第三十八話 決戦
いずこかの外つ世界ウル・インテス『二つの世界樹の都』テア・ユグラ・リーア
闇の恐ろしい嵐と波浪が荒れ狂う中、四人の上位者たちは闇に堕ちた女神ミゼステを見下ろし、瞬時に対策を練る。
「さて、私たちの力は直接攻撃するような用い方は禁じられています。まずはこの荒れ狂う闇の嵐を少し鎮めましょう」
悔悟の天使を名乗るセシエルは、翼の飾りのある細い真鍮の聖杖でゆっくりと輪を描いた。
──真数言語・阻塞の杭。
船の女神ミゼステを取り囲むように上空にまばゆい黄金の光を放つ杭が十六本現れ、それは柱のように荒れた海に突き刺さった。目に見えて海の荒れようと風雨は弱くなり、見通しの悪かった闇は光る杭の放つ光によってかなり遠くまで見通せるように照らし出された。
「過ぎた力の行使は運命の正しい流れを損ないます。初手はこれくらいでいいでしょう」
「適切であろうな。次は余だ」
微笑むセシエルに続いて、死者の王マルコヴァスが重々しく進み出た。
「さて高位の女神よ。そなたは本当に闇に転じて全てを嘆いている場合か? そなたの民たちは神を奪われ、未だ神の導きを求めておる。そなたは神としてそれに応えようとするか、或いは嘆くだけの有害な存在となり、討伐される未来を選べる。我が契約者たちをよく見て、おのれがいかなる存在であるべきかよく考えるのだ」
マルコヴァスは長衣の袖に手を引き込み、再び引き出した。弱々しい赤子の泣き声が周囲に響き始める。それは女神ミゼステの嘆きの嵐よりも哀れで耳を引くもので、ラヴナやバルセはなぜか強く胸の締め付けられる悲しみに襲われた。
マルコヴァスが開いた手の中には割れた小さな赤子の頭蓋骨があった。それは弱々しい心臓のように脈動する淡い光を放ち、今にも消え入りそうな泣き声を放っている。
「何これ……すごく悲しくなるわ……」
バルセと共に、ラヴナは流れ落ちる涙を止められなくなった。
マルコヴァスはその様子を意に介さず、骨の手で複雑な印を結び叫ぶ。
「死してなお我が子の飢えを嘆く者どもよ、女神の傲慢を正すが良い。そなたらより悲しみに満ちた存在がおらぬことを示すのだ」
──餓鬼海兵・捨て掛かり。
マルコヴァスの印から青白い鬼火がいくつも海面に降り漂い、それらは骸骨のように痩せさらばえた兵士や女の乗る数多の小舟と化した。
「あれは?」
ラヴナの疑問に答えるともなく、マルコヴァスは独り言ちた。
「神の祝福を強制的に外され、枯れ果てた大地を後にし、灼熱の海の上で飢え死にしていった者どもだ。神への怨嗟と、幼子を飢え死にさえた悔いに満ちておる。あれより哀れな者どもがいようか?」
「そんな……」
餓鬼の海兵たちはミゼステの眷属『蒼白の男たち』の船へと向かう。蒼白の男たちは火矢や投げ斧などを放つが、餓鬼たちは船や己の身に刺さったそれらを馳走のように貪り食い、口から血を流しつつ、両目に恐ろしい鬼火を燃やして眷属の船とその乗り手たちに襲い掛かった。
たちまち冥界の死者同士の恐ろしい争いとなったが、餓鬼兵たちは槍を刺されようが斧を打ち込まれようが全くひるまずに魔女や蒼白の男たちに襲い掛かり、その戦船さえ齧るほどの飢えに囚われていた。
餓鬼兵たちの恐ろしい叫びと、蒼白の男たちを襲った死後の絶望の叫びが相次ぐ。この様子に、女神ミゼステの様子が変わった。
「ああ、我が闇の信徒と眷属たちよ! 私をこうして滅ぼそうというのか……させぬ!」
暗黒の霧が噴出し、ミゼステの姿は覆い隠されてしまった。
「まあ、こちらもさせませんが」
セシエルが左手に持ち替えた聖杖に逆手にした右手を添える。淡い光の柱が降り注ぎ、ミゼステを覆い隠した暗黒の霧は立ち消えてしまった。
──真数言語・破幻の光。
「さあ、これで攻撃が当たらない効果も消失したはずですよ? 魔族の姫様たち」
「そろそろケリをつけてやるわ。バルセ!」
ラヴナは勇ましく声をかける。
「ええ。今度こそ畳みかけましょう?」
餓鬼兵と蒼白の男たちの混戦が続く中、ラヴナはミゼステの正面に、バルセはその上空に位置を取った。
「ギルディアス! 今度こそ薙ぎ払うぞ!」
再び黒曜の魔導竜を呼び出す紫炎に燃える魔法陣が展開した。
「我が冷たき愛を満たして全て凍てつかせてあげるわ!」
バルセもまた、凍てつく花を象った大型の魔法陣を展開させた。冷気が澄んだ呻りをあげ始める。
──黒曜の魔導竜、紫炎の一閃。
──大氷塊の散華。
魔導の竜ギルディアスの放った膨大な魔力の咆哮は、今度こそミゼステの船体を左下から右上へと斜めに薙ぎ払った。さらにバルセの召喚した尖った大きな氷塊が降り注ぐ。
爆発と閃光ののち、ミゼステは恐ろしい叫びをあげて巨大な船体が大破した。嵐が弱まり海の水位が下がり始める。
「手こずらせてくれるわ……!」
しかしラヴナには妙な予感があり、ミゼステの視線を追った。ミゼステの闇に染まった目は頭上の月を見上げているように見えた。さらに、心のどこかにまだ危機が去っていない予感がざらざらとした感触を残していた。
(まだ何かある!)
