第四話 セルフィナの夢

第四話 セルフィナの夢

 チェルシーと月見をしていたルインは、ウロンダリアの天体や星座について、興味深い話を聞いていた。

「つまり、過去にはもう一つの月があり、それは過去の『眠り人』が封じたと?」

「そうなんですよ。ただ、ウロンダリアは時間の流れがおかしいので、それがいつの事かは分かっていないんですけれどね。ご主人様が最後の眠り人のはずなのと、私がこうして話せる時点で過去なのは間違いないです」

「また考え方の難しい話だな」

「とりあえず、十八番目の『眠り人』とされるカグヤ様は、現在はバルドスタ戦教国せんきょうこくの東の海、『雨の海』の彼方にあるフソウ国(※漢字表記は扶桑)で暮らしているはずです。遠い昔のウロンダリアの夜は、赤い月シンと青い月メトセラのせいで恐怖に満ちていましたが、カグヤ様がメトセラをどこかの海に沈めて、その力をカグヤ様だけが使える状態になったので、だいぶ過ごしやすくなったんですよ」

「つまり、月は四つあったわけか。全く不思議に満ちているな」

「そうなんですけど、ご主人様も大概ですよ?」

 チェルシーはクッキーを食べながら無邪気に笑った。ルインには『眠り人』の世界での認められようや恐れられ具合を見ると、カグヤという眠り人の話も荒唐無稽とは思えないと考えていた。

「あっ! そうだご主人様! ちょっと付き合ってもらえませんか?」

 チェルシーは手とエプロンをはたきつつ立ち上がる。

「何か?」

「大王の霊廟れいびょうから連れてきた白い女の子、セルフィナさん、まだ目覚めないんですよ。ちょっと一緒に来てもらえます?」

「……そうだったな」

「……忘れてました?」

「そんな事はない。行ってみよう」

 チェルシーの疑問をはぐらかしつつ、ルインはチェルシーについていく。チェルシーはいつも弾むように元気で、歩き方もどこか軽やかなため、一緒に歩く時間にどこか楽しげな雰囲気が漂う。やがて階段を二階ほど降り、主に眠り女たちの私物を厳重に保管する区画に来ると、チェルシーは何もない壁面に向かって声をかけた。

「シルニィさん、ちょっとセルフィナさんと面会したいんですけど、聞こえてます?」

──大丈夫。開ける。

「声はどこから?」

 どこからともなく聞こえる声に不思議に思うルイン。しかし何の変哲もない目の前の黒曜石こくようせきの壁がドアのように開いた。

「これはどういう?」

「高度な結界術や偽装術の結果ですね。シルニィさんはこの手の能力が異常に高いんです。過去の事は何も言ってくれないんですけれど、ここやセルフィナさんの部屋の守りも完璧なんですよ」

「えっ! 何この力?」

 二人の背後の階段室から声がした。

 ルインとチェルシーが振り向くと、そこには妖精族フォリーの少女、クームが立っていた。驚いて自分の髪を手に取っているが、その色がミルクのような色に変わっている。

「ねえ、そこに誰かいるの? 信じられないわ! これ、生命力の根源の力よ? ……それにこの香り、赤ちゃんに漂っている良い香りと同じよ? こんな力、今まで感じた事無いわ!」

 セルフィナの周囲に漂っていた、どこかで嗅いだことのある良い香りは、クームによると赤子に漂う生命の香りらしい。

「赤ちゃんの香り! それは盲点でしたね」

「同じく。それは気づかないな」

「え? しばしば嗅ぐ匂いでしょうに、これくらい憶えときなさいよ、二人とも」

 クームの口調は厳しいようでいて、人には無い優しさが漂っている。

「しばしば嗅ぐ? ああ、もしかして『祝福しゅくふく』を与えたりですか?」

「祝福?」

 ルインの疑問にクームが微笑んだ。 

「知らないでしょうから教えてあげるわ。私たちの暮らす妖精郷ようせいきょうの近くには大抵、信心深い人たちが住む小さな村があるものなの。私たちはそこで生まれた子たちにしばしば『祝福』という、幸福な人生を生きやすい運命の働きを与える事があるの。だから赤ん坊の匂いはよく覚えているわ」

