第十八話 絵画聖堂
朝、バルドスタのダスラの王宮の控えの間に武装した眠り女たちが集まっていた。王宮の転移門にアーシェラが『西の櫓』との直通路を開通させたために、夜会の時とは異なり、現在は容易に訪れることが可能になっており、早く起きて思い思いの装備に身を包んだ眠り女たちはあまり落ち着かない様子でアーシェラとルインを待っていた。
「アーシェラ王女様、眠り人ルイン様、到着いたしました!」
広間の奥の門が開けられ、黒い軽装の鎧に深紅のコート姿のアーシェラと、いつも通り黒一色の服装のルインが現れた。
「おはようございます、皆さま」
「みんな、おはよう」
眠り女たちの所に歩み寄るルインに、甲冑姿のクロウディアがいち早く駆け寄った。
「おはようルイン、いつもと変わりないわよね?」
「いつもと? まあ、特に何も変わらない、良い朝だが。……クロウディアは少し顔色が悪くないか?」
ルインから見たクロウディアは、わずかに青ざめているようだった。
「あっ、少し飲み過ぎてしまったかしら? そのせいかも」
「珍しいな、二日酔いなんて。まあ女だけの時はそうしたい時もあるか」
ルインの屈託のない様子はいつもと変わらず、クロウディアは分かってはいても肩の力が抜けた。が、気を抜いたら突如として戻しそうな感覚が込み上げてきた。クロウディアは慌ててシェアに駆け寄る。
「シェアさん、あの、すいません『二日酔いの快癒』をお願いします!」
「はい、構いませんが、ご寄進を頂いても良いですか?」
「もちろんよ! ……うっ、ごめんなさい、直ちにお願いいたします!」
「わかりました!」
シェアはクロウディアに掌を向けて、水と慈悲の女神シェアリスに酒精の分解と身体をめぐる水の浄化の祈願を行った。クロウディアの足元から水色の光の輪が現れ、上昇しつつ光の柱を形作り彼女を包む。それはやがて消え、クロウディアの顔色はたちどころに良くなった。
「ありがとう、シェアさん!」
「ご寄進はあとで誓紙をお渡しいたしますね。あと、シェア、でいいですよ」
「わかったわ。あなたは全然酔わないのね、シェア」
「あれは……退魔教会の薬を何種類か飲んでいるせいもあります。毒薬への耐性が高くなりますが、お酒にも酔いづらくなるのです。それでも昨日は程よく酔えて楽しかったですよ」
「いや薬って言ってもさ、もともとすごく強くなきゃあんなに吞むの無理だろ?」
少し呆れたように言うミュール。
「そうかもしれないですね」
微笑むシェア。その様子を見て眠り女たちが珍しく酒を呑んでいた事に気付き、何かを察したアーシェラは、挨拶と共に改めて説明をした。
「ああ、何だか色々心配をおかけしましたわね。本来なら『西の櫓』にてルイン様に話を聞いてもらえばよかったのでしょうが、私も国を担う者のはしくれ、本心を出せる場所は限られているものなのです。でもお陰で、恐ろしい夜は遠ざかっていく事でしょう。本当にありがとうございます、皆さま」
「気持ちは楽になったのね?」
確認するクロウディア。
「ええ、だいぶ」
「でも、どうやって?」
「ルイン様に手首を掴んでもらっていた、それだけですよ。でも、恐ろしい記憶が蘇るたびに私の手を掴んでくれている方がいることで恐怖に呑まれず、だいぶ楽になったのです」
「そんなささやかな形で……」
クロウディアは少しだけ自分を恥じた。本当にささやかな接触を支えに自分の心を保とうとしているアーシェラが、どこかとても清潔で気高く感じられた。それよりもよほど濃厚に接触した自分の、昨夜のあの取り乱しようは、何かとても恥ずべき事のように感じられてきていた。
(私、少し子供っぽいのかもしれないわ……)
「どうしました?」
「ううん、何でもないわ。今日は全力で手伝わせてもらうわね!」
クロウディアの屈託のない笑顔に微かな安堵を感じつつ、アーシェラは話を進めることにした。
「皆様、準備もできているようなのでこれからの段取りをお話いたしますね。このダスラの王宮を支える『要石』の外部には刻まれた階段があります。そこを通ってはるか下の暗い『屍の森』を歩き、『絵画聖堂』に至ります。聖堂の扉は私が開けますので、内部に入ったらそれぞれ炎の魔術・魔法により七枚の絵画を焼き払っていただきたく。非常におぞましい絵画ですので、心を病まぬように気を付けてください」
しかしこの時、各国のしきたりに詳しいラヴナはバルドスタ戦教国の風習を思い出していた。
(手首? 確かバルドスタでは男に手首を握ってもらうのはかなり深い信頼を示す意味があったんじゃないかしら?)