「バルセ、出来れば船の女神の動きを止めて!」
「任せておいて!」
バルセは白い獅子シウバスと共に、また次の大術式の為に円を描く。白く輝く冷気が大破した船とミゼステに降り注ぐが、ミゼステと船体から噴出する闇がその冷気を阻み、さらに冷気が押し負け始めた。
「溢れる……闇が……!」
闇に染まった目のミゼステが嘆息するように漏らす。ミゼステの船はぎしぎしと古い木の軋む音を立てて急速に劣化し始めた。同時に、ラヴナの召喚した黒曜石の竜ギルディアスの吐息で大破した部分から濃厚な闇が噴出し始める。
「なるほど。おのれの領域に多すぎる闇を封じ込め、耐えきれずに闇に染まってしまったか……」
マルコヴァスが特に感情の無い感想を呟く。
「気高い事ですね。つまりはあの闇をこそ討伐すべきですね……!」
『修復者』セシエルは真鍮の聖杖を構えて目を閉じた。切り落とされた二対四枚の翼を展開すると、欠損した部分に透けた光の翼が現れ、黄金の光がミゼステを照らす。
その光が当たった部分は闇に堕ちる前の神々しい船体とミゼステの姿に一瞬戻るが、光が差さなければ闇の姿に戻った。しかし、驚くべきは噴出した闇が様々な魔物や人の姿を取り始めた事だった。
「闇と憎悪を具象化して形ある存在に致しましょう。そして、悪意や闇の討伐にはこのように分かりやすい形にして討伐するのが非常に有効となります。我らが闇の真王様の一助となるべく、照らす光を!」
折しも勢いの弱まった暗い海面から、若草色の淡い光を纏って複雑に絡んだ荊の柱が何本かせりあがり、それらは花が開くように頂部を開放した。この能力を使用したであろう『薔薇の眠り人』ロザリエとともに、ウロンダリアの戦士たちや、アーシェラの扱う女神ヘルセスの権能によって体調を回復した三種族の戦士たちが現れる。
その様子を見たセシエルは意味ありげに微笑み、さらに次の力を行使した。
「かつて無限世界の法の執行者であった私たちの権能はほぼ失われておりません。永遠の地の戦士たちよ、あなたたちをしばしの間、大地が全てを引く力から自由にいたしましょう。あなたたちの地平は心のままに!」
──真数言語・上位者の地平。
三種族の戦士たちとウロンダリアの戦士たちに光の加護が与えられ、その心から重力の縛りが消えた。
「ああ、わかるぜぇ! 海の上を走って戦えって事だろう! やってやらあ! ゴチになるぜテメェら!」
ひしゃげた鉄の丸盾と大斧を掲げて、ギュルスがいち早く海面に飛び降りる。
「一番斧はおれが貰うぜ! お前らも続け!」
屈強なヴァスモー族の突撃隊は次々とうねる海に降り立ち、ミゼステの船体から湧き出す闇の存在たちに果敢に突撃し始めた。
「私たちも続くのです!」
三種族の代表、高齢の古き民の女性もまた、ずぶ濡れのままで指示を出した。古き民の弓、月の民の戦士たちの輝く剣と槍による突撃とそして歌、さらに翼の民の雷槍が闇の軍勢に相対し始める。
「行きましょう、私たちも!」
クロウディアが曲剣を掲げて皆を鼓舞した。
「あたいも行くぜ!」
ゴシュと骨付き肉も暗い海面に降り立つ。その周囲に霊体のヤイヴの戦士たちが姿を現した。
「みんなと一緒に手柄を立てるんだ!」
フック付きの頑丈な包丁をくわえた骨付き肉と共に、ゴシュは皆に続いて闇の存在たちとの戦いに加わった。霊体のギャレドの氏族の戦士たちが声のない雄叫びを上げて、闇の存在たちに果敢に攻撃を仕掛ける。
「ゆくぞ猫の戦士たち、あともう少しのはずだ!」
猫の戦士ジノも小剣を掲げてカルツ族の剣士たちに声をかける。
「わしらも行くぞ! 探索者冥利に尽きる戦いじゃ!」
老ベスタスも熟練の探索者たちに声をかける。
「行きましょう皆の者! 我がバルドスタに新たな伝説を積み上げるのです!」
青白い幻影の炎に身を包むアーシェラもまた、バルドスタの騎士や戦士たちに号令をかけた。
船の女神ミゼステの船体から洪水のように噴出する闇の異形の魔物の数は増え続けていたが、状況はここでやっと世界樹の都側の有利に傾きつつあった。
