第三十九話 月光の剣士
異なる世界ウル・インテス。『二つの世界樹の都』テア・ユグラ・リーア。
大破したミゼステの船体からあふれ出た魔物の姿をした闇は、次第にその勢いを失って包囲殲滅されつつあった。特にゴシュ率いるギャレドの氏族の霊体の軍勢は、通常なら効果の薄い霊体への攻撃が全くその様子を見せず、実体のはっきりしない濁った闇に対して、重い煙を払うように的確な攻撃を繰り出している。
骨付き肉と共に戦場を駆けるゴシュは、失われた部族の仲間や家族たちとの不思議な一体感に胸を熱くしながら戦っていた。
「あたいは今だって、みんなと一緒なんだ!」
頑丈なフライパンを振り回して実体のある闇を打ち払い、ゴシュが叫ぶ。骨付き肉もまた、ミュールに倣った回転斬りでくわえた包丁を振り回していた。
「うっしゃあああ、あと少しだぜ!」
叫ぶギュルス。
「皆、あとわずかでこの夜を超えられ、新たな未来に至れるはずです!」
三種族の代表、古き民の女性もまた声を振り絞る。士気高い空気が戻り、大破したミゼステの船体から溢れ出した闇の存在たちは次第にその数を減らしていき、闇の海の水位もぐんぐんと下がっていった。やがて、禍々しさが消えて冴えた月の光の下、闇の海は霞のように漂うのみとなり、暗黒の海に消えていた魔法の足場と、ラヴナが呼び出した黒曜石の巨兵レギオダスが片膝をついて擱座している様子まであらわになり、ミゼステの権能と闇の終わりが見え始めていた。
「ああ……我が内の闇がここまで……しかし、わが身は……」
目隠しのように目を覆っていたミゼステの鎖は完全にずれ落ちており、卵の殻が砕けるように弱々しく船体も崩れ始める。
「己が内に多くの闇を閉じこめんとして、次第に闇に汚染され、堕ちてしまったか。気高い行いだが、闇がはるかに勝っていたのだな。神を失った人々の行動も追い打ちをかけたのであろう」
マルコヴァスがつぶやく。
「みんな、これで……終わりだぁ!」
ゴシュの掛け声とともに、既にかなり優勢になっていた霊体のヤイヴたちの軍勢は、最後の魔物の影めいた闇を霧散させた。
呼応するようにミゼステの船体も霧散し、やつれて汚れた姿となったミゼステが力なく崩れ落ちる。その細い両手で上体を支えたミゼステは涙ながらに月を見上げた。
「オーランド、時は訪れてしまいました。私はここまでです。闇溢れる月でなお戦い続け、愛すべき三種族を再び導くには、私の力は及びませんでした。せめて、未だ続くあなたの戦いに、いつか必ず勝利がもたらされることを……」
「オーランド様がまだ戦われていると……!」
三種族たちからどよめきが上がった。ミゼステは三種族にその眼を向ける。
「何があったかは存じています。しかし、たとえそれが無限世界の絶対者たる存在の命令であったとして、仲間を闇の勢力渦巻く月に送るような所業が許されてよいものだったのでしょうか? 再び長い時を経て混ざり合った血を戻すのもならぬとの話なら、私たちは罪を重ねるよりも剣を取るべきだったのではありませんか? 罰を恐れて堕落して永らえ、同胞を見捨て続けるよりも……」
重苦しい沈黙が漂ったが、三種族の女性がようやく口を開いた。
「その道にあるのは全滅です。私たちは『人に近き者』です。高尚な全滅より、たとえこうして非難されても、罪を背負っても生き続ければ希望が……」
「希望などどこにあると言うのだ! 同胞を惨い運命にして、どの口が希望を語ると言うのだ!」
ミゼステは恐ろしい声で叫び、渦巻くように闇が集まり始めた。
「私も滅ぼすがいい。この地に漂う怨嗟は幾らでも私の闇の姿を元に戻すであろう!」
三種族に重苦しい沈黙が漂い、やがて古き民の女性が叫んだ。
「できません! これ以上仲間や神を失うなど!」
「なら、お前たちが滅べばいい……!」
再び闇に囚われ始めたミゼステの声は恐ろしいものに変わった。
「駄目ね。申し訳ないけどけりを付けさせてもらうわ! ……レギオダス!」
しびれを切らしたラヴナの声に応じ、黒曜石の巨兵レギオダスの眼が光ると、重々しく立ち上がって黒曜石の大剣を構えて走り始めた。
しかしここで、冷たく強い殺気が凍てつく光のように一同の心に差し込む。
「えっ?」
ラヴナが頭上に目をやりかけたその時、セシエルとマルコヴァスがいち早く動いていた。
「いけません!」
──真数言語・反力鏡玉。
「……ほう。いかんな」
──餓鬼塊召喚。
セシエルは滑らかで巨大な光り輝く鏡玉を現出させ、マルコヴァスはその下に蠢く餓鬼の巨大な球体を呼び出した。
しかし、それらは月から降り注いだ銀の光が貫通して霧散し、巨兵レギオダスに降り注ぐと、魔力が途切れたのか突如としてバラバラに分解して崩れてしまった。同様に、ミゼステに集まる闇も遮断される。
遥か頭上から威厳ある声が響く。
──降魔夜浄月光!
