第十九話 夜の闇、見えない敵

第十九話 夜の闇、見えない敵

 ウーブロの村を出た眠り人一行はなだらかな丘を下り、月明かりに照らされた平原を左手に見つつ、川と湿地帯のある南西方向に進んでいた。広大な湿地帯の向こうは深い森が横たわり、背後には低い山々が、その向こうには頂に残雪がわずかに光る山脈が並んでいる。

不帰かえらずの地、名前には聞いていましたがなかなかに美しい所ですね、ルインさん」

 猫の剣士ジノが羽根つき帽子を押さえつつ、感想を漏らす。

「初夏の夜風にあの残雪はなかなか良いな。しかし、どこにも古代の都があるような気がしないが」

「ウロンダリアには様々なものが隠されているわ。今見ているこの景色も、もしもあの女の言う事が本当ならこれこそが偽物の可能性があるのよ。古代から地域そのものが漂着する記録にはしばしばあった事よ。……例えばエンデールの水の都アルシスとかね」

 ラヴナが説明する。

「アルシス?」

「神聖エンデール帝国の水の神々の宗教都市です。ティラという大きな湖に、古代の嵐の夜に漂着したとされています。とても美しい都です」

 ルインの隣を歩いていたシェアも話に加わった。

「ああ、以前美味しいますを釣った?」

「はい。あんな大きな都市が漂着するのですから、何があっても不思議ではない気がします。とても美しい都なのですよ」

「興味深い。いつか見に行きたいな」

「あ、はい! いつでもご案内します」

 夜だというのに二百名近い一行の足取りは軽い。魔力の有り余っているラヴナが全員に『軽い脚』『疲労の軽減』『夜の祝福』などの複数の術式を施していた。さらに、『気配の抑制』『夜の視界』なども施されており、現在は快適な初夏の夜の散歩に等しい。

 この為、通常の行軍速度よりもはるかに速い一行は、ほどなくして背の高いあしの生い茂る湿地帯に差し掛かった。

「こっから先はあたいと相棒が案内すんぜ!」

 一行の先頭に出るゴシュと大狼の骨付き肉。

「ああ、宜しく頼む」

「父ちゃんたちはさ、湿地に水路を掘って三重のほりで砦を囲い、ついでに水も良く抜けるようにしたんだ。あたいらヤイヴには大丈夫でも人間には渡れない、壊れやすい偽物の橋とかも作っててさ。正しい橋はこっちだぜ」

工兵隊こうへいたい、前に出て刈り払いしてくれや!」

 オークの百人隊長ギュルスの号令に、大鎌を持った工兵隊の男たちと、大木槌おおきづちを手にした男たちが先頭に出てきた。かつて道だった場所の葦を刈り払い、木槌でその根を叩いて潰してゆく。

「道はしっかり締まってまさぁ!」

 大木槌の男が叫ぶ。ゴシュの父親たちの仕事がしっかりしていた事を示す言葉だった。工兵隊の男たちはゴシュの道案内に従って刈り払いと葦の根の潰しを行い、一行はやがて倒壊したギャレドの砦に到達し、その奥に山と積まれたヤイヴたちの死体を確認した。

 積み重ねられたヤイヴ兵たちの死体はほとんど首のない物ばかりで、かつては鈍く輝いていたであろう魔の国の武器や鎧が今は物悲しくくすんでいる。腐敗はまだ終わっておらず、死体の山から滲み出した腐汁は月光に濁った光をはね返し、夜風の向きが変われば腹を殴られるような重い腐臭が漂っていた。

「これは……」

「みんな……父ちゃんたち……!」

 絶句するゴシュ。その隣の骨付き肉の尻尾も哀し気に下がっている。

「ひでぇ事しやがるぜ。おれら魔の国とやり合うつもりか人間の奴ら。勝てもしねぇだろうにバカなのか?」

 悪態というよりは信用しているものへの失望を感じさせるように、ギュルスが吐き捨てる。

「これは……昼間の件といい、戦争になっても言い訳ができないだけの行いが確認されましたね」

 事態の大きさと深刻さに声が震え気味のジノ。しかしルインは余裕の漂う笑みを浮かべた。

「そうはならないようにするのがおれの役目だ。いずれにせよ、バゼルの言う儀式が終わったら、彼らは正しいやり方で葬ってやらなくてはな」

 ラヴナの『灯火』の呪文によって照らされたヤイヴたちの死体の山を見つつ、ルインがつぶやく。ヤイヴたちの魂は全く安らいでなどおらず、復讐と怒りに燃えるささやきがルインの心には聞こえていた。

