第二十一話 涙と痛み

第二十一話 涙と痛み

かいがせいどう 絵画聖堂を後にし、ダスラの王宮に戻った一行に届いた報せは、オルリスの街に隠れ住む第二、第三王家の血統の者全てが高熱で倒れたという知らせと、モルオン・サダの隠れ里のセダフォル荘で発生した緊急事態の知らせだった。

「ルイン様と眠り女の皆様、今日は本当にありがとうございました。私はひとまず事態の収拾を試みます。またご連絡いたしますので、ひとまず身体を休めて下さいませ。絵画聖堂の絵画を破棄する試みは、お陰様で上首尾に終わりましたから」

 務めて冷静に、皆に礼を言うアーシェラ。

「ああ待て、おれも行こう。状況が分かれば皆とも相談して何かを好転させられるだろうし」

「ルイン様……」

「ねえ、私の『精霊の場』も役に立つかもしれないわ」

 心配そうな眼をして提案するクーム。

「バルドスタでは聖餐教会せいさんきょうかいは歓迎されていませんが、私の法力もまだ余裕があります。『快癒かいゆ』や『活力かつりょく転移てんい』を施すこともできるかもしれません」

「クームさん、そしてシェアさんまで……」

 アーシェラの声は途中で詰まった。

「本当に心強いです。最悪の場合は力を借りるかもしれません。ただ、我が王族の隠れ家は禁足地きんそくちでもあるのです。皆様には本当に図々しいお願いですが、ルイン様をもう少しお借りしても良いですか?」

「気にしないで。仲間でしょう? あのクソ男が契約した内容が分かれば、私たちの力なら破棄させることができるかもしれないけれど、あの男の様子だと、契約書は下層地獄界かそうじごくかいでしょうしね……」

 ラヴナもまた気遣っている。

「では、おれはこのままアーシェラ王女に同行するよ。皆はいったん引き上げて休み、何があっても動けるようにしていて欲しい」

 眠り女たちはそれぞれの考えと共にアーシェラに気遣いの声をかけ、一旦『西の(やぐら)』へと戻る事にした。気力溢れるルインは再び王族の別荘、セダフォル荘へと向かう。

「……なんだ?」

 ルインは右目のわずかな違和感に気付きふと足を止めた。なぜかそれが霊体のイェルナ王女の悲痛な叫びの様子が脳裏に浮かぶたびに増してきているような気がする。それは交互に繰り返され、違和感だったものが弱い痛みに変わりつつあった。

「どうしました?」

「いや、何だか右目にゴミでも入ったようだ。もう大丈夫だ。行こう」

 しかし、ルインの右目の痛みはじわじわと強くなっていった。

──ダークスレイヤーは多くの領域を旅し、神も魔も関わらず、全ての傲慢な者たちを追放すべく、永遠に等しく戦い続けた。忌むべきその名は数多くの地獄界にも伝わっているが、彼の真の敵は地獄界を創った上層の神々なのだと伝えられている。

