雪の白、血の紅

雪の白、血の紅

──世界は愛に溢れているけれど、人の心には愛がない。私の心にも。

──冷たいディレニスの碑文より。

 無限世界イスターナルの辺境、冷たいディレニスという世界。

 黄金のよろいを着こんだ主神にして王、戦神せんしんコルベックは、快晴なのに下がり続ける気温に、かねてから抱いていた危惧キグがおそらく現実のものとなると覚悟を決めていた。

「氷の魔女め……わしは真に愚かであった。そう、これは報いだ……」

 コルベックの黄金の長いひげが冷たい風に揺れるが、声もまた冷気以外の何かで震えている。

「王コルベック、外に出ないでください。あのみ子は戦神いくさがみでもある我が子たちが必ず討ち取りましょう。バルデスがあの娘に討ち取られたという報せもきっと間違いです」

 コルベックの鎧の着こみ具合を見ていた、長い腕も美しい美しい女神が励ますような声をかける。コルベックが最も愛していた側室にして歌の女神だった。

「そうであるといいな」

 コルベックは罪を宣告された者のように力なく笑うと、それでも蒼天の下、主神が座すべき玉座に向かった。

「快晴たれ!」

 いつもなら晴れ渡るはずの空は冷たいかすみに覆われたまま応えない。はるか上空は太陽が輝く青空だというのに、舞う粉雪は次第に濃くなり、大階段や玉座脇の見事なダギドラゴンの彫像は、白く霜が降りて凍てつき始めていた。主神コルベックは白い溜息を吐いて震える。

「氷の魔女の娘よ、お前は全てを知り、あれを手に入れ、わしを殺しに来るのだな。……バルデスでは甘かったか……!」

 このディレニスの全能の神にして主神であるコルベックは、その息子、戦神にして全能を受け継ぐはずだったバルデスが既にその花嫁に殺されたであろうことを理解していた。腹違いの娘と息子の婚姻。世界がほぼ滅亡し、神々も衰退した今、苦肉の策を娘は受け入れなかった。

「いや、これは正統な復讐か……」

 コルベックはあきらめたように笑う。遥か彼方の山脈は今や冷気の霞に包まれ、その形が見えなくなった。その上空に大きなディレニスの雪鳥ゆきちょうが現れると、氷のような碧色へきいろの光が一閃した。

「あの光は……!」

 コルベックの座すグラネクサルの王城は一瞬で全てが凍り付き、生者の気配はことごとく消えてしまった。冷たい霞が晴れると、山脈と王宮の間の平原には目出めだかぶとと鎖の鎧を着こんだ氷の巨人たちの大軍勢が現れており、静かな地響きが次第に大きくなりつつあった。

 ダギドラゴンの像の牙から長く垂れた氷柱が、その牙が折れるように落ち、砕ける。その音はコルベックにとって全ての終わりを象徴していた。自分だけが生かされているその意味を理解したコルベックは玉座を立って大階段を降り、ダギと神々の像が交互に並ぶ荘厳な広場に降り立った。そこに、ふわりと大きな尾の長い雪鳥ゆきちょうが舞い降りる。

「サリヤよ、戻ったのか」

 雪鳥から血に染まった花嫁衣裳を着た女が降りてきた。雪の結晶を纏う、金とも銀ともつかない美しい髪は冷気で白く染まり、その眼は氷の冷たい青なのに怒りの涙にけぶっている。

「父だった者よ、全ての清算に参りました。この弟だった者のように」

 サリヤと呼ばれた女は白鳥の鞍に結わえられていた、整った顔の男の首を放り投げた。ごろりと転がったその首がコルベックを見上げる。

「バルデス、何という姿に!」

 バルデスの顔は驚愕と苦痛に歪んだ不吉な表情をしていた。膝を折って息子の顔を拾い上げんとするコルベックに、冷たい声が投げかけられる。

「生前よりはましな姿かと思います。既に我々の系譜けいふは途絶え、ほぼ血族でのちぎり。この男は妹たちとみだらな関係でした。これで今後は二度と、獣の如き無軌道むきどうさらす事は無いでしょう」

