第二十二話 決して侮るなかれ

第二十二話 決して侮るなかれ

 不帰かえらずの地にて眠り人一行が見えざる月の魔物の大群を殲滅せんめつした三日後。

 ウロンダリアの西の大国大プロマキス帝国その北方の学園都市、古都アンダルヴィル。

 かつて『月の落涙』が起きてしまい多くの犠牲者を出した古い学園都市は、濃い霧と共に不気味な陰鬱いんうつさの漂う人気の少ない不気味な街へと変貌していた。集中力を散らさないようにと重厚な建築物に多用された濃い灰色の煉瓦れんがもまた、この雰囲気をより一層重いものにしている。

格子こうし、上げい!」

 鋭い号令と共に、城塞都市でもあるアンダルヴィルの正門の、四角い鉄棒で組まれた大きな格子が引き上げられ、特級異端審問官とっきゅういたんしんもんかんの使う鉄板張りの黒い装甲馬車が通り抜けていった。そして再び鉄格子はギロチンのように落ち、火花を散らして通路の落とし込みに食い込む。

「……おい、あの馬車」

 球面の全くない、武骨に角ばった正門見張り塔の兵士がひそめた声で同僚に呼び掛けた。

「ああ。特級審問官の馬車だ。何かあったな」

 鎧の上にローブを着込んだ学園都市らしい門番たちは、深夜の不吉な来訪者がどこに向かうのか、おおよその見当はついていた。

 黒塗りの鉄板に滑らかなびょうのみがしばしば魔導まどうのかがり火の光を反射し、影のように走る四頭立ての審問官の馬車は、正門のアーチの大きな鉄扉が半分壊れて崩れた、かつての大学だった建物に入っていく。

──退魔教会神秘研究大学たいまきょうかいしんぴけんきゅうだいがく

 かつて、大プロマキス帝国の神秘系最高学府であり、学園都市でもある古都アンダルヴィルを象徴する威厳ある大学は、今は周囲の闇に隠されていた邪悪な濁りが漏れ出したような不気味さが漂っている。

 正門から歴代の教授たちの立像がある通路を通り抜けた装甲馬車はやがて校舎よりも大きな実験棟へと向かう。誰もが忌避するその建物に近づくにしたがって、大きな木箱や人がすっぽりと入るようなガラス製の筒などが多く見られるようになっていた。

やがて装甲馬車の速度は落ち、鉄輪と石畳が砂を挟む音とともに止まると、不気味な微笑を浮かべた『カイナザルの仮面』を付けた大柄な人影が馬車から降り立った。

「そう時間はかからないはずだ。すぐに戻る」

 何か確信に満ちた声。降りた男は仮面を外して御者にそう言う。銀髪に白髪の混じり始めた、頑強な面長の男。堂々たる体躯たいく単眼鏡モノクルを付けたその眼には、戦士とも学者ともつかない骨太の眼光が宿っている。

──特級退魔教導士、エドワード・コッセル

 特級の異端審問官でもあるこの男は、かつてのシェアのあらゆる方面での師匠だった。

「ふむ、やっておるな」

 エドワードは魔導仕掛まどうじかけの懐中時計かいちゅうどけいとハンカチを取り出した。時間は深夜。本来なら来客などはばかられる時間だが、相手はそのような事を意に介しないだろう。そして、漂う死臭と薬剤の匂いを阻むべく、ハンカチで口と鼻を隠す。

 魔力の働く気配がし、玄関を入ってすぐ、左右に飾られていた人体模型の骸骨の眼に鬼火が灯ると、最初から怒気をはらんだ声でそれが話し始めた。

「こんな時間に何用だ? わしの手を止め、耳を傾けるに足る話であろうな? 私は実験の最中だ。下らぬ話なら……」

不帰かえらずの地のピスリ・カ・グが全滅した可能性があるのだが」

「何だと⁉ 来い、話を聞く!」

 魔力の気配は消えてしまい、骸骨の眼の光も消えた。通路の両脇にある人体模型は、かつて人間だったものだ。生きた人間の血管に水銀その他の薬液を注入することで、眼球、神経、血管、一部の臓器を残した骨格標本を作ることができる。初めて見た者はしばらく悪夢に悩まされるような恐ろしい外見をしているが、全ての人間の中身がこうでもある。エドワードはにやりと笑うと、このような標本の多い狂気じみた実験棟の大解剖室だいかいぼうしつへと向かった。