「ラヴナ、それ以上進んでは駄目よ!」
冷気を纏う白い獅子シウバスに乗ったバルセが、体当たりをするようにラヴナとシベレーにぶつかり、冴えた銀の光がバルセの右腕とシウバスの翼を消し去る。
「あっ!」
「バルセ!」
ラヴナとバルセ、そして二頭の獅子はきりもみするように落下した。瞬時に落下を緩和する術式が展開し、数段の印章を突きぬけて二人と一匹が着地する。
「いたた! 大したことないけど久しぶりに大怪我ね」
バルセは失った腕を瞬時に再生させる。一方で、ラヴナは何者かの襲来に感覚を研ぎ澄ました。
「何が?」
冴えた銀の光の柱が立ち、その光の中を一人の男が滑るように降りて来た。男の脚が地につくと銀の光は消え、男は静かに周囲を見回す。そのたたずまいは静かながら威厳があり、青い銀刺繍のコートと夏の月の様な金色の長髪が美しかった。やや細面の貌のその眼は月の様な銀色だった。
男はその背から淡い碧銀の魔力の光を帯びた大剣を抜く。
「幾星霜ぶりか。我がウル・インテスと世界樹の都よ。しかし、たとえ神々の使徒の命令とはいえ、純血でない者たちを月に送るとはいかがなものか。私もミゼステもこのような未来のために月に旅立ったのではない。血が混ざろうとも我々は皆仲間ではないのか? まして、異界の戦士たちまで巻き込むこの有様」
重い沈黙の中、大剣を持つ男は深い呼吸をした。それがこの後の戦いのためのものなのは明確だったが、その凍り付くような澄んだ殺気と威厳に、誰もが動けなかった。
「私の名はオーランド。闇の母神ハドナを絶剣『月光』により討伐し、ミゼステと共にシンの月へと送り封じ込めた者。今はシンの月の都で調和を目指す者だ」
──ウル・インテスの月光の英雄、オーランド。
オーランドは冴えた光を帯びる『月光』の切っ先を三種族のほうに向けた。
「異界の戦士たちを呼ぶ高度な術式。このような物は今までウル・インテスに存在しなかった。そもそも……血の混じった同胞を月の闇の領域に送るような所業は到底認められない。共存を考えぬその傲慢さ、かつての純血の仲間だからとて容赦はしない。手短に概要を話してもらおうか」
オーランドの構える剣の先に、古き民の女性が進み出た。
「今のままでは、いずれにせよこの地と私たちは界央の勢力に断罪される運命を避けられないはずでした。しかし、前回の『月の落涙』の後に、白く輝く大きな星船が現れ、その船の方たちが教えて下さったのです。破滅の未来を避ける方法を……永遠の地の方々を呼ぶ方法を。それは今回の戦いで全滅するはずだった私たちの未来が変わり、はるか遠い滅びの未来さえ避けられるとの事でした。現に今、超えられなかったはずの夜を私たちは超えようとしています。この夜の結果が、遥か未来に黒炎纏う伝説の戦士、ダークスレイヤーを呼び、彼が隠れし神々の使徒マスティマさえ倒すと聞いたのです」
冴えた月光の下、オーランドのやや伏せた顔は影になり、その表情は見えなかった。しばらくして、オーランドは静かに顔を上げた。
「あり得ない。界央の地の使徒、青き翼のマスティマを退けるなどと。かつて我が剣『月光』をこのウル・インテスの『界王の器』と定めたのも界央の地の意思だと伝え聞く。それを破る存在などと……」
この言葉に、セシエルとマルコヴァスが反応した。
「ウル・インテスの英雄オーランド。ダークスレイヤーは実在しています。恐ろしくも慈悲深いあの方は、遥かに遠いアスギミリアの地で私たち天使の軍勢八十億と戦い、わずかな時間でその三分の一を消し飛ばしたのです。私たちの当時の任務は無限世界で最も進んだ文明と調和を得た船の民の殲滅でしたが、あの方はそれを断罪したのです。巨大な暗黒の破壊神と共に戦うあの姿は、今でも恐ろしくて震えが止まりません。界央の地は今やあの方を恐れ、ひたすら遠ざけて時間を稼ごうとしている印象です。たとえ青き炎のマスティマでも、あの方を止めることは敵わないでしょう」