「そういう事か。よくわからないんだが、こういう力は珍しいのかな?」

「なに? そこに誰かの隠し子とかがいるんじゃなくて、そんな力を持ってる誰かがいるわけ? だとしたら本当に珍しい存在よ?」

──あの、いつまでも扉を開けっぱなしにしないでください。

 どこからかシルニィのものらしい声が聞こえてくる。

「あっ、ごめんなさい」

「ねぇシルニィ、私も入っても?」

──大丈夫。

 三人はそそくさと部屋に入った。ドアが勝手に閉じて何もない黒曜石の壁面に変わる。部屋の中は青い花が複数の花瓶に生けられており、空気がとても清浄に感じられた。セルフィナは簡素で清潔なベッドに横たえられ、静かで深い寝息を立てている。

──この部屋の花は枯れないんです。ずっと。

 ドアだった壁の前に、黒ずくめでフードを被ったシルニィが現れた。

「まだ目覚めないけど、異常は……無いはずなの……」

「ねぇシルニィさん、セルフィナさんの事を厳重に守って隠してますけど、何か知ってたんですか?」

 シルニィはわずかの躊躇を見せたのち、小声で答えた。

「遠い昔の知り合いだから知ってる……。ここに、セルフィナが来るって教えられた……の」

「えっ?」

「セルフィナは……狙われてる。とても怖いものが……来るの。守れるのは……もっとずっと怖い闇の戦士ダークスレイヤーだけ……」

(ダークスレイヤー?)

 ルインは古い記憶の何かを呼び起こされた気がした。ダークスレイヤーという呼び名には確かな、シルニィに対しては微かな、遠い遠い記憶が眠ってる気がしていた。

「ねえ待って、話の意味が分からないわ。この寝てる子、大王の宝物庫から来たんでしょう? そんな昔からあなたは生きてるの?」

 クームの疑問はもっともだった。

「私に……時間とか……意味ない……です。本当の結界は、時間も無意味……だから」

「あの、ダークスレイヤーってもしかしてご主人様の事ですか?」

「そう。今はまだ眠ってる……だけ。目覚めたらセルフィナを探してる敵も……倒せる」

 チェルシーは驚いてルインを見たが、ルインはいつもと変わりなく落ち着いていた。

「なるほど、確かにそういう呼び名は記憶にあるな。……そしてシルニィ、君とはもしかして過去に面識が?」

「うん。……少しだけ……会ってる。私はあなたを知ってる。だから大丈夫……なの」

「なんてこと! 謎の多い子だと思ったら、ちゃんと理由があったなんて」

 ここで、シルニィはフードを少しだけずらし、顔を見せた。

「闇の戦士ダークスレイヤー……ううん、今はルインさん、ここではすれ違いにならない……から、きっと……セルフィナを追ってる者たちも……いずれ来ると思う……の。……その時、セルフィナを……護って欲しい……の!」

「もちろんだが、それはどんな存在なんだ? 過去におれは戦った事が?」

「確か……少しだけ戦ってる。赤い旗の……軍神の……群れ。とても……強い。あの時は……時間が……なかったの」

「え? 少なくともご主人様がこうしてぴんぴんしてるって事は、ご主人様は軍神の群れらしいものと戦って来たって事?」

 珍しい事にチェルシーはひどく驚いていたが、ルインの様子は静かなものだった。

「記憶が多すぎて、あまり古い事は覚えていられないんだよな……」

「私……も」

「シルニィ、あなたの独特な結界術や強化の方陣ほうじん弱化じゃっか方陣ほうじん、もしかしてこの子を護るためのものなの?」

 最近まで共に冒険してきたクームにとって、シルニィのそれらの術は非常に強力だったが、独特な系統で他に見た事のないものだった。

「うん。私……もとは聖なる猫だから、女神の事を……護るの。……でも、セルフィナの……事は……遠い昔に、ある方から託されて……、それで……ずっと」

「そうだったのね」

 クームは納得して腕を組んだ。

「シルニィさん、セルフィナさんが目覚めないのは問題ないんですか?」

 チェルシーがたずねる。

「たぶん……大丈夫。記憶を……整理してるだけ。いずれ目覚める」

「……その脅威はいつ頃訪れる?」

「わから……ない。もしかしたら見失う……かも。今はまだ……はるか遠く……だけど……探し回ってる。ウルマハルトの星の下……赤いかすみが……それ。名前は……知らない」