 ルインの隣にしっとりとした足取りでバゼルが歩み寄る。

「その前にひと暴れしないと駄目なようだね。気付かれたよ! ……ん、数が多い!」

「何か来るわ! 何これ、気持ち悪い感情! ……感情なの?」

 バゼルに続いてラヴナも声を上げる。直後、周囲の森から多くの鳥が飛び立つ音が聞こえた。警戒心に満ちた鳴き声を発しつつ砦の上空を通り過ぎてゆく。この時ルインたち一行は松明と魔法の灯り以外のかすかな光源に気付いた。何人かが腰に下げていた水銀灯がごく淡く、しかし確かに光を放っているのがわかる。

「総員、戦いに備えろ!」

 ルインの声に全員が慌ただしく動き始める。

「工兵隊、灯りの確保だ! 百人隊の奴らは工兵隊を護れ。拠点は……あの丸太小屋だ! 戦う役割じゃねえ奴はあそこに入れ!」

 丸太で組まれた建物はほとんど倒壊していたが、それでも半壊に至らないひときわ大きな小屋があり、ギュルスはそれを指さした。

「まずは視界の確保ね、任せて! ……天照あまてらす小さき光を!」

 ラヴナが手のひらを出すと、光の粒子が集まって小さな光球を形作り、それが尾を引いて空に昇る。上昇するにつれてその光は強くなり、ヤイヴの砦は真昼のように照らし出された。

「さすが魔族の姫様だ。これほどの灯りを!」

 驚きの声が上がる。魔術や魔法には様々な体系と種類が存在するが、魔法の発達したウロンダリアでも単純に闇を照らす魔術の難易度は意外にも高く、これほどの規模で闇を照らせるのは大魔術師や大魔導士と呼ばれる者たちでも容易ではないとされていた。

「気を付けて、来るわ!」

「異質な、邪悪な気配がします!」

 クームとシェアがそれぞれ声を上げる。暗い森から大風のように葦が折り潰される音が近づいてくる。何人かの腰に下げられた『水銀灯すいぎんとう』の光は今や淡く白んだ緑色の光をはっきりと放っていた。

──ピーッ……ヒョーッ!

──ヒッヒッヒッヒッ!

 興奮した、或いは威嚇いかくのような気味の悪い口笛じみた叫びがいくつもこだまし始めた。ラヴナの術式による灯りで照らされた周囲を注意深く観察していたルインは全員に指示を出す。

「何箇所か不自然な葦の空隙がある。まずそこを狙い、次は葦が倒された場所を狙うぞ!」

「しゃあ、投げ松明放て!」

 ギュルスの指示の下、鉄製で先のとがった大型の松明が葦の切れ間に打ち込まれる。

 空気には次第に生臭いにおいが混じり始め、葦を倒す音が砦の周囲に迫り始めた。ここで、骨付き肉がゴシュのワンピースを軽く引っ張った。

──ゴシュ、おれにはわかる。みんなに場所教えて! まずはあそこから来る。次はその隣!

「何だって? みんな、相棒が場所教えてくれるってさ、まずはあそこ! 次はこっちの角だって!」

「火矢射ろ!」

「どれ、始めるか!」

「よーし、撃つよ!」

 ルインとアゼリアがそれぞれ別の葦の切れ間に銃弾を撃ち、闇の向こうで水銀弾が一瞬まばゆい緑銀の光を放ち、水が飛び散るような音がした。

──ピアアーッ!

 断末魔のような叫びが遅れて響く。飛び散った水銀は見えない魔物ピスリ・カ・グの残骸と反応しているらしく、緑銀の光の粒が飛び散っては輝いていたが、次第にその光は弱まり、消えた。

──次はそこ、次はあっち! 待って、すごいたくさん来る!