「お前はそれで良いというのか……」

婚姻こんいん呪物じゅぶつを用いて私の動きを封じようと思った時点で、あなたもこの男も等しく価値などありません。私が母の存在に気づいていなければ、こうはならなかったでしょう。危ない所でした。そもそも……」

 サリヤと呼ばれた血まみれの花嫁は腰にかけていた抜身の短剣を手にする。その剣身は氷のような碧色をしていた。

「あなたたち神族は異界から渡ってきた簒奪者さんだつしゃでしたね? 氷の一族の最後の生き残りだった母と不正に契り、この気高き氷の剣を奪って盛り返そうとした! しかし、その魂はもう消える火の如くこの世界とは合わず、ただ混乱と悲しみをもたらしただけ! あなたもまた死すべきなのです。父だった者よ!」

「そなたは、そなたの母とよく似ている。わしはもう何も言うまい。そなたは我々の意図とは異なり、より気高く美しいものとなった。わしには何も止められない。ただ、よくぞ……やめろ!」

 サリヤは短剣を揮って呼びかける。

氷獄クエリスの鍵の剣、レクスレールよ!」

 サリヤの短剣は淡く氷のように輝くと冷気を集めて美しい大剣となった。流氷や氷河から削りだされたようなその剣を、冷たい怒りと涙をたたえた目をしたサリヤが揮う。冷気はコルベックの黄金の鎧を砂のように粉にし、凍てつく大剣の刃はその厚い胸板を容易く切り裂いた。

「汚らわしいお前のせいで、私は生まれた時からけがれていた! 何が分かる! お前に美の何が! 私の何が!」

「ここまで……父である私を認めぬのか……」

 氷の大剣はコルベックの胸に深々と刺さり、堂々たる鎧姿は氷の彫像のように凍ると、やがて砂のように砕けて霧散してしまった。神々の権能は黄金の霧となってサリヤに吸い込まれてサリヤの輝きが増したが、それでもサリヤの表情は晴れる事が無かった。

「祈りと共に眠りについていた美しい母を、夢幻の酒の力によって我がものとし、産み落とされたのが私。全て間違っていたのです」

 サリヤは剣に念じた。氷の大剣は優美な長剣へと形を変える。

──氷獄クエリスの鍵の剣、レクスレール。

 無限世界イスターナルの各世界に一つずつ隠されている界王かいおうという宝物の、この世界でのそれに該当する品だった。サリヤは半透明の剣を日光に透かし、凍り付いた血に語り掛ける。

「あなたたちは美を解しない。気高さを知らない。安定を求めれば神々でさえ堕落だらくするという真実しんじつから目を背けた。何が違うのですか? かつて存在し、滅んだ人間たちと……」

 一陣の吹雪がつむじを描き、冷気をまとった大きな白鳥と黒鳥が舞い降りる。二羽の白鳥と黒鳥はそれぞれ、白い衣装の少年と黒い衣装の少女の姿を取った。

「復讐を果たされましたね? 氷の女王の名を継ぐお方に、僕たちは永劫仕える者です、サリヤ様」

 僅かなはちみつ色を帯びた白い髪と、黒い瞳以外は全て白い少年は、サリヤの行いを称えるように微笑んだ。

「あなたの中に少しだけ赤い血が流れていようと、その心は冷たく美しい氷の一族のもの。いつか訪れる無限世界イスターナルの破滅を象徴する極冷の世界は、あなたこそが体現できるでしょう。だから私もあなたに仕えるわ、サリヤ。よろしくね」