「……わかった。出来る事をやるだけだな」

「なんか、思わぬ形で色々分かっちゃいましたねぇ」

 ルインとチェルシー、クームはセルフィナの部屋を後にした。シルニィはどこでも自在に移動できるらしく、まだ部屋に残り、セルフィナの寝顔を眺めていた。

「やっと会えて……、今はダークスレイヤーもいる。きっと……大丈夫」

 シルニィは微笑むと、何もない空間のドアを開けて姿を消した。

──種族というくくりが正しいかは不明だが、聖猫族という種族がいる。神獣に似て異なるこの種族は、神獣でも特に能力が高く、主に女神の周囲にいてその場を堅牢な結界にして保つ。女神の寝室や個室の護り手でもある。

──インガルド・ワイトガル『ウロンダリアの種族』より。

 おそらく遠い昔。セルフィナの記憶と夢の世界。

 最初の記憶は、ひたすら落ち続け、その後は何もない濃い灰色の大地を歩いている記憶だった。昼も夜もいつまでも灰色の大地を歩き続ける。前方には何もないが、振り向くと歩いてきた場所に新たな緑が芽吹いて草花が生えている。

(歩き続ければ、いつかはこの灰色の地上も緑が溢れるの?)

 気が遠くなるほど長い年月、歩いていた気がする。

 場面は切り替わり、どこかの空に浮かぶ国。鏡のように磨かれた青い石の床と、巨木のように太い、つたに覆われた柱の向こうには、遠い地上の山に建つ神殿が小さく見えている。たまに、有翼ゆうよくの美しい人々がセルフィナの前に訪れ、笑顔で何かを語っているが、それが何かはもう思い出せなかった。

 しかし、次第にその人々の表情は暗くなり、訪れる回数も減り、やがて誰も訪れなくなって長い年月が経った。いつしか世界は暗転し、全て消え去った。

 次の記憶は有翼の人ではない、翼の無い神々しい人々の住む神殿だった。ただ、セルフィナは神殿の最奥、ほとんど陽の光の差し込まない場所に設置された銀のおりに幽閉されていた。広く長い通路の奥に見える空はいつも青く、その光を浴びたいとたまに思ったが、自分には過ぎた希望のような気がして、すぐに諦めた。

 たまに、傷ついた者や年老いて衰えた者が運ばれてくる事があり、セルフィナは手で触れることで彼らを治療し、若返らせた。そのような時は神殿の人々は涙を流して喜んだりもしたが、セルフィナを檻から出すことは無かった。何度か、檻から出して欲しい、という意味の事を言ったときに、ひどく困ったような表情をされたためだ。

 逆らう、という考えは無かった。誰かが辛い表情を浮かべるのは嫌だったからだ。

 そのまま気の遠くなるほどの年月が経ったと思われる、ある日の事。檻の向こうにわずかに見える空が暗く曇り、激しい雷雨が降っていることに気付いた。いつも、夜でさえも明るかった神殿は暗く、騒々しい気配と悲鳴が響いてくる。

(何が?)

 広い通路の向こうから、セルフィナの見知っている、簡素な祭服さいふくを着た神々しかった人々が血相を変えて溢れるように出て来た。人々は口々に叫んでいた。

「ダークスレイヤーだ! 恐ろしい戦士が我々を不正だと!」

「『白い女』よ、助けてくれぇ!」

「そうだ、この女を差し出せば!」

「無駄だ! それに、不死を失うぞ!」

「来た!」

 激しい雷鳴と共に稲妻が走り、広い通路奥に現れた者の姿を浮かび上がらせた。それは、黒衣の男だった。黒い甲冑に黒いマント、黒い髪。右手に黒く美しい斧を持ち、左手には鎖に繋がれた黒い禍々まがまがしいしい大剣を手にしている。そしてどちらの武器も、吹き込む激しい雨に濡れて血が滴っていた。

(ああ!)

 セルフィナの心はこの時、初めて動揺した。男はセルフィナに目もくれずにずんずん進むと、まるで野原でも切り払って進むように、次から次へと祭服の人々の首を斬り飛ばしていく。人がかようにも草花を斬り飛ばすように首をねられるものかと、セルフィナは恐怖で動けなくなった。押し寄せる人々でセルフィナの閉じ込められている檻はわずかにきしんだ音を立てたが、それでもびくともしない。その間にも、次から次へと首が飛び、血しぶきが吹きあがった。