「みんな、やべえぞ、沢山来てるって!」

「おめえら、盾にも火ぃつけろ! 決して押し負けんな! ヤイヴの娘っ子の仲間の仇だ!」

「応ッ!」

 屈強なヴァスモー兵の百人隊は、それぞれ多少の形は違えど重い鉄の丸盾に火を点け、集団の周囲を固める。

「セレッサさん、精霊の声でだいたいの場所を教えられるわ。高所から狙い撃ちしてはどう?」

 クームの提案に驚いた顔をするセレッサ。

「妙案ですね。どこか高所から魔力の矢で射貫きましょうか!」

 この直後、津波のように砦の周囲ほぼ半周の葦がなぎ倒された。

「来やがったぜ! 油壷あぶらつぼ投げ! ぶっ殺しまくるぞてめえら!」

 何発も放たれる水銀弾は緑銀の光を散らし続け、無数のピスリ・カ・グの叫び声が上がるが、まるで見えない津波のような密度のそれは次第に迫りつつあった。

「猫の戦士たち、高所から投げナイフと水銀の瓶だ! ナイフは銀製のものか魔力のあるものを!」

「ニャアアア!」

 ジノの指示に猫の戦士たちは丸太の壁を身軽に駆けあがり、屋根から投げナイフや水銀の瓶を放つ。

「ゴシュ、水銀の瓶は持ってる? こちらが手薄なところを狙ってあいつらを散らして!」

 アゼリアの問いに親指を立てるゴシュ。

「任せとけ! 行くぜ相棒!」

──おうっ!

 ゴシュは骨付き肉に飛び乗ると、肩からたすき掛けされた小瓶を一つ取り外す。ずっしりと重いそれは水銀が封入されており、ピスリ・カ・グの進行を防ぎたい場所に投げ込む想定だった。

「そこと、ここだあ!」

 疾風のように駆ける骨付き肉にはピスリ・カ・グの姿と位置が分かるようで、押し寄せる生臭い匂いと気配の間を縫うように走り、ゴシュが水銀の瓶を投げたい絶妙な位置まで迫っては戻る。

 ゴシュの手の中に在っても既に眩しいほどに輝く水銀は、投げ込まれると空中で何かにぶつかって瓶が割れ、花火のように幻想的な緑銀の光を散らした。

──ピィーッ!

 またも悲鳴のような叫びが上がり、むっとした生臭さが強くなる。

「うええ、ひどい匂いだ……!」

──鼻がおかしくなるよ!

 鮮度の落ちた魚を水で煮たようなその匂いには、どうしても馴染めない不気味な邪悪さが隠れているようだった。

──ゴシュ、戻った方がいい。何か大きいのが来る!

「わかった! ……みんな、何かでかいのが来るってさ!」

 仲間たちの密度の高い場所に戻りつつ、注意を促すゴシュだったが、ファリスやラヴナ、セレッサが何かを注視している事に気付いた。

「気を付けろ! 何かおかしいのが来る!」

 暗い森より高い位置に、亡霊のような白い何かが二体、距離を取って現れた。立っている人間のようで、しかしどこか違和感のあるそれに、セレッサは『優れた射手の眼』を、ファリスは『望遠』によって、それぞれ目を凝らす。

「え? 何ですか? これは……!」

 言葉を失うセレッサ。

「どうしたの? 何を見たの? すごく嫌な感じだけど……」

 クームの問いに対して、セレッサは確認するように答えた。

「私の頭がおかしいのでないなら、おそらく人間の、手足の無い裸の男女です。ただ、白眼を剥いていて意識はなさそうです」

「どういう事?」

 同じく、地上にいるファリスも『望遠』で見たものを皆に伝えていた。

「信じられない! おそらく意識を失っている裸の男女だわ。手足の先は融けて血管や神経がすごく大きいピスリ・カ・グに同化しているみたい! この群れの母体よ、たぶん! うっ! 込み上げそう」

 ファリスは物陰に走り去った。

「何という事を! ルイン様、何とか救う手立てはないのでしょうか?」

 悲痛と怒りの混じったシェアの問いに、ルインも険しい表情を浮かべる。

「見えるなら彼らは実体のはず。ピスリ・カ・グ部分を倒して助け出せればよいが……」

「面倒だけど何とか出来るわ。なるべく鋭利に彼らを切り離す必要があるけど、こちらにはクロウディアがいるから。ただ、まずはあのバカでかい本体を止めなくては駄目よ!」

 ラヴナが勇ましく助言する。

 人間を取り込んだ二体の巨大なピスリ・カ・グは、近づくにつれて完全な透明ではなく、やや輪郭の分かる半透明に見えてきていた。それは体高のある三角の断面をしたナメクジに似ており、前頂部からは管になったミミズのような器官が何本も飛び出してうねうねと動いている。その後部には牛の角のように湾曲した、柔らかくも尖った器官が伸びており、この器官の付け根の中間に人間の身体が封入された形になっていた。

「これが、この化物たちの本当の姿かよ……」

 あまりの異形ぶりに多くの者たちがゴシュのように言葉を失う。

──ア、ア、ア、ア゛!

