける限り、天命は輝き続けよう」
人々の心に不思議な強い力が湧き上がり、絶望が追いやられ始めた。
「何と、何と力強い言葉を!」
老神官はこの言葉に強い感銘を受けていた。
「だが、まずは……」
マリーシアの左の籠手に、小さな尖った鈷のついた細い鎖が巻き付いて表れた。
「お前を完全に殺しておこう、ゴルムオーズ」
このウダル・カ・ラの地のみならず、のちに無限世界に長く語り伝えられる伝説の戦いが始まろうとしていた。
first draft:2023.1.22
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