──刻者不明「闇の討伐者の遺碑文(ダークスレイヤー・テスタメント)より

 夕方のセダフォル荘は昨日とは違い、慌ただしさと悲壮ひそうさが漂っていた。

「まずみんなの様子を確認しよう。方法は……ないわけではないと思うからな」

 足取りの重いアーシェラを励ますようにルインが語りかける。

「方法が?」

「ああ。まずは状況の確認だ」

 アーシェラは流石に半信半疑だった。希望を持てと言うには難しすぎる状況だと考えていた。

「ベネリス、状況は?」

 アーシェラは現れた暗い眼の給仕に状況を聞く。

「良くありません、マイシェラ様も、アルドス様も、ミリシア様も高熱でせっております。アスタル様は変わらず。アレイオン様はご壮健そうけんです」

「何という事! ああ、でも大戦父様はやはり大丈夫なのね?」

「はい、ただ、大変に気を落としておられます」

「そうでしょうね……」

「アレイオン殿だけは元気なのか?」

「ええ。大戦父だいせんふ様は東方、フソウ国から伝来した妖刀をお持ちです。その妖刀の力が呪いを食うと言い伝えられているのです。おそらくそれは事実だったのですわ」

「なるほど、それならやはり試せる事もあるかもしれない」

「ルイン様は魔導士まどうしの力もお持ちなのですか? 絵画聖堂では高位の不死者をび出しておられましたし」

 アーシェラにはルインの持つ力の全容が測りかねていた。

「もしかしたらとても邪悪な存在かもしれないぞ? そして王女はさらわれる! と」

 ルインはこの期に及んでも軽口をたたき、アーシェラはわずかに微笑んだ。

「いえ、その軽口は通じませんわ。既に周囲に魔族の姫様方もいるような方ですもの」

「君も誰にも劣らんさ」

「あら、励ましてくださっているのですね?」

 アーシェラはしかし、このような状況でもルインと話すといくらか心が軽くなるのを感じていた。どこかに希望があるような気がしてくる。

「気が軽くなりますわ。もしもルイン様が邪悪な存在で、私が(さら)われてしまったとしたら、その時はもう運命に身を委ねます。ただ、その時は、できれば呪いも王族も関係の無い状態にして欲しいですし、その上であまりひどいことをしなければ逆らいませんとも」

 微笑みつつ軽口を返すアーシェラの言葉に少しだけ、王女の心からの願いが含まれている気がし、ルインは笑った。

「少し願望が入っているが、そのほうがましな状況だものな。しかし希望はあるさ」

 アーシェラの目が少しだけうるんだ気がしたが、ルインは何も答えず前を向いた。

「行きましょう」

 マイシェラ王妃とアルドス王子、ミリシア王女は同じ部屋のベッドで伏していた。『冷却れいきゃく』の施された氷嚢ひょうのうを額に乗せられていたが、その顔はひどく赤く苦しそうだった。

「ああ……何という事を……」

 立ち尽くすアーシェラの言葉はしかし、半分は自分を責めているような口調に聞こえた。

「いや、君の判断は間違ってはいない。相手が狡猾こうかつに過ぎただけだ」

「でも、これでは!」

 うるんだアーシェラの目は悔恨かいこんに満ちていた。明らかに自分自身を責めていた。

「いつか誰かがやらなくてはならないことを君がやっただけだ。落ち着け、立派な行いには苦痛が伴う。そしてこれは完遂かんすいへの途中だ。まだ結果ではない。しっかりしろ!」

「……はい」

「少し試してみたい事がある。術式じゅつしきを行使しても?」

「はい、構いませんが……」

 ルインは鎖を呼び出し、独特な印章いんしょうの描かれた魔法陣まほうじんをこの部屋の天井いっぱいに展開した。基本的にあらゆる複雑な魔法陣は一筆書ひとふでがきで帰結きけつするべきものであり、一本の鎖で描かれたそれは、魔法陣の基本をなぞっていると言えた。

「読みが当たれば、多少の効果は見込めるはずだ」

 静かなうなり声がし、部屋の明るさが少しだけ落ちると、マイシェラ王妃、アルドス王子、ミリシア王女の三人のベッドから、毛布を貫通して黒いぬめりが幾筋いくすじか浮かび上がり、吸い上げられたそれは、魔法陣のそばで火の粉と化して消えてゆく。

「やはりな」

「これは?」

 アーシェラが驚きの声を上げていると、その声に気付いたのか、ミリシア王女がぱっちりと目を開けた。

「あれ? アーシェラお姉さま? ミリシア、急に楽になったのです!」

「アーシェラお姉さま? 眠り人さま?」

 アルドス王子も起きた。

「これは……どういう事なの? 足に力が入るわ!」

 マイシェラ王妃もベッドから起き上がった。三人の身体からは黒いぬめりが浮き上がり、天井の魔法陣のそばで火の粉に変わり続けている。

「ある領域りょういきに繋がる魔法陣を展開させた。その世界は傲慢ごうまんなる者どもの力を喰らう、怨嗟えんさに燃える死者たちが永劫彷徨えいごうさまよう世界なんだ。あのウラヴという男は相当な罪人だな。死者たちの怒りがあの男の全てを食い尽くそうとしている。呪いさえも」

「そんな事が⁉ しかしなぜ、そんな力を使えるのです?」

「さっき言ったろう? 邪悪な存在かもしれないと。何しろ君の殺し屋だし」

 ルインは得意げに軽口をたたいた。

つかみどころのない事をまた仰るのですね……」

「ただ問題もある。おれが移動すれば当然この術式は展開できない。これは相当に強力な呪いだから、病状はすぐに戻ってしまうだろう」

「そうなのですね?」

「アーシェラ、使徒しとである君なら強力な女神ヘルセスの結界と、苦痛を和らげる系統の強い祈願きがんを使えるだろう? 君が結界を張り、回復や苦痛を緩和かんわする祈願を一通り使ったら、おれは皆の呪いをいったんこの方法で消そう。そうすれば皆の苦痛は大分減り、時間は稼げるはずだ。その間に次の一手を打つ。それでどうだろうか?」