セシエルの声と切り落とされた翼が、途中から小刻みに震えている事にラヴナが気付く。
(そんなに恐ろしいというの? ルイン様の力と戦いぶりは……)
続いて、マルコヴァスも重々しく口を開く。
「『界王の器』または『界滅の器』とされる武器を手にした者よ。まずはそこまでの研鑽と苦難を認めよう。して、貴公が調和を重んじると言うのならよく考えるがいい。なぜこの状況が放置されているのか? と。分断を進めたのは外ならぬマスティマではないか。かの者たちはいつもそうだ。救いの手は差し伸べず、干渉ばかりする。余には欺瞞としか思えぬがな」
再び、オーランドはしばしの沈黙を経た。
「信じがたいが、希望が生まれていると信じていいのか? ミゼステさえ救えるような。今のままでは気高い彼女まで失われてしまう」
ミゼステを見やったオーランドに、ミゼステもまた答える。
「オーランド……幸い、私たちの民が私をここまで闇から解放しましたが、私はまた闇に囚われるでしょう。今のうちに私を、あなたの剣で送っていただけませんか? これ以上闇に堕ちて人々を傷つけることに耐えられないのです。闇に堕ちた自分にも……」
(ああ、そういう事ね……)
ラヴナはミゼステとオーランドの間に気高い愛の気配が漂っている事を感じ取った。また闇に堕ちる前に、意識のあるうちに愛する男にとどめを刺してもらいたいという、気高くも悲しい願いだった。
その言葉を打ち消すように、オーランドは強く問うた。
「本当に、まだ希望があると言うのか⁉」
悲壮な沈黙が漂ったが、その叫びに応えるように一条の黒い稲妻が落ちて、黒い炎を燃え上がらせた。
「ふふ、相変わらず良い時に駆けつける男だ」
マルコヴァスが笑う。
「さすが、我らが闇の真王様」
セシエルも笑みをこぼした。
黒い炎はコートの上にさらに見事なマントを羽織ったルインの姿になり、眠り女たちやウロンダリアの戦士たちからも声が上がる。
ルインはマントを翻し、その内側から薄桃色の祭服に長い黒髪の女も出てきた。見ただけでその位が非常に高いと理解したラヴナは思わず感想を漏らす。
「あれはバゼルの真の姿? とても位の高い女神だわ!」
「黒い方、概要を説明いたします。あの方はウル・インテスの『界王の器』とされる武器、『月光』を持つ英雄オーランドです。彼の力と心を見極め、あの女神を救ってあげると良いでしょう。ご武運を!」
バゼリナは透けた布を出してさっと振ると、ラヴナとバルセの傍に現れ、同様にまた布を振ると従者の獅子ごと、全員がやや離れた位置に転移した。
「黒い方の邪魔になってしまいますからね。ついでに、場も整えましょう」
さらにバゼリナは蒼い金属光沢のある布を取り出して振る。うっすらと蒼い光を帯びた、広い筒状の光の壁が、オーランドとルインの試合の場のように囲まれた。
「これで、あの方たちの超絶の武具の力がぶつかり合っても問題ないでしょう」
呪文も何もなしに簡単に転移や強力な結界を扱うその力に、ラヴナは絶句する。位の高い女神には、その身を縛る法則はほとんど存在しないも同然だった。
一方、ルインとオーランドは対峙していた。
「君がそのダークスレイヤーと呼ばれる存在だと? 私が力と意志を示せばいいと言うのか? 僭越ながら、これでも私は絶剣『月光』を揮って長く戦い続けてきた身だが……」
オーランドから見て、現れた黒衣の男の強さは全く分からなかった。しかし、弱くないのだけは分かった。これの意味するところは、おそらくこの男が測りかねる強さを持っているという事実だった。
