第十七話 鋏の女王

第十七話 はさみの女王

 南方新王国、モーダス共和国領、水銀鉱山都市ゼイド、異端審問官たちの隠し砦。

「っ!」

 蜂蜜と豆醤とうしょうにつけた大盛りの焼肉とワインを楽しんでいたバゼルは、召喚された従者がほとんど血と絶望を集めずに撃破されたことに気付いた。

「どういう事だい⁉」

 バゼルは腰の青黒いはさみを抜き、何もない空間に混沌カオス印章いんしょうである、『円から八方位に伸びる矢印』を描いた。燃えるようなオレンジ色に輝いたそれは、冷めていく青銅のようにその輝きが引き、合わせて幻影から実体へと重厚な扉が現われる。

 バゼルは今までの気やすい空気とは異なる女王の如く重い威厳をまとい、扉の向こうに姿を消した。青黒い扉もまた重い音と共に閉じ、かき消すように消えてしまった。

──混沌戦争カオス・バトルの際、多くの不可解な混沌の神々たちの中でも、『鋏のバゼリガリ』は特によくわからない存在とされている。戦局に影響のある行動はあまり取らず、強そうな男の戦士に執着しており、神出鬼没であった。この女神はキルシェイドのラヴナ姫に討伐されたと伝わっている。

──ラナス・ケルセル著『混沌の神々』より。

 バゼルは小さなはさみが不可解に編み込まれた鎖帷子くさりかたびらのドレスをまとった姿で、青いガラス製の玉座に座し、頬杖をついていた。鏡のように磨かれた灰色の石床と大木のような石柱の大広間は曇り空の下のような視界で、天井も壁もはるか遠く霞んで見えない。

──混沌の女神バゼリガリの王宮、『曇りのシゾルガ』。

 この大広間に兜だけを脱いだ青黒い肌の不気味な甲冑姿の騎士たち三人が片膝をついていたが、どの男も顔や頭に鋏が刺さっている。一人は目に、一人は耳に、一人は口に。

「顔を上げよ。何が起きた?」

 騎士たちは青黒い肌の顔を上げた。頬を貫通した鋏の刺さった男が口を開き、鋏がちらりと覗く。

「女王バゼリガリ、ダークスレイヤーが現われました。『眠り人』と呼ばれている男は、あれはダークスレイヤーにございます!」

 続いて、眼に鋏の刺さった騎士が口を開く。

「忌まわしき永劫回帰獄ネザーメア黒炎纏こくえんまとうあの男は私を一瞬で寸断いたしました。非常に危険な存在でございます」

 両耳に鋏の刺さった騎士が続けた。

「我らが女王よ、混沌カオスの王ゼスナブルでさえ、あれを凌駕するかは分かりませぬぞ!」

 しかし、鋏の女王の言葉は冷たいものだった。

「敗れし者の言葉など要らぬ。僭越せんえつが過ぎる。消えよ」

「ははっ! 申し訳……」

 鋏の従士たちの言葉が終わり切らぬうちに、彼らの姿は消え、鋏だけが宙に浮いていた。その鋏も遅れて消えたが、女王には騎士たちが殺した銃士たちの記憶が流れ込んできていた。

 黒いコートの男と、その周りにいる特殊な宿命を持つ女たち。バゼリガリは神の視点で女たちの運命の秘密に鋏を入れた。着ている服を鋏で切ってめくるように、運命に隠された秘密の層を切り開き、めくる。

 眠り女と呼ばれる女たちの過去と、その宿命には複雑な運命の『縫い合わせ』の形跡があり、それはダークスレイヤーとも、自分とも関わっているようだ。その糸は闇の中に『七芒星と天地に向かう剣』の印章を経由し、次に、その印章をマントに刺繍した非常に賢い者たちとの関わりが示唆されている。

(ダークスレイヤーの印章を背負うこの者たちは、ウロンダリアに隠れているとされる大賢者どもか)

──叛逆はんぎゃくの十賢者。

 ダークスレイヤーが無限世界イスターナルの各所で戦った結果、失われるはずの多くの者たちが救われた経緯がある。中でも、隠れし神々の秘密を看破しているとされる無限世界屈指の十人の大賢者たちはダークスレイヤーの考えに同調しているとされていた。

(奴らがダークスレイヤーの周りに女たちを? あれは女を寄せ付けぬはず。たとえ記憶が失われようとも、どれほどの美女であろうとも)

 突如として、混沌の女神の心の奥底に、遥か昔の青く美しい城での会話が思い出された。機を織る自分に話しかける、黒衣の男の優し気な声。

──それは何を作っているんだ?

