第七話 アーシェラ王女の涙

第七話 アーシェラ王女の涙

 バルドスタ戦教国北方、モルオン・サダの隠れ里。

 バルドスタの王族と、その許可を受けた特別な者しか通れない魔導まどう転移門てんいもんを通じて、暗い瞳のベネリスは深山の空中に浮かぶ空の島に訪れていた。古く、だいぶ劣化れっかした転移門の白茶けた石組みの遺跡から出ると、そこは高山の背の低い草花が広がる草原で、左手には静かに澄んだ湖と、正面には白い石造りに青い石板屋根の大きな邸宅がたたずんでいる。その様子はまさに隠れ里の理想的な保養地であり、年中を通して気候の変化の少ないここは、夏は涼しく、冬は暖かく、そしてほぼ誰も知らない場所でもあった。

「セダフォルの白き邸宅の美しさだけは、何も変わりませんわね」

 上空から見れば中庭を真四角に囲った形のこの白い大きな屋敷は、バルドスタの王族の隠された保養地の別荘でありまた簡易的な城でもあった。魔力を帯びたいばらの迷宮を王族であるベネリスだけは容易く通り抜けて正門前の広場に出る。いつの間にか園丁えんてい侍従じじゅうが庭木をいじったり花に水をやったりしていたが、これらは皆、麓の隠れ里に住む腕利きの護衛や隠密でもあった。

「おかえりなさいませ、アーシェラ様・・・・・・

 灰色の髪に黒い眼の給仕きゅうじが、あまり抑揚よくようのない声で挨拶をする。

「ええ、ただいま。ベネリス・・・・

 ベネリスは、自分をアーシェラと呼んだ給仕にそう返した。

「皆様は元気に過ごしておられます。備蓄びちくもぬかりなく」

「そう。私はしばらく一人になるわ。皆と夕食を共にし、一晩泊まったら、明日の早朝に発つつもりよ」

「かしこまりました」

 セダフォル荘と呼ばれる美しい要塞の玄関のドアを侍従が開けると、歳の頃十歳前後の少年と、より幼い少女が満面の笑顔で駆け寄ってくる。ベネリスと同じ髪の色、眼の色をしたこの二人は、少年がアルドス、少女がミリシアといい、ベネリスの腹違いの弟と妹でもあった。

「おかえりなさい、姉上!」

「アーシェラ姉さま、おかえりなさい!」

 ベネリスはミリシアを抱きしめ、笑顔で問いかける。

「あなたたち、いい子にしていたようね。勉学と武技の鍛錬も欠かさず行っていましたか?」

「はい。しかと研鑽けんさんを怠らず過ごしておりました!」

「過ごしておりました!」

「それは何よりです。あなたたちのお母様のご様子はいかがですか?」

「今日は元気なのです! ミリシアは、お母様に髪にくしを入れてもらったのです!」

 ここでのベネリスは暗い表情など一切見せなかった。品のある優し気な笑みを浮かべ、本当の姉のように腹違いの弟と妹に接している。

「まあ! それは良かったですわね! 元気なあなたのお母様はどちらに?」

「二階の広間で日向ぼっこをしています!」

「そう、ご挨拶してくるわね」

 ベネリスは玄関ホールの階段を上がり、美術品や絵画の飾ってある部屋を抜けて、湖を望む暖かな広間に出た。そこには三十代ほどの可憐かれんな水色のドレス姿の女性が、彫刻された化粧ガラスの窓を通り抜けた複雑な光と影を浴びつつ、給仕を伴って車椅子に座している。その女性はベネリスに気付くと一瞬驚いた顔をし、そして柔らかに微笑んだ。

「無事に戻られたのですね、アーシェラ王女・・・・・・・

「あなた様こそ、お元気なようで何よりですわ。マイシェラ王妃」

 ベネリスはゆっくり歩み進むと、マイシェラの隣で湖を眺めた。寂しげで美しい湖の照り返しが、眼の下あたりの皮膚に温かく感じられる。この女性、マイシェラ王妃は、本来ならバルドスタの女王であるべき立場の人物であり、アルドスとミリシアの母、ベネリスにとっては若い継母ままははであり、亡くなった父王イームルドの後妻でもあった。

「眠り人が目覚めました。私の殺し屋になっていただけるようです。既に、工人アーキタの都市国家において、忌々いまいましいベティエル派の軍勢をたった一人で退けてしまい、噂が古王国中を駆け巡っております。さらに、上位魔族ニルティスの姫『狂乱きょうらん戦乙女いくさおとめ』ジルデガーテや『かね悪鬼あっき』ゴリアスを退けたとも」

