第二十五話 雨と快晴

第二十五話 雨と快晴

 セダフォル荘の一室でルインに抱き着いていたアーシェラは、涙の消えた顔を上げて素朴な疑問を口にした。

「ルイン様は私が怖くないのですか? 軍事力や、私が王族だという事を抜きにして、ですが」

「怖い? なぜ? よくわからないが、たぶん君の心根が純粋だからだろうな、きっと。権力による様々な狂気を正当化するような開き直ったふてぶてしさもないし、『眠り女』に選ばれるくらいだしな。ただそのぶん、今まで辛かったのだろうとは思うが」

「正直なところを申しますと、王族が自分で命を絶つのは無責任に過ぎますから、階段でも踏み外して死ねないものか、という夢想がよぎった事は何度もあります。『死を望みつつも全力は尽くす』と言えばよろしいでしょうか? そして『眠り女』に志願したのは、自分の想像を超える方と話してみたかったのが大きな理由です。私の世界に風穴を開けて下さるような方を望んでいました。まさかこれほどに強く、私の為に動いてくださる方だとは思わず、あなたの動機については測りかねているのが正直なところですが」

「動機はあるぞ?」

「何ですか?」

工人アーキタの都市国家ピステを攻めないで欲しい、という」

 アーシェラの肩が小刻みに震えた。声を抑えて笑っていた。

「またそのような軽口を! 今更そんな事しませんわ。でも、私も年若い女ですから、あなたが優しくしないと心が盲目になって何をするかわかりませんよ?」

「気を付けておこう。しかし、優しくとは?」

 アーシェラはルインからそっと離れた。

「ルイン様、少し座って眠るおつもりでしたか?」

「ああ、そのつもりだった」

「それなら、お隣で肩をお借りしても良いですか? それくらいで十分なのですよ」

「それは全く構わないが……」

 ルインにはアーシェラの考えが全く読めなかった。

「こんな感じで、少し眠って帰ろうと思っていたんだ」

 ルインは寝椅子ねいすに座り、背もたれに寄りかかると腕を組む。

「では、隣に失礼しますわ」

 アーシェラはぴったりと身体が触れる位置に座る。彼女の高貴でささやかな香水の香りの奥に、かすかに淫靡いんびな甘やかさが漂っており、ルインには王族がねやで使うような情欲を高める奥深い香りが含まれていると感じた。しかし、そのような香りはルインにとってはかえって気を引き締めてしまうものだった。気の遠くなるほど長い間戦ってきたルインにとって、気の緩む全てが逆の効果をもたらしてしまう習性が身についていた。

「良いですわね、かえって気が引き締まるのですね?」

 アーシェラがそれを察知した。

「参ったな。そういうくせみたいなのがあるんだ」

「はい。ある程度までの戦士は女の肌が通用しますが、それ以上に戦ってきた戦士は容易に心を緩めないと言われています。もしやそんな方かと思い、王族らしさもかなぐり捨てて話してみたのですよ? 私も救われたかった気持ちもありましたけれども」

 自分の希望もあるが、ルインの心を和らげるために見せない部分を見せたとアーシェラは語った。そして、おそらくそれも賭けだったのだろうとルインは感じた。

「そこまでさせてしまったなら、確かに今後も辛い思いをしないように協力させてもらうさ。君が今のままである限り」

「でも、とてもささやかな形でいいのです。時々、こうして肩や背中をお借りするだけで」

 アーシェラはそんな事を言いながら、ルインの肩に頭を預けた。

「随分とささやかだな。少し眠るか」

「おやすみなさい、ルイン様」

 アーシェラに、おそらく普段は絶対に見せないはずの親し気な無防備さを感じたルインは、それでようやく気が少し緩み、ゆっくりと目を閉じた。気高く孤独だったアーシェラもまた、両親を失い、兄が病に伏して以降、やっと支えになりそうな他者を見つける事が出来ていた。

 しかし、実はこの様子を覗き見している者たちがいた。ルインの泊っている部屋の何箇所かの鏡や彫刻の目の位置に『視界しかい投影とうえい』という術式がかけられており、セダフォル荘の秘密の記録室でその様子が別式の給仕たちにより監視されていた。これは王族の身の安全を守るためや、不義密通ふぎみっつう密談みつだんの監視、時に夫婦間の記録を取る事などがその目的だったが、今は少し意味合いが変わっていた。