月光の下、静かな笑みをたたえていたルインが口を開く。
「その女神を救いたいか? 互いに武器を持ち、長く戦ってきた身だ。言葉は不要……だろう?」
ルインのマントが黒い炎のように揺らめき、場を圧する重い殺気が流れた。オーランドから見た黒衣の男はその全身が影のように闇となり、双眸が熾火のように燃えている。その姿は揺らめいて、黒衣の男は黒い優美な斧を取り出した。
──破壊者の魔戦斧ラヴレス。
「ほう、魔戦斧ラヴレスか。かつてあの男が手にした『界王の器』。対等の条件で戦うつもりか」
懐かしむようにつぶやくマルコヴァス。対して、オーランドもまた、月光の切っ先を黒衣の男に向けた。
「……始まりますね」
セシエルの声の後は、緊張と共に静寂が漂う。
「月光の導きに従い、いざ!」
先手はオーランドだった。切っ先を天に向け構える。
──月光の禁則。
月の民の儀式言語を纏う帯状の光が幾重にもルインを包み込もうとする。
「冴えたる月の光は静かに闇を抑え込む!」
オーランドは閃光の様な突進突きを仕掛けた。
「甘い!」
戦斧を正面に構えたルインの気合いと共に、禁則の術式が破壊され吹き飛ばされる。突進するオーランドに対し、ルインは一瞬の背を見せた横なぎを仕掛けたが、オーランドもまた突進からの変化で回転する薙ぎ払いに切り替え、両者の武器は激しくぶつかった。異質な力の競り合う衝撃波が球状に現れ、一瞬で拡散すると、それがバゼリナの作った力場を激しく揺らす。
「ルインの旦那、斧も使えたのか。なんて戦いだ……!」
冷や汗を流しつつ、ギュルスがつぶやく。
大剣と斧の戦い方はその術理が一部似通っていたが、多くの場合は間合いの管理で斧が不利とされている。これはオーランドもルインもよく理解していた。
「斧でこれに合わせるか。ならば!」
後方に飛び退ったオーランドは、月光の剣の力を開放し始めた。月光は澄んだ碧銀の光に満ちる。
「全てを射抜く冴えたる闇の光明、月の光よ! 魔を降し、全ての敵を滅ぼさん!」
──降魔夜浄月光!
天空から降り注ぐ清冽なる銀の光の柱がルインを照らし、その身を月の光の炎が燃やし始める。
「闇を甘く見るなよ?」
黒炎がルインの全身から燃え上がり、それが月の光の柱を押し返して凌いでしまった。
「まだだ!」
オーランドは低い構えから斬り上げの斬撃を放った。碧銀の光の弧が放たれるが、ルインはそれを斧の柄で受けてはじく。
「ならば百条、いや、千条の月光の刃で押し切る。かつて闇の母神ハドナをそうしたように!」
オーランドは嵐のような連撃を繰り出し、碧銀の光の刃が閃光の津波のようにルインに迫り来た。
しかし、その刃はあと少しの間合いで砕かれる氷のように蹴散らされ始めた。魔戦斧ラヴレスに鎖を繋いで、ルインもまた嵐のように振り回している。
「っひょお、あんな戦い方もあるのかよ!」
ギュルスが興奮して叫ぶ。
光波の斬撃がほぼ尽きると同時に、オーランドは銀に光る術式の足場を現出させて空中へと昇り、大上段からひときわ大きな碧銀の斬撃を放った。
「黒炎よ!」
ルインもまた、斧に黒炎を纏わせ、応じるように大きな黒炎の弧を放つ。碧銀と黒炎の斬撃は空中でぶつかってはじけ飛んだ。
「何て戦いをするの、ルイン様ったら……!」
もしも、もう少しルインの到着が遅れていたら、これほどの力を持つオーランドに対して、おそらくなすすべはなかった可能性が高い。自分がルインの武運の内側にいることに気づいたラヴナは、ふとため息をついた。
全員が固唾をのんで見守る中、二つの世界樹の都での戦いは、その終わりの時が近づきつつあった。
first draft:2022.01.05
コメント