「次の一手、ですか?」

「ああ。おれはいったん『西の(やぐら)』に戻り、準備を整えたらまたここに様子を見に来る。それから対応をしよう」

「わかりました」

 この後、ルインはあわただしくアレイオンや兄王子アスタルにも同様の魔法陣を現出させた。驚くべきことに、アスタルには膨大な呪いが蓄積ちくせきしていたが、それが消されるとベッドに座って話せるほどになった。アーシェラは屋敷の中心部で『神聖なる結界』『女神の快癒の加護』『続く回復』『苦痛の除去』『強い呪いの緩和』などを女神ヘルセスの使徒の力で発動させる。強い効果は望めなかったが、それでもやらないよりはましだった。

 一通り処置を終えた二人はハイデの収監されている貴人用の牢獄ろうごくに向かった。

「屋敷が慌ただしい。何があったのだ?」

 アーシェラとルインは絵画聖堂で起きた事と現状を一通り説明した。アーシェラに食って掛かると思われたハイデは、意外にも肩を落として一言だけつぶやく。

「そうか……」

「少し意外な反応だな」

 返ってきた言葉は、さらに意外なものだった。

「私が生贄いけにえになってもいい。だが、そういう話ではないのだろう?」

に落ちん。アーシェラ王女を殺そうとするほど反感を持っていたであろうに、ずいぶんと大人しい反応だな?」

「それは……」

「私が使徒になってしまったら、もともと身体の弱かったフェルネが長く生きられない未来を避けられなくなると考えているから、ですわよね? 二人とも使徒になれば、表向きは結ばれなくともずっと一緒に生きられますもの」

 ハイデの言葉をさえぎるように言ったアーシェラの言葉に、ルインは納得した。男の口からは言いづらい事を代わりに説明したのだろう。それが真相なのは固く結ばれたハイデの口と苦し気な眼が証明していた。

「そういう事か。うっ……!」

 再び、ルインの右目に痛みが走る。

──ねぇ、置いていかないで! 一人にしないで!

──駄目だ、フェルネーリ……。

(フェルネーリ? 誰だ? おれは誰を忘れている?)

 いきなり、ルインの脳裏に誰かの悲痛な叫びがよぎった。その誰かの名前はフェルネーリ。ルインはそれが、『フェルネ』という名前により掘り起こされた自分の古い記憶らしいと感じた。

「どうしました?」

「いや、あとで目を洗おうと思う。で、その女性はどこに?」

「フェルネは首都オルリスの第二王家の邸宅に幽閉されています。……ハイデ、適当な理由を付けて強権でフェルネを解放させます。あなたもここから出しますから、彼女についてやってください。ここに呼んでも構いません」

「何だと? しかし私は……」

「あと三日で、私とあなたと大戦父様以外みんな死に絶えるかもしれないのですよ? 必要なら人もやります。いいですね?」

「……わかった。すまない」

「なら急ぐことだ。おれはいったん戻り、態勢を整えてここに来たら、また呪詛じゅそを抜く。少しは凌げるだろう」

 ルインは急ぎ、『西の櫓』へと戻った。

──呪いの厄介な点は、当事者以外にはほぼ解除する手段がない事である。強制的に解除する場合は、位階の高い者からの強権による解除か、力によって解除を迫るしかない。 

──狼の魔女ファリス著『魔女のまじない』より。

 夜が更けた頃、ルインは再びセダフォル荘を訪れた。現在のルインはアゼリアから贈られた工人アーキタの都市の職人たちが技術の粋と感謝を込めて作った黒いコートに袖を通し、十分な食事も済ませて気力に満ちている。しかし右目の痛みは強くなっており、今はずきずきと痛み続けていた。なぜかイェルナ女王の悲痛な叫びが、何か激しい痛みの伴う記憶を呼び覚まそうとしているが、それは呼び覚ますべきではないものに感じられていた。

──もう、あなたのもとには戻れない……。

 突如、とても古く、非常にいやな気分になる誰かの言葉がよぎった。女の声だった。

(なんだ……)

──ねえ、おいていかないで!