「まあ! そんな絵本の中の存在が現れ、それを追い払ったというのですか?」

 マイシェラ王妃は目を丸くした。

「ええ。実際にお会いしましたが、魔族の姫様や影人かげびとの皇女様などが傍におり、鷹揚な雰囲気の中に相当な武の気配が漂うお方です。おそらく財貨ざいかとぼしくなる我がバルドスタでは、私の心身くらいしか差し出せないのが心苦しいのですが、『眠り女』をした事に意気を感じて助力してくださるようです」

豪儀ごうぎなお方なのね。今のバルドスタにはほぼ見られない、そして必要な種類の男の方なのね」

「そのように感じました。マイシェラ様、あなたや多くの王族にかかる謎の呪い、私はおそらくですが見当がついています。何とかその忌まわしい毒か呪いの力を地上から消し去りたく考えています。なので、どうか決して心を折られませぬように」

 ベネリスことアーシェラ王女から見て、このマイシェラという人物は穏やかだがとても強い。それでも彼女の謎の体調不良はいつ進行するかわからず、ベネリスは励ますように念を押した。

「ええ。分かっているわ。毒なのか呪いなのか……、元老院派げんろういんはとベティエル派を追い払い、『絵画聖堂かいがせいどう』に再び入るという困難この上ない事をあなたが成そうとしているのに、私が心を折られるわけにはいかないもの。あなたは後妻であり、若い継母である私にいつも敬意を払って接してくれて、あの子たちを可愛がってくれています。本当に強い、本来のバルドスタの女であるあなたに情けない所は見せられないわ。だからこそ存分に、ね?」

 マイシェラは気丈な笑顔を見せた。

「はい。マイシェラ様も」

 ベネリスは二階の広間を立ち去り、次は三階の腕利きの侍従じじゅうたちが警護している部屋に入った。この部屋は優美な今までの部屋とは異なり、甲冑や剣、斧槍おのやりに銃などの武具があちこちに飾られ、黒光りする木材で見事な彫刻の施された、天蓋てんがい付きのベッドが置かれている。

侍医じい、兄さまの容体は?」

 薄い灰色のローブの年配の侍医と看護師は、ベネリスに気付いて深々と頭を下げる。

「ここ数日は、アーシェラ様が送って下さった魔力を持つ薬草のお陰で、お話が出来る程度には元気になっておられます。しかしながら、相変わらずこの病の根源は謎でございまする」

「そう……。お兄様、アーシェラでございます。時が訪れたのでご挨拶に参りました」

 天蓋から垂れ下がる薄いカーテンをめくると、痩身そうしんの美男子であるベネリスの兄王子アスタルが、身体を起こせないものの精いっぱいの笑顔で歓迎の意志を表していた。

「すま……ぬ。苦労を……」

「お兄様、お体に触りますのでお気遣いなく。言葉なくともその眼でこのアーシェラには全て伝わっておりますから。魔の国キルシェイドにおられる『眠り人』ルイン様にご助力いただくことが出来ましたので、この国に蔓延はびこる腐った全てを、血の嵐と共に一掃するつもりです。その暁には、お兄様もきっと健康を取り戻しますわ。ですからあと少しだけお待ちくださいませ」

 起きようとする兄王子を気遣い、ベネリスは足早に部屋を出る。次に彼女は、同じ三階にある戦女神いくさめがみヘルセスと従属神じゅうぞくしんハルダーの神像が安置されている礼拝堂に向かった。重厚な青鉄木せいてつぼく(※ウロンダリアの青みがかった非常に頑丈な木材)の扉を開けると、侍女を伴った威厳ある車椅子の後姿が、大きなアーチ窓から差し込む陽の光の際に佇んでいる。白髪混じりの禿げあがった後頭部の血色は良く、ベネリスは微笑んだ。

「来よったな? 転移門から歩いてくるのが見えておったぞ。いよいよ時が来たか!」

 剣を帯びた侍女が車椅子を動かした。それに座すのは眼に強い光を持ち、どこか自信にあふれた雰囲気のいかつい高齢の老人、『大戦父だいせんふ』の称号を持つアレイオンだった。アレイオンはベネリスに声をかけつつ相好を崩す。武芸百般に通じるとされた、ベネリスの祖父にあたる古き王だった。

「アーシェラよ、そなたがここに来たという事は、いよいよ時が来たか。このバルドスタ、戦の教えを守らぬものが人の上に立つ事は認められぬ。狡猾こうかつな羊どもがこの鉄血てっけつの国を治めることなど片腹痛い。羊どもは食い尽くして血で洗い清めるのじゃ! 全ての憂いを晴らさん!」