「首尾の方はどうじゃ?」

 鏡に映る視界を興味深く見ていた二人の別式の給仕に声をかけるのは、大戦父だいせんふこと老アレイオンだった。

「アレイオン様の想定とは異なっておりますが、アーシェラ様にとっては最高の展開のような気も致します」

 振り向く黒い髪の給仕、リスラ。

「こんな尊いアーシェラ様を見られるなんて、眼福です」

 金髪に眼鏡のマーヤは涙ぐんでいる。

「大した男じゃ。あそこまで出てくれるからには我が孫が気に入ったのかとも思ったが、やはり上位魔族ニルティスの姫君たちに好かれるほどの男は違うものじゃのう。しかも、アーシェラの気高い孤独を感じてその心を開くとは、我がバルドスタには大きな武運が訪れているのう。強き武人の血は欲しい所じゃが、一人で我らを支えてきたアーシェラの気持ちを優先するか。投影は終わりじゃ。以降、眠り人殿とアーシェラの事は監視も記録もすまい。大恩人に対して非礼になるしのう」

僭越せんえつながら、私もそのように思います」

「私もです」

 この日以降、バルドスタの王族の秘史ひしにアーシェラとルインの事は一切記録されず、正史のみの記録となった。バルドスタの王家は眠り人と関わり、また使徒にもなったアーシェラを、王族ではおさまりきらない女性として、一部自由にしたことを意味するものだった。

──バルドスタの王家の血は一度ウリス人によって途絶えかけたが、ウリス人とウラヴ王を討伐しつつ、イェルナ女王は当時の若い英雄ローデスとの間に高齢出産で子をもうけて血統を残した。しかし英雄ローデスにはすでに恋人がいたため、ローデスを第二王家、ローデスの恋人の家を第三王家とした複雑な過去がある。

──ランドール・カイロ著『バルドスタの伝承』より。

 午前の遅い時間。

 何度か目を覚ましたものの、深い眠りに落ちているアーシェラを起こさなかったルインは、結局のところ午前も半ばの時間まで眠り、アーシェラの謝る声に起こされ、それから帰ってきた。

 バルドスタは未明からの雨だったが『西のやぐら』のある魔の都は晴天で活気がある。櫓内の転移門を出たルインは、開口部から差し込む光と魔の都の喧騒けんそうに深まる春を感じつつも、頬や髪に当たる日差しに、どこかけだるげなひと段落を感じていた。

「おかえりなさい、ご主人様ー!」

「いきなりどうした?」

 階段室の手前でチェルシーがいきなり抱き着いてきた。顔を上げたチェルシーはいたずらっぽい笑みを浮かべている。

「隅に置けないですねぇご主人様! 戦ってきたその帰り足に夜の戦い・・・・でもしてきましたか? 私の記憶が正しければですが、この香水は一部の王族しか使わない特別なものですよ? まったくもう、そんな香りさせて帰って来るなんて! 隅に置けないどころか、部屋の真ん中に置くしかありませんね!」

「ああ、まあ紆余曲折うよきょくせつはあったけどな、でも実に健全な感じで帰って来たぞ」

「分かってますから大丈夫ですよー。ほんっと、気を緩めるのが嫌いなのね」

 チェルシーもまた、何か独自の感覚で状況を把握しているらしい。ルインはラヴナやチェルシーの鋭敏な部分にとても心強いものを感じていた。これが人間の女性たちだけだったら絶対に面倒な事になっていたはずだと考えていた。

「また全てお見通しか。でも今後、ラヴナやチェルシーのそういう部分にしばしば助けられそうな気がして来たよ……」

「でしょうね。私たちはそういう役割もありますし。実は、今朝からウロンダリアの魔術師たちの間で、下層地獄界かそうじごくかいの一部の存在がまったく召喚しょうかんに応じなくなったって結構な騒ぎになってますよ。本当は全く関係ないのに、上層地獄界じょうそうじごくかいで何か知らないか、魔王府まおうふに問い合わせが相次いでいるみたいです。まるで、誰かが下層地獄の一部の領域を皆殺しにしてきたみたいに静かだそうで」