──生地を織っているのです。着る人が幸せになるような服を作りたく思いまして。

 次に思い出される景色は青く美しい城のバルコニーの夜だった。黒衣の男と話している、強気な銀髪の女神の姿に気付き、そっと足を止めてしまった。満点の星空を映したように、銀髪の女神の眼が涙に濡れているのがわかり、息を呑んだ記憶が蘇る。

──闇に堕ちても構いません。これほどに思いを伝えても、あなたは一顧だにせず旅立たれる気なのですね。

 銀髪の強気な女神が、涙声で思いを打ち明ける。

──ああ。君も自分の領域に帰り、自分の世界の人々を……。

──嫌です! 絶対に嫌!

 銀髪の女神は男の胸に飛び込んだが、男はその肩に手を回す事さえしなかった。声を殺した嗚咽おえつがしばらく続き、女神は顔を上げる。

──教えてください。ならば、どんな女性ならあなたの心を掴めるのですか?

──誰も。おれはただ、戦い続けるのみ。この世界の理が気に入らない。

──それほどに激しい心を持ちながら、女の心も肌も要らないと?

──そのような気持ちさえ燃やして戦うのだ。戦いはいつも容易ではないのだから。

──抱きしめても下さらないのですね。一度たりとも。

 この言葉に息を呑んだ記憶が蘇る。あの青い城に集められた女神の中で一番強気な女神が、黒衣の男の事を闇に堕ちる事も辞さずに愛そうとしていた事に。

──女神が言う事か。

 気遣いつつも少し呆れたように言う、黒衣の男。

──神の前に女です! こんなに沢山の女神たちの心の芯を揺らしながら、己は何も求めない。あなたは災いのようなものです。

──なら心配しなくていい。もうじきそれも終わるさ。

──どうしてそんなに酷い事を言うのですか……。そんなに私たちが気に入りませんか?

 遂に銀髪の女神は心が折れたのか、静かに泣き始めてしまった。バゼリガリはそれから先の事を思い出しかけたが、無粋なので思いとどまる。しかし、遠すぎる記憶がよぎり、バゼリガリは寂しげな笑みを浮かべた。

「懐かしいな。この『相』で会うのは気が引けるが、私の事など憶えておるまい。人間どもの乱痴気騒ぎに乗るのも程々にせねばならぬ。何より、あれが討ち破られれば全てが切り替わるやもしれぬ。見誤りはせぬ」

 己に言い聞かせるように独り言ちると、立ち上がったバゼリガリはいずこかへと姿を消した。

──遠い昔、一度だけ『隠れし神々』はダークスレイヤーを懐柔しようとしたことがあった。孤独な運命を持つ美しい女神たちを、永遠の蒼い城リュデラーンに集め、城と共に彼に与えた。この女神たちは三十柱または三十三柱いたとされ、『蒼き城の三十柱または三十三柱』は、触れ得ざる女神たちと呼ばれるようになった。

──白きアマルシア著『蒼き城』より。

 上級異端審問官クローバスは魔族の姫の言う事が理解できないでいた。その様子に何か思うところがあったのか、ラヴナは少し距離を取りルインに小声で話す。

「言われた事しかできず、大局を想像できない類の男だわ。ルイン様、魔王府の様々な部署を動かして、あの男の家族の保護と情報の収集をした方がいいと思うわ。その様に指示しても?」

「ああ、裏を取って情報を交換するって事かな?」

「ええ」

「それでいこう。あとはゴシュの仇と向こうの出方、そしてこの地に何があるか? だな。それに……双方が全滅したように見せかけて早めに声明を出し、こちらの陣営が調査に乗り出せば、向こうは少し遅れを取るんじゃないか?」

「ん、確かにそうね」

 ここで村の北側、転移門のある山側が賑やかになってきた。ギュルスの率いるヴァスモー(※人に似ているが緑肌の大柄な種族)の百人隊や、ジノ率いるカルツェリス商会の猫たち、さらに、魔の国の記録官や工兵隊などが続々と向かってきている。

「どうどう、大丈夫だ落ち着け。我らの心はお前たちに近いのだ。敵ではない」

 ギゼがクローバスの騎乗していた青毛の軍馬の兜を外し、ひどく怯えている馬をなだめていた。馬は目の焦点が定まらず、泡交じりの唾液が口の周りについていたが、ギゼの呼びかけに次第に落ち着きを取り戻し、声をかけつつたてがみを撫でるギゼに頭を寄せる。

「よし、お前は優れた戦士だな。少し歩くぞ?」

 ひらりと黒い軍馬に乗ったギゼは、手綱を優しく操ってゆっくりと歩き始める。馬の尾は高く振られ、それが楽しい事なのだと伝わってきた。

「大したものだな……」

 思わず感心するルイン。

「魔獣使いの古き民は動物の扱いもお手の物よ。全滅を演じるなら馬の所在もあやふやになるでしょうし、戦利品として貰っといたらいいわ。ふんぞり返って弱い者いじめをする審問官には過ぎた良い馬だもの」