乱戦の中、錬金術によって生成した戦闘用の人工精霊を二体呼び出した『血塗れの錬金術師』ダクサスは、深い困惑の中で戦いに加わっていた。
防護の場を作る人工精霊と、魔法の矢や火球を放つ人工精霊を従え、他の戦士たちの援護をしつつ場を移動する。その戦いのさなかに、暗殺する予定だったヤイヴの娘と使い魔の狼や、眠り人に関わる大きな運命のうねりを目にした事により、見えざる大きな力がこの運命に介入している事を理解したダクサスは、判断を誤れば自分が眠り人たちの運命を阻害する存在として、容易く排除される可能性に思い至っていた。
(このままでは、私は凡百のいわば『悪役』として奴らに殺されかねん……!)
一方で、月の魔物を研究するために異端審問会や退魔教会と関わり、不帰の地での魔の国のヤイヴたちの虐殺を立案したのも自分であり、これは神々の眼からは一目瞭然で言い逃れの出来ない事実だった。既に贖いようのない罪がある。
(しかし、おそらく異端審問会側で見られる神秘より、眠り人側で見られる神秘の方が上だ……!)
恥や外聞、そして倫理などよりも神秘への探求心が勝るダクサスは、現状では高い確率で自分が運命から排除される側だと理解し、その上で生きて神秘を探求し続ける道を必死に考え始めていた。
茫漠とした美しい星の海。
「黒い方、終わりました」
星の海のただなかで機織りの音を聞きながら目を閉じていたルインは、バゼリナの声で目を開けた。
「少し、休めましたか?」
胡坐をかいていたルインは目を開け、伸びをして立ち上がった。
「ああ。もともとよく休めているほうだ。しかしこの領域は美しいな」
「そうでしたね。そして、この美しい星の海は『ファティスの星の海』と申します」
バゼリナの声はいつもよりも艶が増していた。普段着ている薄桃の祭服とは異なり、いつの間にか露出度の高い踊り子の様な黒装束となっており、その全身を薄桃色のヴェールが覆っている。
「しばらくあまり私を見ないでくださいね? いえ、見て下さっても構いませんが、なかなかに気恥ずかしく。このような特別なものを織って仕立てるには、私も本気を出さなくてはなりませんからね。踊りを司るあの方のようにあっけらかんとは、とても……」
ルインにはヴェール越しにでもバゼリナが紅潮しているのがわかった。機織りには様々な秘密があるとされており、おそらくその一端だとルインには目星がついていたが、この事についてあまり触れるべきではないと考え、あえて違う質問をする。
「踊りを司る方?」
「ああ、お忘れかもしれませんね。舞踏を司るウルシュナトラ様です。何といいますか、とても蠱惑的で可愛らしいのにしばしば男気溢れるお方です。物言いが少々明け透けな方でしたが、とても感じの良い方です。私や他の方々とも良く話していました。黒い方はあの方に様々な武器の使い方を教えていたのですよ?」
ルインはうっすらと、水桶を運ぶ誰かの姿を思い出しかけた。
「すまない。今ひとつ思い出せないようだ」
「妙ですね? 記憶にばらつきがあるようです。何故でしょうか? 特に親しい方や印象的な方の事が消し去られているような?」
バゼリナが首をかしげたが、ルインにはその理由が分からないために反応の取りようがなかった。
「今は考えても詮無い事ですね。それより、こちらを……」
バゼリナは機織り機に掛けてあった見事なマントを手に取った。星の海の中にあってそれはかぐろい闇だが、それでも炎のように揺らめきがある。裏地は特にうっすらと紫がかった揺らぎが淡い光を放っているように見えた。
「失礼しますね。あたりを取ってみましょう」
工人のコート姿のルインの肩に、バゼリナがマントを掛けた。
「永劫回帰獄の炎を編んだこのマントは、あなたの魔剣に準じ、やはりあの領域の力を引き出せます。強大な力を揮う時、あなたはあの領域の炎に身を焼かれながら戦いますが、これはその苦しみをある程度緩和してくれるでしょう」