「……それもお見通しなんだろう?」

「ラヴナちゃんから遠回しに聞いてますよ。私とラヴナちゃんはびっくりしませんけど、他のみんなは分かりませんから、自然に理解されたり、ばれるまで黙っておくといいかもです。不安の大きそうなクロウディアさんには、私たちから推測という形でやんわり伝えときますから」

「それが一番だろうな」

 ルインから離れたチェルシーはしかし、真面目な顔になった。

「ねぇご主人様、誰が何を考えてこうしているかは分からないけれど、本当は女の子なんて退けて一人でいたいでしょうに、そうやって慎重に私たちに合わせて生きてるの、とても格好良いですよ? 気高い人間以外にはおよそ理解できない格好良さですけど、私やラヴナちゃんにはそんな対応が一番信頼されるんです。だから、たまに一人になりたい時は言ってくださいね?」

「ん? ああ、大丈夫だが、ありがとう。しかし、一人になりたい時とは?」

「魔王府の調査の仕事とか持ってきます。あと、ここは狭くて密度が高いですから、早めにエデンガル城に移った方がいいかもしれませんね。とんでもなく広いはずですから」

 ここで、急ぎ足で階段を降りて呼びかける声がした。

「ルイン! おかえりなさい」

「ああ、クロウディア、ただいま! だいぶ遅くなってしまった。とりあえず問題は片付けて来たところだ」

「呪いを止めたという事? どうやって? ……いえ、あまり聞くべきではないわね。では、アーシェラ王女はとても感謝していたでしょう?」

「まあ、そうだが、一休みして帰ってきた」

「一休み……」

 クロウディアの表情は何かすがるような、願うような切なげなものだった。チェルシーがため息交じりに話す。

「もう……大人の一休み・・・・・・じゃないから大丈夫ですってば、だからそんな顔しないでクロウディアさん。というかそろそろ落ち着いてくださいよ。ご主人様ってそんな簡単にどうこうなる人じゃないです。ラヴナちゃんがしばしば近くで寝てるのにどうにもならないんですから、美人な王女様でも同じ事です。むしろ、全部片付いたらふらっといなくなっちゃうとか、そういう心配をするべきですね」

「ごめんなさい。そうよね。最近少しだけ心が不安定なのよ。ヘルセス様もチェルシーと同じことを言っていたわ」

「ヘルセスが? あー……これはいよいよ怪しくなってきましたね……」

 チェルシーの口調は女神ヘルセスをよく知っているような雰囲気だった。

「チェルシー、ヘルセス様と話したことが?」

「あっ、いいえ! 私は上位の魔族ですから、女神様とか何とも思ってないだけです。でも、ご主人様を知ってるように話してるのは頭に入れておかないとダメですね」

 クロウディアとルインは、チェルシーが何かを考えている雰囲気を感じ取った。

「それよりもルイン、謝らなくてはならないことがあるの。最近の私の心が不安定な理由なのだけれど、私、ピステでの動乱の時に、あなたの心や体に無防備に触れてしまったみたい。無意識にでは済まない事をしてしまったの。あげく、自分の心を不安定にしてしまって、何だかとても情けない状態なのよ。その……ごめんなさい!」

 クロウディアは深々と頭を下げた。

「クロウディアさん、とっても素直……」

 その様子に感心しているチェルシー。

「ごめん、何の話か全然分からないんだが……」

 ルインには何の話か全く分からなかった。クロウディアはルインの影に潜った時の事を説明したが、ルイン側からすれば、うっすらと『そんなこともあったかな?』くらいの記憶になっていた。

「つまり、ご主人様は女の子の心と体が裸でくっついたくらいでは全く動じないって事ですね。でもそれはラヴナちゃんとの関係見てれば納得かも」

「うう、私ってまだまだね……」

「でもクロウディアさん、裏を返せばご主人様は私たちにとってずっと変わりないって事ですよ?だからもう落ち着いた方がいいんじゃないかなって」

「そうね、そうするわ。もっと自分を鍛え直さないと」

 この日以降、クロウディアも少しずつ落ち着きを取り戻していった。

──ウロンダリアの魔術の学院では、しばしば異界の存在を召喚する試験などが実施されている。下層地獄界の存在を、下位から上位まで召喚する試みなどは、術者の練度が非常にわかりやすくなるためだ。

──ベル・フィアルス著『ウロンダリアの魔術師課程』より。

first draft:2020.07.14

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