クロウディアとアーシェラの様子を見てラヴナは意味深に微笑むにとどめた。
アーシェラの話では、この後は地方で閑職に追いやられていたバルドスタの宮廷魔術師が合流するのと、腕利きの王族派の兵士たちも千人ほど同行するとの事だった。
「ずいぶん大規模だな?」
「ヘルセス様の神託では、何が起きるか分からぬから十分すぎるほどの注意をせよ、との事でしたので」
「行けば何かわかる、か」
こうして小規模な軍勢に等しい集団は、王宮を支える『要石』に刻まれた古代の階段を何度も折り返しつつ下っていき、『屍の森』に降り立った。
「ああ、ここ、旅立てていない死者だらけね。ひどい感じだわ……」
妖精族フォリーの少女、クームの髪は古い血のような色に濁っている。
「わかります。途轍もない数の死者の怨念が漂っていますね。この湿った感じ……」
シェアも同意する。湿った常緑樹の暗い森の中、刈りはらわれたばかりの道には、長い年月で自然に磨かれた、苔むした石畳がかろうじて見えている。しかし多くの者には石畳の方が滑りやすそうにさえ見えていた。
「この森の地面の下には、かつてウリス人たちによって殺され、遺棄された無数のバルドスタの民の遺骸が眠っています。なのでここを『屍の森』と呼ぶのです。言い伝えによれば、かつてここには、遠くまで見渡せる烽火台があったそうですが、その塔の高さまで死体で埋め尽くされて見えなくなるほどだったとか」
アーシェラの説明ももっともな陰鬱さが漂っている。
「嫌な森ね。緑が多いのに、鳥の声も生き物の気配もしないわ。影も濁ってるもの」
クロウディアも不快感をあらわにしていた。
「うーん、何だか低俗な魔物の気配がするわ。今のところそれくらいね」
周りを見回しつつ、その気配の出どころを探ろうとしているラヴナ。いつもの服装ではなく、高級な黒革の鎧にマントという凛々しい姿だった。戦える女魔術師、といった装いをしている。
「ルインさん、お守りしますので私のそばにいて下さいね。昨夜、今日の為に魔術書を組みなおしましたから、きっと今日はお役に立てると思います」
ルインより遥かに背の高いメルトが、微笑みつつルインを見下ろしている。
「ありがとう。でもあまり心配は要らない。自分の身を第一にしてほしい」
「そうそう、お兄さんはすごく強いしね」
アゼリアも同意する。
「そうは聞いていますが、お守りするという姿勢は大事だと思うんです。守られるばかりというのはどうかと思いますから」
「それもそうだね。そういえばお兄さん、お父様たちが工人の都市の技術の粋を集めた戦闘用のコートを作ってくれたの。今日中には渡せると思うから、楽しみにしててね?」
「何だか悪いな。楽しみにしておくよ」
「いいのよ。私たちの歴史を守ってくれたのだし。まだ全然返しきれない恩よ」
「まあ、あまり気負わずにさ」
「うん!」
「……」
アゼリアとルインの間に、既にある程度深い信頼が出来ている事に気付いたメルトは、自分も何とか活躍したいと考えていた。何も起きないのもやや不謹慎だが肩透かしを食らうのも嫌だという微妙な気持ちになっていた。
「ほぉ、これは珍しい! 巨人族の魔術師かの?」
自分の事かとメルトが振り向くと、大柄なバルドスタ兵に背負われた黒いローブ姿の老魔術師が伸びた白い眉毛の下の眼をそれとわかるほど大きくしていた。尖ったフードと首にかけた金の護符は、この老魔術師が相当高位の魔導士であることを意味してもいた。
「あら大術師タイバス、追いついたのですね?」
アーシェラが懐かしみを帯びた声で老魔術師に声をかける。
「アーシェラ王女、これはまた何とも神々しいお姿に! 死にぞこないのアレイオンもさぞ喜んだであろうの。政変に三百年ぶりの使徒に、眠り人に絵画聖堂と、本に埋もれて本の虫として朽ちんと思っていた矢先に面白い事ばかり起きて、全くこの世は味わい尽くせぬものですわい!」
「お師匠様、興奮するのはいいですが、ぎっくり腰をまず治した方がいいですよ?」
言いながら、短い金髪の見覚えのある女が出て来た。