 雪の精霊のように白い、しかし黒いレースのドレスを着た少女が、冷たくささやく。

 サリヤの母サタ、氷の女王とも氷の魔女とも呼ばれていた存在に仕えていた、神霊に等しい二人の従者たち。白鳥の少年はブライといい、黒鳥の少女はニクルといった。

「お好きになさい」

 剣を持ち、返り血に塗れた純白の花嫁衣裳のサリヤは、玉座に至る階段を裸足で上り、その二つの玉座を大剣にしたレクスレールで薙ぎ払った。極冷の剣は石と黄金で造られた玉座を粉々にする。

「私の生にもこの地にも、もう神々の玉座は要らないでしょう」

 ため息をこぼすように宣言し、サリヤは眼下を見下ろした。氷の巨人たちの大軍がほぼ整列し、斧を持ったひときわ大柄な者が進み出でる。

「新たなる氷の女王よ! 先代の加護により巨人として転生した我らは、あなたと共に世界の終焉しゅうえんを護る! 我らは孤高の挑戦者としての生を全うし、輪廻りんねの輪から解き放たれ、やがて訪れる世界の終焉、極冷きょくれいの世界を体現する者なり!」

「あなたの事は母から聞いています。冷たき巨人の王ハインよ。ただ、私の中には不純な赤い血も流れています。それでも良いのですか?」

──我らは構いませぬ!

 氷の巨人たちの大音声が天地を揺るがした。サリヤは続ける。

「私はおのれの生まれと生を認められません。その声をあげる事はありませんが、おそらく単独の存在としてあり続けるでしょう。それも承認するのですか?」

──我らは承認いたしまする!

「……わかりました。私は我が生を問い続ける事に致しましょう」

 既に終わりかけ、氷に閉ざされていたはずの冷たいディレニスは、異界からの侵略者だった別の神族の者たちにより、新たな氷の女王を生み出す事となった。しかし、その不正な手段と思い上がりに対する代価はあまりに大きく、氷の巨人の軍勢と、新たな氷の女王だけが存在する、氷雪に閉ざされた冷たい世界が残るのみとなった。

──『界王の器』または『界滅の武器』などと呼ばれる、各世界に一つずつ存在しているとされる至宝、これは原初に配置された主神たちの神統を置き換える力を持つ仕組みであり、この仕組みは人間たちもしばしば真似している。

──賢者インスミル著『無限世界の構造』より。

 長い年月が経った。

 サリヤはしばしば、この氷雪に閉ざされたディレニスと繋がる、無限世界イスターナルの世界の高く冷たい山々を巡っては、その山を登ろうとして絶命した者たちの魂を氷の巨人として転生させていた。彼らはしばしば人の尊敬を集めるが、孤独にして孤高であり、空気さえ薄い山で死する事は輪廻りんねの輪からも外れる事を意味していた。いつしか、主神コルベックを討った頃とは、もう星辰せいしんの位置までもが変わり、見慣れない星々の形はサリヤの孤独感を深めていた。

 遠い昔、血に塗れた花嫁衣装はそのまま時が凍り、サリヤの持つ美の力と神の血が作用して、純白の雪原に赤い花々が咲いたような柄に変容している。その姿はたいそうな美しさだったが、それを見て褒める者はほぼ存在していないも同然だった。

 グラネクサルの宮殿の階段を上がり、凍てついた星見ほしみの塔に上ったサリヤは、現在はそこに安置されている、祈るような姿勢のまま凍った母の遺体を眺めた。

「お母さま……」

 美しかったであろうその声と眼差しを知らず、その手が頬に触れた事も無い。どんな声で笑い、どんな笑顔だったのか? そして、その手はどのような温もりだったのか?