 フェルネという名前が呼び起こす、フェルネーリという誰か。それも何か悲しみを思い出させるが、それはそこまで古くないような気もしている。

(おれは何を? いや……)

 ルインは目の前の事に集中すべく頭をふった。眼は痛むが、おかしな幻想に囚われているべきではないと考えた。夜でも周囲で息をひそめている隠密たちの気配に気力を整えたルインは、セダフォル荘の扉をくぐると、給仕の一人にアーシェラの所在を聞き、マイシェラ王妃たちの部屋を訪れた。

「戻ってきたが、これは……!」

 王妃も、アルドス王子もミリシア王女も、苦しみで呻き、時に泣き声を上げていた。苦悶に満ちた顔は赤く、ひどい高熱が出ていると思われた。

「うう!」

「……大丈夫よ」

 アルドスとミリシアのベッドの間に椅子を置いたアーシェラが、苦しみにうめくアルドスを優しく励ましていた。傾けた上体と共に、ゆったりと巻く癖のある美しい金髪がさらさらと流れたが、それがまたルインの何かを思い出させ、右目の痛みを強くする。

──きっと朝までには良くなるわ。

 言葉とともに、顔の思い出せない誰かの長い髪が、何らかの病気で寝ている幼子に対して、同じような姿勢で流れた記憶がよぎる。

──かわいい子。いつか私たちにも……。

──……。

──いえ、出過ぎた事を申しました。

(なんだ? これは?)

 冷や汗の流れる感覚とともに右目の痛みが増し、ルインは思わず右目を手で覆う。ルインに気付いたアーシェラは、やや赤くなった目でも気丈に微笑んで見せた。

「ああ、ルイン様。呪いがますます強くなりました。夜は呪いが強まるとされていますから、そのせいかもしれません」

 薄暗い部屋で声を殺して泣いていたと思われるアーシェラが、つとめて冷静な声で言った。白いワンピース姿の彼女は等身大の心でいる。泣かなければ身が持たないのだろうと思われた。

「すぐにまた呪詛じゅそを吸い上げる!」

 ルインは再び鎖で魔法陣を組み、大量の呪詛を吸い上げた。

「ひどいな、これは」

 ルインはその莫大な量に、絵画に潜んでいたイェルナたちの魂が地獄で苦しめられている可能性を感じたが、それを口に出しはしなかった。

「ああ、眠り人……様」

 アルドス王子が顔を上げる。

「僕は立派な王になりますから、これくらい、どうってことないです。だから必ず僕に武技を教えてくださいね」

「ああ、もちろんだ!」

「約束、ですよ……」

 微笑み、そして気絶するように眠りにつくアルドス。アーシェラはその様子を見て、部屋の外に駆け出した。呪詛の吸い上げがひと段落したルインも魔法陣を消し、その後を追う。廊下には暗い眼の給仕、ベネリスがいた。

「アーシェラ様はルイン様がお泊りになっていた部屋に向かいました」

「ありがとう」

 昨夜泊った部屋のドアを開けると、すすり泣きが聞こえていた。薄明りの窓辺に立つ白いワンピースの後姿は、その肩が悲し気に震えているのが分かる。

「あんな年端の行かない子たちがここまで苦しむなんて! まだ六歳と十歳なのですよ……!」

 震える涙声だった。

「これから、あの下層地獄の門を閉ざしに行く。完全に閉じれば呪詛も届きようがないはずだ」

「……どうやって?」

「秘中の秘で見せることはできないが、最短で明日の朝まで、遅くとも明後日までにはどうにかしよう。ただ、絵画聖堂には誰も入れないでくれ。見張りは置いていくから」

「あのような『門』は多くの場合、神々の摂理せつりで存在している世界間の通路と聞きます。例えば岩で閉じても厳密には閉じた事にはならないと。それを完全に閉ざすことができるのですか?」

「ああ。だから泣くな」

 後ろ手でドアを閉めたルインの胸に、アーシェラが飛び込んできた。

「おい、王女が……」

 ルインは言いかけてやめた。震えている肩を見てしまった。

「はしたない、などと言わないでください。……いっそ、使徒を辞してあの穴に飛び込めばと何度も考えました。でも、先延ばしに過ぎないでしょうし、何より、恐ろしくて仕方ないのです。どんな目に遭うかと。私は愚かで卑怯でしかないのかもしれません」

 ルインはアーシェラの両肩を掴み、彼女を胸からそっと離すと、言い聞かせるようにその眼を見ながら話した。

「そう思わせるのが奴らの手口だ。所詮、こちらに出てきて問答無用で全てを奪う事もできなければ、安全な場所に引っこんで人の心を揺さぶる程度しかできないんだよ。これが奴らの限界だ。今からそれを実証してくる。あの気丈な王子や皆についててやってくれ。なるべく、朝までには終わらせる」