 女の身体を取り込んでいる個体が耳をつんざくような恐ろしい声を上げた。その叫びは心にも恐慌状態を引き起こす効果があるらしく、何人かの猫の剣士たちが突っ伏している。

「気付け薬を使うんだ! 動ける者は高所ですくんでいる仲間が落ちないように支えてくれ!」

 ジノの呼びかけに、心への影響が少なかった猫の剣士たちは素早く従う。

「うおっ! こいつらの力がいきなり強くなりやがった!」

 今度はギュルスが叫ぶ。

 今まで透明だったピスリ・カ・グたちは、ぬらぬらと虹色の光沢をまとい、半透明に見えるようになった。ばらばらで緩慢だった動きは急に組織立ち、雄牛のような突進力を出し始める個体が相次ぐ。

「盾ぇー構え! 壁作って止めんぞお前ら!」

「おうっ!」

 屈強なヴァスモー兵たちが腕や肩の筋肉を盛り上げつつ、姿勢を絞って燃える盾を押し、炎の鉄盾の壁を作る。半透明の敵の突進は重々しい音と共に止められたが、ヴァスモー兵たちも食いしばる歯を見せているものが多かった。

「ルインの旦那、長くはもたねぇぜ!」

「ヴァスモー兵たち、肩を借りるぞ!」

 ギゼが素早くヴァスモー兵たちのベルトや肩を足掛かりにして宙に舞い、魔獣を宿す曲剣から炎の吐息を放つ。

「撃ちまくれ!」

 ルイン、アゼリア、シェアはできる限りの速さで水銀弾を撃ちまくった。流星や花火のように緑銀の光が何体ものピスリ・カ・グの身体を貫いていくが、どういうわけかその数が減らない。

「どうなってやがる?」

 盾を全身で押しつつ問うギュルス。

「何かおかしい。数が減らない」

 ルインも異常に気付いた。

「ルインさん、大きな個体から次から次へと同じようなのが生まれているわ。でも、母体の大きさは変わらないみたいよ?」

 『望遠』を使っていたファリスが言う。

「何だって? つまり母体を叩かなきゃ駄目なのか。どういう仕組みなんだ?」

「月の魔物ってのはそういうおかしなもんなんだ。ある意味で生殖と分裂、召喚の混じった増え方をするんだよ。奇妙だろ?」

 バゼルは言いながら手をかざすと幻影のように大きな鋏が現れ、何体かのピスリ・カ・グをまとめて真っ二つにした。

「まあこれくらいはやってやるけど、あまりあたしの魔力は消耗しないでほしいもんだね」

「ふん、要するに一番大きいのを動けなくすればいいんでしょ? ……黒曜の魔導龍よ、母なる我が名においてその首をもたげ、紫炎の一閃を吐け!」

 ラヴナの背後に獰猛なダギドラゴンを思わせる印章シグナイトを含んだ魔法陣が現れ、それは黒紫の暗い光に燃え、相当な大きさに拡大した。その中から、黒曜石で造られたのかと見まごう質感の、家よりも大きいダギの頭が現れ、黒く光る煙の立ち上る口を開く。

──承知した。我が母なる造物主よ!

 黒曜石の竜は中心のみ白い黒紫の火線を吐き、多数のピスリ・カ・グと二体の人間を取り込んだ個体の胴を両断するように一閃する。暗い光が爆発し、無数のピスリ・カ・グの断末魔が上がる中、二体の大きな個体は斜めに斬られたゼリーのようにずれ、その動きが止まった。

 続いて、一同はその激しい爆風から身を守るべく、屈んだり腕や得物で眼や顔を護るが、魔族の姫のすさまじい魔術の力に、誰もが言葉を失っていた。

「やっぱりラヴナ姫はとんでもねぇな……」

 ギュルスがぽつりとつぶやく

「よし! これで流れはこちらのものね! さあ、畳みかけてあの二人を救い出すわよ!」

 皆が言葉を失っている中、腰に両手をあてたラヴナの得意げな声とともに、初夏の夜の静けさが戻ってきていた。

──キルシェイドの魔族の姫たちの能力は謎めいている。彼女たちは非常に美しく、また賢く、戦士としても一流であり、魔術は大魔導士でもその足元に及ばない。時に信仰を集めるほどのカリスマも併せ持つが、その正体は謎のままである。

──コリン・プレンダル著『魔界淑女序列』より。

first draft:2021.03.26

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