 次第に人の気配も多く感じられるようになり、同時に血の匂いも強くなる。『大解剖室』という表札の掛けられた半開きの大きなドアをくぐると、そこは人間の正気や善意など存在しない光景が広がっている。壁のくぼみに立てられた大きなガラス筒の中の無数の標本と、並ぶ数十の解剖台。その間を、全身を白装束で包んだ者たちが忙しく動き回っている。

「床清掃遅いぞ。次の検体に麻酔をかけろ! 六番の解剖台の死体はゴミだ。適当に処分しておけ!」

 忙しく指示をしつつ解剖をしている、尖った学帽に血塗れの白衣の男がいる。

 解剖台には老若男女様々な検体が横たえられていたが、見る影も無く赤い人型の塊になっているものもあれば、ごく一部だけ解剖されているものもあった。胸の悪くなることに、解剖部位の少ない人間はまだ呼吸をしていた。

「ご精が出ますな」

「手を止める気はない。解剖も実験も忙しいのだ。もうほぼ結論は出たがな。で、何が起きた?」

 若い女の検体から肋骨を外しつつ、とがった学帽の男はわずかにマスクをずらして聞いた。太い眉にぎょろりとした目、ごつい顎。頑迷に等しい信念をもって狂気の研究をするこの男は、巷では『血塗ちまみれの錬金術師』と呼ばれる、エドワードと同じく特級の異端審問官でもある、蛇蝎だかつの如く嫌われている男だった。

──血塗れの錬金術師ダクサス

「クローヴァスと審問銃士隊しんもんじゅうしたいの連絡が取れず、バゼルも消息が分からなくなった。一方で、不帰かえらずの地のヤイヴの砦と最果ての村にはキルシェイドの眠り人の勢力が入り、とりでの復旧まで始めているらしい。カレンからの情報だ。そして『水銀灯すいぎんとう』は全く反応しなくなったと」

「何だと⁉ つまり、ピスリ・カ・グは試験体もろとも全滅させられたというのか⁉」

「そうなりますかな」

 ダクサスは両手の解剖器具を持ったまま、解剖台にそれらを叩きつけた。

「おい、ふざけている場合か! ここまで来るのにどれだけの手間がかかったと思っているのだ? 私の検証が正しいなら、あれらの試験体はもうじき、『人の姿をした人ならざる者』を生み出すはずだったのだぞ⁉」

「どうやら思った以上に厄介でしたな。私も気が気ではありませんよ」

 事も無げに言うエドワード。

「貴様に我が崇高すうこうな実験と志が分かるものか!」

「ずいぶんな言われようですな。しかし、あなたの理論が実証されねば私の目的は達成されないのですがな」

「なら、なぜあれを守らない?」

「全ては同日の昼から深夜にかけて行われた模様です。正直、これほどとは予想外でしたなぁ」

 エドワードはこの言葉でダクサスが冷静になると踏んでいた。案の定、ダクサスの眼から一瞬で怒気が消え、冷静な言葉が返ってきた。


「……早すぎる。実に興味深い。あの姿の見えぬ、我々の世界とは異なる理で増殖し強大化するあれをそこまで早く退けるとは。赤き月シンの神秘だけではなく、やはり魔の国キルシェイドの力と眠り人の力も注視すべき神秘だな。見たい……見たくなってきたぞ!」

「君ならお気に召すと思っていたよ、ダクサス。古王国連合と異端審問会の官僚どもには、この事態の意味がすぐには理解出来んだろう。さらに興味深いのは、バゼルの消息が分からない事だ」

「……大神官は何と?」

「『あり得ぬ』と。あの女の正体を我々は知らないが、あの得体の知れない力はどうにも混沌カオスを感じさせる。我々にさえ深部を開示しない大神官だが、この事態はよほど予想外のものだったらしい」

「ほう、大神官ダグエランがそう言っていたのか。統一神教とういつしんきょうの暗部は我々も深入りできないが、その言葉は興味深い。まして奴は未来視の力があったはず。ヤイヴの娘を取り逃がしたことは誤差の範囲だと言っていたが、これは違うな。奴の背後の力に匹敵する何かが眠り人側にも働いており、そう都合よくは事が進まない事を意味している。決して侮ってはならん局面だな」

 神秘を見るのがその神髄しんずいである錬金術師らしく、ダクサスは深く慎重な洞察を述べる。その答えはエドワードが期待していたものであり、また、予測していたものでもあった。

「流石ですな。私もそれを考えていましたよ。そして、運命のほころびを元に戻すには……」

「まずはヤイヴの娘と狼を捕えて、これ以上は誤差が出ないようにする必要がある。いや、深入りは禁物だ。既に試験体は失われてしまったが、答えは出たも同然。必要と見せかけて誘引し、『古都ことの門』を用いて奴らを殲滅せんめつすればよいのだ」