「あなたの言葉は、本当にそんな気がしてしまいます」

「本当にそうなるんだよ」

 ルインはアーシェラの肩から手を離すと、きびすを返してドアノブに手をかけた。

「肩くらい、抱いてくださっても構いませんでしたのに。それどころか、あのおぞましいものに身を捧げるくらいなら、いっその事……」

 アーシェラが何を言わんとしているのか、ルインは理解した。

「まだ何の結果も出ていないし、かと言って不安に押しつぶされて正常な判断力を失ってる女の肌に触れて喜ぶほどには浅くもないんだ。少し落ち着け。……行ってくる」

 ルインは廊下の暗がりに姿を消し、ドアは静かに閉じた。しかしその背中がアーシェラの涙を止めていた。

「いるのですね、あなたの様な殿方も」

 アーシェラの独り言は既にルインには届かない。ルインは早足でセダフォル荘を出ようとしていたが、玄関のそばに車椅子の人影をみとめた。

「アレイオン殿」

 老いた武人の目もまた、深い悲しみと涙で濡れていた。豪快な武人のその表情は、ルインの胸に激しい闘志を呼び起こしていた。

「説明は聞いていたが、貴公はやはり……戦いの行くのじゃな。ワシにはわかる。ルイン殿、どうか、どうかこの国を救ってくだされ! 恥を忍んでお願い申し上げる。あの気丈なアーシェラを、我が一族を、古きイェルナ様たちを、どうか、どうかーッ!」

 ルインの右腕を強くつかんだアレイオンは、かすれるほどに強い願いを込めた声で、何度も頭を下げた。そして、車椅子の脇に差された黒いこしらえの刀をルインに手渡した。

「出来ればワシも同道したい。じゃがそれは叶わぬ。わが身をこの歳まで守った、フソウ国伝来の妖刀をお渡しする。きっとルイン殿の事もお守りするじゃろう。我が王族の怒り、悪鬼どもに一太刀でも浴びせてくだされ!」

「これを渡したら、あなたも呪いで……」

「ワシもひ孫たちと共に呪いと戦い、苦しみに耐える! 敵わなければ共に死ぬが、それだけの事じゃ。しかし、貴公ならきっと何とかなる気がするのじゃ。持っていかれよ!」

「……わかった。共に戦わせてもらおう」

「うむ。その刀の銘は『覇州闇篝(はしゅうやみかがり)』と申す。別名は暗雨闇篝(くらさめやみかがり)とも。ワシは闇篝(やみかがり)と呼んでおるが、暗い雨の夜にあってなお希望を見出さんとする者の刀とされる。いずれ茶会の時にでもその由来を話して進ぜよう」

「アレイオン殿との茶会は楽しみだな。では!」

 ルインは刀を受け取ると、セダフォル荘を出てはダスラの王宮を経て、魔剣ヴァルドラの力で空を駆けて絵画聖堂に直接降り立った。再び、死者の王マルコヴァスを喚び出す。

「行くのか。程々にな・・・・

「ああ、皆勘がいいから誤魔化しは効かないだろうし、適度に話して場を納めておいて欲しい」

「どこまで話して良い状態なのだ?」

「心配いらない、とだけ」

「承知した」

 ルインは絵画聖堂の奥に進むと、禍々しい赤い光の立ち上る地獄への穴を覗いた。遥か下方に砂粒ほどの赤い点がかろうじて見える。下層地獄界かそうじごくかいだろう。

「お前らのせいでどうにも気分が悪い。落とし前はつけてもらうぞ」

 右目は今や激しい痛みを伴っていた。痛みをかばうようにかぶせていた右手をよけて目を開けると、その瞳は漆黒となり、瞳孔の部分は火のように赤い。まるでこの地獄への穴を縮小したような色の組み合わせだった。

「行くか」

 ルインは右手に『覇州闇篝』を持つと、両腕を広げ、下層地獄への大穴に飛び込んで姿を消した。

──はるか遠くの時と海の地で、冥府と繋がる深き海から現れた数多くの魔を追い払った者たちがいた。巫女であり戦士でもある女たちを率いた黒衣の戦士は、その手に黒い刀を持っていた。その刀こそが『闇篝』である。

──剣聖カシン・カナン著『刀剣秘話』より。

first draft:2020.07.01

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