──温もり。

「呪わしい!」

 サリヤは白い拳を石の窓枠に叩きつけた。その手から薄赤い血が滴る。存在しえないものを想像している自分に気付いた苦しみが、長い年月の重みそのままに心を苛み始めていた。

「私は、何かを願っている! 狂おしいほどに! もう耐えられないほどに! でも……星々の闇にさえ、この願いを叫びたくない! お願い、誰も聞かないで! 私の心に渦巻くこの思いが、たとえ自然の中に漏れ出していたとしても!」

 視界がぼやけている事に気づいて、サリヤはより絶望した。赤い血と涙が、氷の女王としての自分を不安定にしていると確信した。

「サリヤ、否定するものでもないわ」

 螺旋階段を上がってきた、少女の姿を取ったニクルが心配そうにしている。

「否定するべきよ。私は氷の女王。なのに……流れる涙も氷の粒ではない。呪わしい血と、涙は、私の心にも呪わしい何かを生み出しているの。氷の女王にふさわしくない私に、よりみじめになる事を言うのはやめて!」

 ニクルは珍しく、わずかに驚いた顔をした。

「それなら本音を言うわね? あなたは少し温かいの。嫌いではないわ。歴代の氷の女王たちには無い物が、あなたにはあるの。だから私は歴代の女王たちより、あなたが少し好き」

 途切れがちな独特な口調でニクルはそう言い、微笑んで見せた。

「温かい……私が、好き?」

 サリヤが今まで必死に抑えていた、温かなものが胸の内に湧いた。

「探したらいいわ。何かを。ここはずっと時が止まったまま。でも、少し温かなあなたは、何かを動かせるはずよ」

「でも、言いたくないわ……」

「それなら、何か特別な運命があるのよ」

 冷気でうっすら輝くニクルの眼に、ただの信頼ではない何かが見て取れ、サリヤは困惑すると同時に少しだけ気が楽になった。そして、そんな自分に驚いていた。

「特別な運命……」

 それから、また長い時が流れた。

──氷の女王サーリャについては様々な伝説がある。もっとも秘められた伝説としては、彼女が無限世界イスターナルの終焉の姿を体現しているとされるものだろう。無限世界はいつか、全て終焉しゅうえんすると永劫えいごうの冷気に閉ざされるとされている。

─賢者オルモッサ著『氷の女王』より。

 ある夜、無言の願いを星々の間の暗黒に解き放っていたサリヤに答える声があった。星見の塔と夜空は眩しい光に包まれて消え、サリヤは光あふれるどこかの宮殿の広間に立っていた。

「ここは?」

 光の彼方から心を満たす声が響いてくる。その威厳は気高いサリヤが膝をつくべきか迷うほどだった。

──ここは『界央セトラ玉座ぎょくざ』のある、『隠れし神々』の神坐かみくら。使徒にして神たるこの世界の告者こくしゃ聖魔王しょうまおうが玉座の間。

聖魔王しょうまおう?」

──この世界の理を新たに定めし者だ。氷の女王サリヤよ、お前は隠れし神の一柱、または聖魔王の妻の一人となる気はあるか? この気高き務めと役割を果たす気は?

「詳しく話を聞かせて下さい。しかし、なぜこの私に?」

──終焉世界しゅうえんせかいに最も近い氷の民であるそなたは、強い意志と高い知性に気高さを併せ持ち、さらに赤い血まで流れる稀有な存在。隠れし神の概念、または聖魔王の妻が一人になる資格は十分に持ち合わせている。長き孤独から解放されるべき時が来たのだ。

 超絶の愛と威厳に満ちた声がサリヤの心を満たす。

「本当に、私でよろしいのなら……」

 この時、サリヤはこれが運命の導きで、自分の生に生まれた時から欠けていた何かが満たされ、世界は完璧なものになると思っていた。

 しかしそうはならず、これがより大きな悲しみと無限世界イスターナルの終焉を加速させる事になるとは誰も、サリヤ自身も神々も知らなかった。

──隠れし神々と聖魔王の座す界央セトラの地からもっとも離れた世界は、既に氷に閉ざされ、それら世界の住人たちはだいぶ温度の低い世界を生きており、見た目は人でもその体温は非常に冷たく、世界の座標によっては色までもが失われているという。

──賢者オルモッサ著『氷の女王』より。

初稿2021.05.28

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