「同感ですな。では、私はこれで」

 深夜の陰鬱いんうつな密談は終わったが、この密談には恐るべき罠の発動を用いる意味が込められていた。

──大プロマキス帝国北方の学園都市アンダルヴィルは、かつて重厚な学園都市だったが、『月の落涙』によって多くの犠牲者を出してしまい、現在は古王国連合の管理下のもと、原則として立ち入り禁止である。

──古王国連合神秘案件調査会著『アンダルヴィル事件報告書』より。

 同、翌日午前。

 大プロマキス帝国、首都ウロンダル、同国の最古にして最大のギルド(※この場合は公的な研究・探索の協会を意味する)『深淵しんえん探索者協会たんさくしゃきょうかい』。

 ギルド長および評議員ひょうぎいんしか入れない会議室では、早朝に届いた密書みっしょをめぐって既に半日も議論が続いていた。由緒あるこのギルドから不帰かえらずの地に出た探索者たちが何らかの陰謀に巻き込まれていた事を伝えるもので、夢魔の姫チェルシーと眠り人から来たその密書には、書かれていた出来事がいずれ聖王国と魔の国の記録官が公式に認める物であるとの誓書せんしょまでついていた。

「駄目だな。意見が割れて結論が出ない。古王国連合と我が国の元老院の顔色を伺えば、この密書は無視するべきだが、先方はわざわざ我々に機会を与えてくれたのだ。我々が陰謀に関与していない、という立場を取れるように」

 議論に疲れたギルド長は困憊こんぱいを隠さずに頭を抱えてため息をついた。

「しかし、古王国連合と我が国を敵に回すような事は……」

「それ以前に、この件が表に出たら、我々のこのギルドの信頼は地に落ちるぞ。ギルドは国家や政治に縛られてはならぬものだ」

「背に腹は代えられまい? 理想だけではやっていけぬ!」

 何週もした議論は繰り返されては沈黙していた。そこに、重いドアをノックする音が響く。

「べスタス様がお見えです。畑の仕事を終えられたとかで」

「お通しするんだ!」

 洗練された青い事務衣装を着た職員の女性がドアを開けると、土まみれの長靴にほこりだらけのベストを着た、眼光鋭い小柄な老人が入ってきた。

「すまんの、畑仕事に時間を取られてな」

 ギルド長他評議員たちは立ち上がって深々と一礼する。この老人は『深淵の探索者協会』のたった一人だけの特別顧問であり、かつては偉大な功績を遺した探索者であり、晩年はこのギルドの評議長を長年務めていた人物だった。

「状況は畑仕事をしながら聞いたが、結論は出たかの?」

「いえ、それが、なかなか紛糾しておりまして、結論が出ないままです」

「ほう、そうかそうか」

 にっこりと笑みを浮かべた老べスタスは、職員の女性が用意した椅子に腰かけるかと思われたが、眼を見開いて大声で怒鳴った。

「この馬鹿者どもが! 自分たちが何者であるか忘れたのか?」

「はあっ⁉」

 評議員の何人かが椅子から崩れ落ちるほどのすさまじい迫力だった。

「全く情けない。もうここも終わりじゃな。分からぬなら自分の眼で確かめるのが我がギルドの神髄にして冒険者というものであろうが! そもそも、由緒あるこの協会が下らぬ陰謀に巻き込まれ、保護すべき冒険者を犠牲にしたならやり返さねばならん案件じゃぞ? 舐められておる。全く舐められておる! そんな事も分からんのかおぬしら!」

「しし、しかし古王国連合や統一神教、我が国の元老院の機嫌を損ねるような事があれば……」

「そこからして間違っておる。『法の書』はギルドの権限は不可侵であると認めておる。力で何かされるなら、それ以上の力をつければよかろう。考えてみるがいい。ここしばらく、覇王の痕跡は見つからず、探索依頼もケチなものばかりじゃ。ギルドが弱体化するのも当たり前じゃ! しかしな、古来から眠り人が現れれば、世界は大きく変容する。新たな探索も見いだせるやもしれんし、上位魔族ニルティスの冒険者や、聖王国の『天の人ダイヴァー』の冒険者も登録するような案件と伝手が出来れば、新たな風が吹くとは思わんか?」

「た、確かに……」

「しかし、古王国連合と対立し過ぎるのは……」

「老い先短いわしの首を差し出そう。何かあったら、わしの強権におぬしらが逆らえなかったとすればよい。何か面白いものが見られるなら、わしはそれでいい。根っからの冒険者なのだ。笑って死ねれば満足じゃ」