「なーに、この通り屈強なバルドスタ兵におぶさってれば問題ないわい。魔術師は魔術さえ使えればいいのじゃ」
その女に、気やすい軽口を返す老魔術師タイバス。
「君は確か『鉄の駿馬号』で会った……」
ルインは機関車での記憶をたどった。
「そ! マリアンヌよ。久しぶりね、キルシェイドの眠り人ルイン様と眠り女のみんな! バルドスタをひっくり返してくれてありがとう!」
「そういえば、豹人の女の子もいたな」
ルインがその言葉を言い終えたあたりで、兵士の群れをかけ分けて、黒い髪に薄緑の眼をした豹人の女戦士、クロスが現れた。
「これでもバルドスタでは名の通った戦士なのだが、眠り人にとっては『豹人の女の子』か。せめて『豹人の戦士』とか言えないものかな」
「ああ、ごめん、そういうのが気になるのか」
「だって可愛いから仕方ないでしょ?」
すかさず突っ込むマリアンヌ。
「私を可愛いとか言うな!」
どうやら豹人の女戦士クロスは自分の可愛らしい見た目が気に入らないらしかった。しかし、怒ると豹の耳が小刻みに動いてそれが何とも可愛らしく、周囲に微妙な空気が漂っている。困ったことに、感覚の鋭敏なクロスはそれに気づいていた。
「くそっ、今日は何かあったら絶対に活躍してみせるぞ!」
陰鬱な空気もこのやり取りで少し和らいだが、それはすぐにかき消された。灌木や草を取り除かれた古道の向こうに、崩れかけた頑丈な石造りの建物が見えてきたためだ。既に先導のバルドスタ兵たちは石段を上がった左右の解放された舞台のような場所に、兵科ごとに整列し始めている。その一角には、先日の刈り払いで出たであろう灌木を束ねたものが山と積まれていた。
「あれが、『絵画聖堂』です。石組みが崩れかかっているように見えますが、実際には大岩をくりぬいて作られており、あれらの石組みの広場や壁は外装のようなものです」
『絵画聖堂』は外部からはバルドスタに多い灰色の石材で組まれた遺跡のように見えている。広い石段を上がると、舞台のように石造の広場が開けており、その奥には錆びた鉄製の頑丈な扉を持つ、四角い石組みの武骨な塊のような建物だった。聖堂の本体はアーシェラの言うように滑らかな薄茶色の大岩であり、巨大な触手のようにその大岩に根を張った巨木がどこか禍々しく暗い影を落としている。灰色の石材はそのような部分は避けて組まれており、この巨木は大昔から存在していたのだと思えた。
「ほほう、これは雰囲気のある!」
老魔術師タイバスは目を輝かせてこの様子を眺めていたが、聖堂の周りは特に雰囲気が悪く、多くのバルドスタ兵たちの装備や甲冑の音を除いては、誰も口を開かなくなっていた。
「油と火付け担当の者たちは私たちに続け! 残りは総員、この広場で待機せよ! 決して気を抜くな!」
アーシェラは兵士たちに命令し、次に眠り人と眠り女、そして直属の配下たちに改めて確認を取った。
「それでは皆様、心に陰惨な傷を負う可能性のお覚悟を! そして、協力を誠にありがたく思います。何も起きないと思いたいのですが、取り掛かりましょう。鉄扉を開け!」
バルドスタ兵たちが錆びた鉄の扉にかけられていた大鍵を外し、軋るような音と共に扉は開かれた。以前はもっと厳重に封印されていたらしく、錆びた鉄の鎖が鉄扉の左右に山と積まれており、形のだいぶ崩れたそれらは、目地に苔の生えた石の床に消えそうにない赤さびの染みを残している。
「行こうか」
ルインはアーシェラと共に鉄扉の向こうの暗がりに入る。滑らかに削られ、磨かれた長方形の通路の奥は開かれた暗黒であり、アーシェラが壁面に鏡のように磨いて刻まれた魔法の碑文をなぞった。
「由来の分からない高度な魔法の術式が働いており、この中の温度と湿り気は、人体で描かれた絵画を最適な状態で保ち続けているのです。そして、魔法の灯明は美術館のようにここの絵画を浮かび上がらせるのです。参りましょう。……皆様、繰り返しますがお覚悟を! そして、絵画には決して触れないようにしてくださいませ。触れれば、込められたイェルナ様の記憶が流れ込んでまいりますから」