「はい。大戦父様の仰る通りです。我らの王宮を宴会場にされる屈辱の日々ももうすぐ終わり、やがて血の嵐が全てを吹き飛ばし、洗い清めるでしょう」

「うむ。しかし、一つだけ気がかりもある。そなたはよく泣く。その優しさゆえにな。あの恐るべき試練の後も薬に頼らず、あえて狂気に身をゆだねるのも、その気高さゆえ。そしてこれから多くの血を流し、粛清しゅくせいするとなれば、わしはそなたの心が心配じゃ。ましてそなたは孤高の道を歩む気であろう?」

「お心遣いありがとうございます。しかし全てを整えれば、きっとこの心は今よりも晴れると思いますから責務に押しつぶされることはないでしょう。心配ご無用です」

 ベネリスは気丈に笑った。しかし長い歳月を生きたアレイオンには、その眼の奥の隠しようのない寂しさが見えていた。

「そなたがそう言うなら、わしは何も言うまい。『眠り人』は良い男か?」

「良い方なのですが、魔族の姫様や影人の皇女様などが傍におり、私ではいささか見劣りがするのでは? と思っております」

「そんな事は無い! そなたは古き良きバルドスタのおなごじゃ。遠慮などするでないぞ! 事が成り、自由になった暁には、この国に強き眠り人の血をもたらすのも良かろうて」

 老人はそう言うと豪快に笑い、ベネリスもわずかに微笑む。

「そちらの方がよほど難しそうに思えますわ。音に聞こえたキルシェイドのラヴナ姫が、あの方のそばでは赤髪の可憐な女の姿を取って近くにいるのです。あれはまるで、武王ガイゼリックのそばにいた『美しい人』セシレ、剣王ドランのそばにいた賢妻ユリアのような、名だたる武人と古き女の魔族メティアの姫を思い起こさせるのです」

 老人の眼が大きく見開かれた。

「面白い! どちらも古代、この国の動乱時にバルドスタを訪れては世直しを手伝ってくれた言い伝えがあるが、まさにその再現じゃな。しかし、あの頃はそなたのような良い女が王族におらなんだ。今度は上手くやるのじゃぞ? ほっほっほ!」

 年老いた武人のどこまでも前向きな考え方は、しばしばベネリスに大きな元気を与えていた。再び、ベネリスは笑う。

「優れた殿方もおらず、おそらく不死者となる私にとっては、確かにそのような事にでもなれば、少しはこの心も癒せるのかもしれませんが……せめて思いあがってより痛い目を見ないように、慎ましく進もうと思っておりますわ。大戦父様、元気づけて下さってありがとうございます」

 ベネリスは微笑んでそう言うと、バルドスタを守護する二柱の軍神に祈りをささげた。『美しき大鷲おおわし』戦女神ヘルセスは鷲の翼を持ち、三羽の大鷲を従え、半上げ結びにした髪に、六本の腕を持つ戦女神で、剣、斧槍、弓、盾、槍、明星槌みょうじょうついを持つ。ハルダーはヘルセスに仕える男神で東方、フソウ国から渡ってきたとされており、背中に大きな太刀を吊るし、両手に大小の太刀を構えた短髪の男性の姿をしている。

(どうか、流れる多くの血に沈まぬ程度に、我が道が正しいものでありますように……)

 今のところはどれほどの血も流れる涙で洗い流され、冷たい雨になる様な気がしていた。血が流れて何かが大きく変わるのなら、その方がよほどましだと思えていた。

(ああ、駄目だわ、また……)

 ベネリスは大戦父アレイオンに挨拶をして足早に立ち去ると、久しぶりの自室に戻り、深紅の戦の装備から簡素な白いドレスに着替えた。光差す窓枠に手を添えてセダフォルの冷たく澄んだ湖を眺めていると、待ちきれなかったように涙が後から後からこぼれ落ちる。それはおぞましく凄惨せいさん国母こくぼイェルナの試練の記憶、失われていく王族の誇りと、元老院やベティエル派の台頭、王族を襲い、父や母を奪った、毒か呪いのような謎の奇病、そして、やむを得ない取引の為とはいえ、大金を借りるために吸血鬼の富豪の女に汚された女としての、王族としての誇り、さらに、今や多くの者を殺さねばならなくなった自分たちの不甲斐なさと、理由を挙げればきりが無かった。

(ただ、最悪の場合でも、今の私にはあの方たちがいます。アーシェラである今だけは、たくさん泣いておくことに致しましょう……)

 ベネリスは日が落ちるまで静かに涙を流し続け、早めに就寝したのち、未明に起きてさらにまたしばらく涙を流すと、日の出とともに深紅の装備に着替えて、涙を拭いて出発した。

(全てが終わるまで、ここを再び訪れることは無いでしょう! 私の涙を貯めたようなセダフォルの冷たい湖よ、我が親族を見守っていてください……!)