 老べスタスは子供のように屈託のない笑顔を見せた。

(この方がそこまで言うのなら……)

「まあ、もう一つ言うと、最近雇った秘書が魔の国の者でな。事情にとても通じているゆえ、わしなりに見通しが立っている面もあるのじゃ」

「そんな事情もおありでしたか」

 こうして、『深淵の探索者協会』は、政治的に巧妙な綱渡りをすることになり、眠り人の元へは老べスタスとその秘書が向かう事となった。

──『深淵の探索者協会』は主に大財閥アステフェリオンの蔵する古文書の内容の確認と、覇王ウロンダリウスの足跡を探る探求が多い。しかし、ここ三百年ほどは依頼内容も発見も小粒なものが多くなっている。

──べスタス・ダガル著『深淵の探索者協会白書、後混沌歴八百十七年版』より。

 見えない敵との戦いと、深夜の儀式の夜から三日が経過していた。ルインと眠り女たちは最果ての村と西のやぐらを往復し、ジノ率いるカルツェリスの猫の戦士たちは探索を、そして魔の国のヴァスモーの百人隊や工兵隊は、最果ての村とヤイヴのとりでの工事を急速に進めている。

 ルインはラヴナとゴシュと共にヤイヴの砦を見回っていた。ヤイヴの司祭が勇士オゴスの夢から啓示けいじを得たとかで、死体が山と積まれていた場所には、彼らの墓掘り職人たちが円形の塚を作るために基礎石を埋めて掘り下げ始めており、数多くの死体は砦の外に運ばれ、あしや流木で荼毘だびに付されている。

「オゴス様すげーな、本当にヤイヴの司祭をよこしてくれたぜ!」

 ゴシュの声に気づいて、腕を組んで作業を眺めていたバゼルが振り向く。

「まあねぇ、勇士オゴスは約束をきっちり守る男みたいだね」

「あんたのお陰だよ!」

「どういたしまして」

 ルインの腕を掴んでいたラヴナの手の力が、わずかに強くなった。

「ねえ、あなたはこれからどうするの? あなたが混沌カオスの存在である以上、多少力をこちら側に貸したところで大目には見られないし、この行動自体が長い目で見ればあなたたち側を利する因果いんがの可能性もあるわよね? それとも、ルイン様相手だから降参するって事?」

 バゼルはふと笑うと、腰の鋏を抜いて空間を斬り、古いワインを取り出して何口か呑んだ。

「『かい』って言葉は聞いたことあるかい? ラヴナ姫」

「知っているわ。絶対的な決まり事よね」

「あんたは魔族だから、『かい』により、あたしの本当の姿が見えないだろう」

 意味深な沈黙が流れた。

「ふん、舐めないで。推測はできるわ。あなた、純粋な混沌カオスの存在ではないわね?」

「あっ、そういや勇士オゴスが何か言ってたな。混沌カオスの『そう』をまとってるとか何とか。でも、品がいいって」

 このゴシュの言葉は、バゼルにもラヴナにも都合の良いものだった。

「そういう事ね? あなたは望んでその姿でいるわけではない、と。でも、それだと八百年前の無軌道ぶりが理解できないわ」

「なら、理解できるような何かを見つけて推理してみたらいいさ。全て話せるわけではないのは、わかるだろ?」

「ふーん、面白くなってきたわね」

 異端審問官バゼルこと、『はさみのバゼリガリ』は、どうやら望んでいないのに混沌の女神の相を纏う事になったらしく、その正体は女神らしい。ラヴナの推測は当たっていた。しかし、それだと現在の従順さと過去の狂気の違いが説明できない。かつてのバゼリガリは何かを探すように男の英雄や名だたる戦士に執着していたからだ。ラヴナの高い知性が一つの可能性に至る。

「……もしかして、誰かを探していた?」

 誰かの部分に、ラヴナはルインを当てはめて問う。一呼吸おいて、バゼルは答えた。

「……そうだよ。ずっと探していたさ。蒼い城の想い出と共にね」

「なんて事……!」

 ラヴナは絶句した。バゼルの答えは彼女が遠い昔、ダークスレイヤーに与えられたという貴き女神の一柱であることを暗に示唆していた。

──『かい』という概念がある。世界を構築するにあたって、種族や存在ごとに決められた認識の枠の事だ。ただし、我々大賢者はこれからも自由であり、ゆえに神々の定めに縛られない。真の知恵とは自由をもたらすものだからである。

──賢者バルカンド著『知』より。

first draft:2021.05.26

コメント