 悪戯っぽい笑みを浮かべるラヴナ。

「どうするかはともかく、あの馬にはかわいそうな事をしたな。怯えさせてしまった」

「ギゼならすごく適切な接し方ができるから、あの馬にとっては悪くない展開よ? 気にしないといいわ」

「眠り人殿!」

 クローバスが呼ぶ。

「我々の組織は確かに、しばしばこのようなトカゲの尾を切り捨てるような事をしてきていた。主にやり過ぎた異端審問の責任をな。つまりこれは私がその番になったのだな」

 どこか遠くを見るような眼で、クローバスが言う。

「何か思う事が?」

 歩み寄りながら聞くルインに対し、クローバスは深く首を垂れた。

「私の首を刎ねればよい。ただ、生き残った銃士隊とその家族、そして私の家族には累が及ばないようにしてほしい」

 ルインは怨嗟の火を目に宿し、その火を通してこの男を見た。屠るほどの罪を背負ってはいない事がわかる。

「……他に言う事は?」

「それだけだが……何を⁉」

 ルインは居合でクローバスを縛っていた縄をほどくと、その胸倉を掴んで締めあげるように持ち上げた。クローバスは首を絞められた苦しさに顔を真っ赤にして苦悶する。

「えっ? ルイン様?」

 気付いたラヴナが駆け寄った。

「死に近い苦痛と共に聞け。今更この状況がこの首で収まると思っているのか? しかも、お前がしようとしているのは自己陶酔の混じった醜悪な現実逃避に過ぎない。そのような蒙昧もうまいさで傲慢にも正義を語ってきたというのか? 少なくとも最初に対話を選択すれば、こうはならなかった。あの惨たらしく殺された銃士隊はお前の判断に殺されたようなものだ」

 眠り女たちはルインの静かな怒声を初めて聞いた。ルインにはこの異端審問官が浅慮にして頑迷であり、この予想外の状況にはすでに考える事をやめ、安易に死を選択しながらも、どこかそれを高潔な事のように自己陶酔していると見えていた。クローバスは声を出せずにばたばたと暴れる。

「ルイン様、絞め殺すつもり?」

「いや、教訓の示唆だ」

 ラヴナの冷静な問いに、ルインはクローバスを突き放した。しばらくせき込んでいたクローバスは観念したようにゆっくりと立ち上がる。

「い、今の異端審問会は既に大組織でとても大きな権力を持っている。私とて全てに疑問を持たずにここまで来たわけではない。そして切られた今どうしろと言うのだ……」

「呆れるな。自分で考えて生きてこなければそうもなる。それは人の最大の罪の一つだ」

「全くだよ。頑迷な男だろう?」

 強大な存在の気配と声がし、ルインは反射的に刀を抜きつつ、ラヴナの腰を抱えて距離を取った。

「えっ⁉ なになに? あっ!」

 ラヴナは腕輪と刺青の多い、暗い藍色のイシリア風ドレスの女と、その気配に気づいた。昔やり合った宿敵の存在に気付き、激高するラヴナ。

「ルイン様どいて! そいつ殺せない!」

 ラヴナはルインの姿勢が戻らぬうちに、右手を女に向けて構えた。黒く帯電する闇の球体が現われる。

「死ね、クソ女! 黒曜の刃に切り刻まれてゴミのように散れ!」

 黒く鋭いひょうの嵐のように、無数の黒曜石の刃が球体から飛びだし、粗末な木造の家が削り飛ばされて一瞬で粉砕された。しかし、それはイシリア風ドレスの女の前に展開した扇形の闇には吸い込まれるのみで、女はうっすらと笑みを浮かべている。

「ご挨拶だね。あたしの前の空間は、『ばさみ』で切ってあるよ。話をしたいんだがな」

「ラヴナ落ち着け。敵意が無い」

「でも、こいつ混沌の女神なのよ? 危険な存在なの!」

 猛烈な勢いで投射される黒曜石の刃は村の丸木の囲いを粉砕し、その向こうの岩の崖さえ削っている。

「落ち着けって」

 思うところのあったルインは、ラヴナの腰を強めに掴んだ。

「あっ、やめてルイン様! 落ち着くわ! 腰回りは敏感だからあまり触らないで!」

 ラヴナは術式を解除し手を下げる。その様子を見ていた女は美しいがどこか邪悪さの漂う笑みを紅をひいた目に浮かべた。

「久しぶりだねぇラヴナ姫。戦うつもりはないよ。いや、取引に来たんだ」

「バゼル? どうやってここに? いや、何か雰囲気が違うようだが……」

 クローバスにはよく知っているはずの女が、妙に色濃く力強く見えていた。

「ルイン様、こいつ混沌の女神よ。『鋏のバゼリガリ』といって、いい男の戦士にだけ執拗に絡む嫌な女なの。きっとルイン様が気になって現れたのよ! とても信用できない奴よ!」