「ありがとう、いい感じだ」
「良ければ魔剣を杖に、睥睨するように立ってみていただけますか?」
「……こうかな?」
ルインは魔剣ネザーメアの切っ先を地平にあたる部分に当て、立てた剣の柄尻に両手を添えた。黒炎のマントは炎のように揺らめく。
「ああ、良いですね。とても良いと思います」
バゼリナは微笑みつつもすぐに真顔になった。
「黒い方、もうじき私のようにあなたの元へと引き渡された女神様たちとの再会が起きるはずです。皆さまの身を護るためにも、あなたの黒炎で同じようなマントを……出来ればフードがついて頭も覆える仕様のものを用意しておきたいと考えています。今回のように領域の炎をお借りしても良いですか?」
「もちろん構わない。必要なのだろう?」
「はい。とても大事な意味を持ちます。今はうっすらとですが、かつて私たちがあなたの元に集められた真の意味も推測できるのです。それはやがて、そう遠くない未来に判明するでしょう」
「……その理由を聞いても?」
ルインの問いに対し、バゼリナは少しの間を置いて慎重に言葉を選んだ。
「無限世界の伝説、『最初の人』の話はご存知ですか? 隠れし神々の似姿として『人の形』を与えられた最初の人の物語を」
「もちろん知っている。『最初の男』にして、『最初の死者』の話だな」
それは無限世界全域に広く言い伝えられている伝説だった。神の似姿で造られた『人の形』を持つようになった存在たち。その最初の一人は男であり、その伝説を継いで、この無限世界全域を統べる絶対者、隠れし神々の使徒にして至高の王『聖魔王』は男がなるものとされている。
「それがどうも、『最初の人』は女だったらしいのです」
「今まで聞いてきた多くの伝説と全く違うぞ? どういう事だ?」
「私も困惑しています。これがもしも事実なら、『最初の男』の遺志を受け継ぐとされる界央の地の高き玉座はその正当性を失う可能性があります。あれが全て欺瞞という可能性さえありますから。一方で……」
バゼリナは少し言い淀んだのち、話を続けた。
「遠い昔、『蒼い城』にいた女神様たちの何柱かは、『母なる声』を聞いたことがあり、その声は私たちに丁寧に接するあなたが、『母なる声』に好ましく思われていると漏らしていた事があります。私が憶えている限りでは『踊り子』ウルシュナトラ様、『導きの灯火』ハルシャー様、『木の蛇』セルセリー様、『龍の神姫』キルシェダール様などです。皆とても由緒のある位の高い方たちです」
ルインは記憶を手繰ろうとしたが、手繰れる何もない暗い霞が広がるのみだった。
「参ったな。記憶が辿れない。君のことは思い出せたのにな」
「それもまた不可解です。あの方の仕事にしては……」
「あの方?」
「あっ……その、あなたの記憶を一部封じたり眠らせた方に心当たりがあるのですが、その方の仕事にしては少し記憶の封じ加減に偏りが感じられるのです。ただ、これについてはまだ聞かないでください。重大な運命がいくつも関わっていますから」
「困ったものだな。何もわからないままだ。本来ならとても驚くべきところだと感じているが、記憶がまばらなのは考えものだな」
「きっと今はその方が良いという事なのでしょう」
運命の流れをよく理解している二人は、踏み込むべきではない部分にはそれ以上考えを巡らせない事にした。
「それよりも、『二つの世界樹の都』ですが、おそらくあなたは『界王の器』を持つ方とこの後戦う事になります。遅れを取るとは思えませんが、むしろ救済が必要になるかもしれません。心しておいてください」
「ああ。あの都の事は思い出しつつある。そろそろ行こうか」
「マスティマ・ウンヴリエルを断罪した戦いですね……」
こうして、ルインとバゼリナもまた、『二つの世界樹の都』へと向かい始めた。
first draft:2021.12.28
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