「白い女、助けてくれ、助け……!」

 最後に四人の老人がセルフィナの檻にしがみついたが、背後に大剣と戦斧を交差させた男が立ち、四人ともが同時に首を刎ねられ、セルフィナの白いボロボロの服にも少なくない返り血を浴びせる。男は倒れた死体を足で蹴るように払いのけた。

「片付いたか。旅から旅の途中とはいえ、歯ごたえが無さ過ぎる。ああ、待ってくれ、今から出してやろう」

 男は黒い戦斧を往復で振り払い、銀の檻は灌木かんぼくのように容易く切り裂かれた。

「金に換えられるものは、この銀の檻くらいか……」

「あなたは?」

「ふ。泥棒ではないぞ? 先に渡すものを渡しておこう。これを開けてくれ」

「なんですか?」

 男は白く淡い光を放つ小瓶をセルフィナに渡した。開けると、同じように光る綿のような光球がセルフィナの胸に当たって消える。

「うっ?」

 セルフィナには急に、雨の音、血の匂い、肌に当たる雨の湿った風、そして漂う何らかの悪臭に気付いた。世界の全てが息づいているように鮮明に感じられた。

「これは⁉ 全てがはっきりしています!」

「君は『白き飛沫の姉妹』の末妹で、生まれ落ちた時に心を半分しか持てなかったらしいんだ。君らの姉からその心を預かっており、解放するとともに渡した、というわけだ」

「末妹? 私に姉たちがいるという事ですか? それに、あなたは? この惨たらしい所業は……」

 セルフィナは混乱していた。自分を目覚めさせるように世界を鮮明にした男は、恐ろしい虐殺者でもあったからだ。

「これから全て説明しよう。……アクリシオス!」

 黒衣の男は斧をどこかにしまい、そう呼びかけると口笛を吹いた。彼方から馬のいななきが聞こえ、銀色のたてがみと尾を揺らして、闇のような青毛の馬が走りくる。しかし、近くで見るとこの見事な馬は毛に黄金のつやがあり、黒紫の両目の他にも額にもう一つの眼が縦に開いていた。その第三の眼は白眼が赤く、瞳は金色であり、その眼の上には銀色の短い角が生えている。

「『白い女』の足を汚い血で汚すのは気が引ける。……失礼するぞ?」

「あっ!」

 黒衣の男は何らかの体術でも使ったのか、セルフィナの手を取るとあっさり抱きかかえ、この見事な馬に乗せてしまった。

「まず、この男たちはこの世界での高位の神官だ。ただの人間だが、君の力により不死を数百年むさぼっていた。では、なんの神官だったのかと言うと……ああ、鼻をふさいでおいた方がいい」

 見事な黒馬に乗った黒衣の男と白い女は、通路を曲がって神殿の大広間に出た。

「ううっ、これは何ですか⁉」

 すさまじい悪臭は腹に直接届くようだった。薄暗い神殿の奥には巨大な玉座が安置されていたが、そこには赤黒く肥大して腐敗し、頭の割れた巨人の死骸のようなものがだらりともたれかかっていた。

「遠い昔、この世界で絶滅した巨人の死体だよ。ここより遥か北で発見されたものだ。先ほど殺した神官たちの祖先が氷河の中から掘り出し、世の安寧を祈って一時的に人間の魂を憑依ひょういさせることで肉体の鮮度を保っていた。しかし、少しずつ進行した腐敗は未知の病毒を地上に撒き散らし、人がばたばたと死んでいった。君の力で不死になった神官たちを残してな。そして……数日前に遥か彼方でこの世界の最後の一人が死に、世界は滅亡する事となった。なのでおれはこの世界に渡れた。そうしたら君までいたわけだ」

「滅んでいたのですか? この世界は」

「ああ。見るといい……」

 黒衣の男は馬を進め、おぞましい神殿から外に出る。大都市の中心にある高い山に位置していたらしいこの神殿は、眼下の巨大な石造の都市が全て見渡せたが、それは全て廃墟と化していた。

「そんな……!」

 言葉が出てこなかった。ここで、セルフィナの記憶は再び暗転し、夢はより深い眠りの中に飲み込まれて消えて行った。

──ダークスレイヤーの乗騎、黒馬アクリシオスは馬の姿をした何らかの上位者であり、額にある火眼金睛かがんきんせいの第三の眼により、その脚は空も海も関係のない、独自の次元を駆け、時間さえ無意味にするという。

──賢者フェルネーリ著『ダークスレイヤー』より。

first draft:2020.04.29

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