「何だと……!」

クローバスはまたも絶句した。

「人としての名前はバゼルだよ。あたしはまだ誰も殺してないぞ? それに、戦わないに足る有益な情報と条件をもって取引しに来たんだがな。それとも何か? あたしがあんたらと揉めて、結果ダークスレイヤーに惨たらしく殺される経過をたどるような馬鹿に見えているのかい?」

 ルインが抱えているラヴナの腰の緊張が少しほどけた。

「ん、理にかなってるわね。話してもいいわ。……ただ、おかしな動きをしたら生皮を剥いでオブスグンドの城門に吊るし、皮はなめしてずだ袋にしてやるわよ?」

(なんと恐ろしい事を言うのだ、魔族の姫は)

 クローバスはラヴナの脅し文句に呆気に取られている。

「ふふ、相変わらずで何よりだよ。しかしお前の腰を抱いてるその男がいる時点で、こっちも色々と考えなくちゃならないって事だよ」

 この言葉にラヴナの眼から警戒と怒りが消え、深い洞察を感じさせる色がよぎる。

「……ふーん、何か考えがあるわけね? 話してごらんなさいよ」

「まず、あいさつ代わりにこれをやるよ」

 どのような仕組みか、バゼルは胸の谷間から丸められた書類を取り出して広げた。クローバスも読める位置のそれを見て、クローバスの顔色が変わる。

「何という事だ! やはりこれは仕組まれていたのか!」

 それは異端審問会の逮捕状であり、三人の名前が記載されている。

「この三つの名前はつまり?」

 ルインが問う。

「私の母と妻、そして子供のものだ」

「ああ、やっぱりね……」

 それぞれの反応を見てバゼルはにやりと笑った。

「この逮捕状はこのウーブロの状況次第で発効され、発効の翌日には身柄を拘束されるだろう。ただ、この場合は生きて帰ってくることはないって点だ」

「そうであろうな。やはり、私は切り捨てられたのか……」

「銃士隊はどのように扱われる予定だった?」

「殉職扱いで家族に補償が支払われる。それくらいだね」

「つまり、ラヴナの読み通り、あわよくば我々を殲滅し、敵わぬなら表向きは友好路線で行く、という事か。姑息な真似をする。この絵図を描いたのは誰だ?」

「ダクサスだよ」

「あの御仁か! 納得せざるを得ぬ」

「ダクサス? 何者だそれは?」

 ここで、様子の変化に気付いた眠り女たちが集まってきた。

「今、ダクサスという名前が聞こえましたが? それに、この方は?」

 シェアが慎重に話に加わった。

「この女は混沌の女神の化身よ。正体は『鋏のバゼリガリ』ね。でも、ルイン様の危険さに気付いて、敵対路線はやめるって。こういうところはずる賢い女なのよね」

「ええ⁉ あっ、それよりも、ダクサスの名前が出ていたと思いますが」

「知ってるのかな?」

「はい。異端審問会の首席審問官です。『血塗れの錬金術師』と呼ばれ、非常に嫌われ、恐れられています」

「本来、ダクサス殿がこの地域の極秘の仕事を担当していたのだ。それは私も知っている」

「賑やかになってきたな。まあ待て、あたしが持っている情報を出そう。審問官としてはまだ活動は続けるが、人間たちの乱痴気騒ぎに過度に入り込む気はないのだ。必要なら、『死の誓約』を結んでもいい。私は欲しい物の為に行動するし、それは眠り人と敵対していては得られぬものなのだ」

「聞かせてもらおう」

「情報が多い。落ち着いて話せる場所がいいね。この村にひなびた旅籠屋があったはずだ。村の住人はこんな時は監禁されてる。解放してやって、飲み食いしつつできる状態で話したいもんだね」

 こうして予想外の情報がもたらされることになった。神の思考は人間には予測しがたく、混沌の神ならなおさらのことで、予想外の展開に眠り女たちもクローバスも混乱していたが、ラヴナとルイン、そしてファリスは落ち着いていた。

──ウロンダリアの六礼装の一つ、『影に舞う蒼い蝶のドレス』は、サファイアの透かし糸で編まれた青い蝶が黒曜石の生地の中を舞い飛ぶ美しいものだが、この青い蝶の数は三十ないし三十三と伝わる。しかし、正確に数を数えられた者は一人もいないとされている。

──マスティガ・リース著『六礼装の神秘』より。

first draft:2021.01.28

コメント