アーシェラと魔術師タイバス、クロスとマリアンヌ、そしてルインと眠り女たちは、明るくなった通路の奥へと足を進めた。そこは大岩の中とは思えないほどの、まさに聖堂のように天井の高い、四角くくりぬかれた広場になっていたが、息を呑む声や押し殺した悲鳴が続いた。あとから続く、焼き払い担当の兵士たちも同様の反応だった。
「これは……!」
誰ともなく驚きの声が同時に上がる。
まず、正面には二階建ての建物よりも大きな絵画が一枚。ルインにも読める文字が銘板から赤い光で浮かび上がっており、それは『忌むべき者たちの王』と読める。全裸の傷だらけの男女が積み重ねられ、全員が血の涙を流してこちらを見ているが、その頂点には人骨と髑髏で造られた玉座に座す、片手で頬杖をついた、赤い唇に嫌らしい笑いを浮かべた男が座していた。その眼は悪魔そのもので、この世の全てを嘲っているようにも見える。積み重ねられた男女も、まるで一体一体が全て生きて、今でも恨みを込めて飛び出してきそうな迫力だった。
「この男がウリス人たちの王、ウラヴ王です。気に入った男や女の歯を全て抜き、足を折って不自由にしたと伝わる淫蕩に過ぎる王です。理由は察してくださいませ」
この絵画の片隅に、鎖に繋がれ、顔を伏せた白い衣装の女が描かれている事に気付いた。
「アーシェラ王女、この女性は?」
「それがイェルナ様です。全ての絵画に描かれています。イェルナ様は死して後、自分をミイラにして、身体の全てを絵画の顔料にさせてこれらの絵を描かせたと伝わっています。彼女と共に苦痛を乗り越えた方々も全て。ここの絵画は、確か百五十余名の遺体から描かれているのです」
ルインは全ての絵を見回した。眠り女たちもバルドスタ兵たちも言葉を失っている。
「ウリス人にウラヴ王か、悪趣味に過ぎる奴らだな」
ルインの呟きに、ミュールが同意する。
「ほんと、胸糞の悪くなる奴らだよ。ああ、気分が悪くなってきた……」
『宴』と題された絵画は、食人と凌辱の絵画だった。おそらく身分のある女たちを凌辱しつつ、テーブルの上の食器からは人の頭や手指がのぞいている。女たちの表情は慟哭や放心だった。
「ウリス人たちは女や少年を凌辱しつつ、その家族を食するという冒涜的な行いを数多くしていたようです。私の記憶の中にも、これらの情景があります」
青ざめたアーシェラがルインのそばで説明をした。ルインはその左手首をそっと掴む。
「優しいのですね。……今はヘルセス様の使徒ですから、ある程度は大丈夫ですが、甘えておくことに致します」
「そのほうがいい」
『凱旋』と題された絵画は、人骨で造られた戦車に乗る、毛深い猿に近い人間の姿をしたウリス人の騎士の絵だった。戦車に立てられた数本の槍には人の首が刺されており、掲げられた旗は布の旗ではなく、首と手足を斬り落とされた女の胴体だった。騎士の腰には干し首と腐りかけた首がぶら下がっている。
「ウラヴ王には『ウラヴ王の六騎士』と呼ばれる、特に邪悪な騎士たちが居ました。彼らは残酷な行いで、下層地獄界の騎士となり、永遠に生きることを望んでいたのです」
「存在そのものを滅しなくては駄目だな。もしもそれを実現していたら」
「完全に同意ですわ」
ここで、ルインは腰に吊っていた黒曜石の剣オーレイルが小さな呻りを発しているように感じた。手に取ると、武王ガイゼリックの意志が流れ込んでくる。
──おお、感じるぞ! 滅ぶべき者どもの穢れた魂を! 奴らはこちらを見ている!
「何?」
「どうしました?」
「ガイゼリックの剣が警告している。こいつらがこちらを見ていると」
「何ですって⁉ 皆の者、薪を積み、焼き捨ての準備を! 心して取り掛かれ!」
「伝統や美術的な価値なんぞ犬に食わせて、とにかくこんな不快に過ぎる絵はとっとと焼いてしまうべきだな」
「素描は残して王族が厳重に管理していますが、心から同意いたしますわ!」
あまりに冒涜的な絵画を焼き払うべく、聖堂はあわただしく兵士たちが動き始めた。
first draft:2020.06.19
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