 ベネリスことアーシェラ王女は転移門に入り、振りかえって白い屋敷を見る。小さな人影が手を振っているのは、ミリシアだろうか? と見当をつけた。

「あなたたちの道は、私が全て整えて差し上げますわ!」

 決意も強く、ベネリスは転移の光に包まれて姿を消した。

──バルドスタの女の王族は、戦女神ヘルセスの力をその身に降ろし、不死も同然の力を発現させることができる。しかし、その力を得るための試練は非常に厳しく陰惨であり、多くの者が成し遂げられず、その心を壊されてもいる。

──ランドール・カイロ著『バルドスタの伝承』より。

 工人アーキタの都市国家ピステの射撃場。

「シェアさん本当に呑み込みが早い! もうだいぶ上達したね!」

 感心するアゼリア。注文した銃と特別な銃を受け取って五日間、シェアは連日ピステに赴き、時にはアゼリアに見てもらいつつ、早朝から深夜まで拳銃の練習をしていた。

「ありがとうございます! アゼリアさん、少し見てもらえますか?」

 シェアは拳銃を手に、自然な動作で射撃場の白い煉瓦れんがを超える。光る人型の的が浮かび上がるが、それらを素早く撃ち抜いていく。その上達はすさまじい速さで、アゼリアは心から感心していた。

(ほぼ頭ばかり! やるわね……)

 シェアは六発の弾丸を撃ち尽くすと、手首を素早く返して空の薬莢やっきょうを落とし、腰の、六連発ずつの銃弾を納めたベルトを引っ掛けるように叩いて銃弾を浮かし、それを素早く給弾して撃ち続けている。

(もうあんな風に『装填そうてん』を使いこなしている!)

 次第に的の出現は早くなり、時に空中に粘土の円盤が飛ぶようになり始めた。シェアはしかし、粘土板には目もくれず、途中から白い拳銃をもう一丁取り出すと、次から次へと出現する地上の人型の的の頭部だけを撃ち抜いていく。時に拳銃を交差させ、時に二丁とも軽業のように給弾し、やがて的の出現は終わった。

「ふう、何とか形になって来たでしょうか?」

「いや形にって、とても上達が早いと思うわ。既に達人に近いと思うんだけど!」

「そうなんですか? それなら嬉しいです! まだまだ練習をしたいところです」

 とても嬉しそうにしているシェアには自分なりの目標があり、そこにまだまだ届いていないような、そんな空気がアゼリアには感じられていた。

「誰か、倒したい敵でもいるの?」

「倒したい敵ですか? 沢山いますよ。……当面は、皆さんの敵を倒し続けますが、いずれは私の敵を、ね……。そう、話は変わってしまうのですが、アゼリアさん、退魔教会たいまきょうかいの武器の技術は、工人(アーキタ)の方々の技術と比べて、どれくらいの差や違いがあるかご存知ですか?」

退魔教会たいまきょうかい? 数十年前までは技術交流があったみたいだけど、今は全くのはずよ? だから現在の退魔教会の技術がどれくらいかは私たちも分かってないの」

「そうですか。おそらくですが、独自に発展させたこのような銃に近いものは保有しているはずなので、なかなか気が抜けないのです」

「そうなの?でも、退魔教会は確か解散させられたのではなくて? 確か何か事件を起こして」

 ここで、シェアは意味ありげに微笑んだ。

「『月の落涙』を偶然起こしてしまった事件ですね? あれは、おそらく意図的なものです。皆さんの問題が片付いたら、私はあの事件と退魔教会の闇に、じっくり向き合うつもりなのですよ」

「何かあるのね?」

「はい。もしかしたら相当に根の深い邪悪な何かが……」

「その時は私も協力するわ!」

「それはとても嬉しいです。ありがとうございます!」

 シェアは穏やかに微笑んだが、その眼は何か簡単には語れない闇を見てきた経験があるようで深く、信頼を寄せられると同時に、アゼリアには深くは立ち入れない何かがいつも感じられていた。

(まぁ、お兄さんなら大丈夫かな)

 シェアの向き合ってきた深い闇も、いずれ表に出るに違いない、アゼリアはそんな気がしていた。

──赤い月シンはしばしば地上に魔物を落とすとされており、古代には大量の魔物が天から落ちてきたという言い伝えもある。これを『月の落涙』と言うが、四年前に退魔教会が偶発的にこれを起こしてしまい、退魔教会は解散に追い込まれた。

──異端審問会の議事録より。

first draft:2020.05.06

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