第二十七話 女神ヘルセスとの対話
同日夜。バルドスタ戦教国、ダスラの王宮。
魔導のかがり火や城壁の松明は必要な場所全てに灯され、戻り始めた様々な役割の人材たちで活気を取り戻したダスラの王宮で、ベネリスことアーシェラ王女はヘルセスの聖堂の中にいた。この聖堂にも王族派の年配の司祭や神官を招聘する手はずが整っている。しかし、まだ戻って来てはいない時節だった。
「人払いも施錠も問題ありません」
確認をする別式の給仕、リスラ。
「では末席の方にいて下さいな。これからヘルセス様と対話します」
アーシェラは祭壇の上に立ち、ヘルセスの神像を見る位置で対話を念じた。身体を透過するような白い光が満ち、待機していたリスラからは、神像とアーシェラのあたりがまばゆい白い光の柱で見通せない状態になっている。
「ヘルセス様、使徒アーシェラ参りました。」
今度のヘルセスは神殿のベランダから草原と遠い山の緑が宝石の炎のように萌える景色を眺めている後ろ姿だった。
「待っていたわアーシェラ。少し話したかったところよ」
振り向いたヘルセスはとても美しく勇気づけられる何かが漂っているが、どこか寂し気な気配も感じられるような気がしていた。
「肩を借りて眠れたのね?」
「……はい」
「前回は意図せず、影人の皇女が共にここに来てしまいました。影人は少しだけ世界の境界を超える力が強く、あれは想定外でしたが、それゆえに真実をあまり話せなかったのが正直なところです」
アーシェラはここで、初めて戦女神と話した時の微妙に説明の足りない感じを思い出した。ヘルセスは続ける。
「まず……ウロンダリア中で下層地獄界の一部の領域の存在が召喚に応じなくなったと騒ぎになっていますが、実際のところは眠り人が下層地獄界の炎の領域で、ウラヴ王の配下の地獄の存在を皆殺しにし、地獄の管理者たちと相談の上で、ウラヴ王と魔王ザンディールの追放召喚状を預かり現世に戻ってきたのです」
信じがたい情報だった。
「……何と仰られました? 皆殺し⁉ そんな事が?」
「あの方には何ら難しい事ではありません。農家のネズミ退治より容易い事でしょう。だからあなたに何も求めないのです。自分の中では特に骨を折ったわけではない、と考えているのですよ。そして、あなたの生き方に敬意を持っているから無暗にあなたに触れたりもしないのです」
「理解が追い付きませんが、とても強くそして気高い、という解釈で合っていますでしょうか?」
「合っているわ。一方で、あの方はかつて外つ世界たる無限世界で『ダークスレイヤー』と呼ばれ大変に恐れられた存在でもあります。遠い昔は力を求め、また世界の構造に異を唱え、獣の如く暴れまわっていたのです。殺された神や魔物の数ははかり知れません。ただ、隠された伝承が事実なら無数の世界を創った『隠れし神々』が悪いのです。あの方の大切なものを全て奪い、踏みにじり、異を唱えたあの方を地獄に送り、考えつく限りの拷問を行ったとされています」
振り向いたヘルセスの目は遠く悲し気であり、それが事実であったことを感じさせていた。
「何があったのですか? とても心強いながらも遠い眼をし、そして大変な武人ながらも男性の欲の気配は全く見せず、深い部分は全く読み切れない方なのです」
「もう少し私の知っている事を話すと、あの方は復讐と大切なものの記憶の為に、いかなる責め苦にも決して自分の魂を手放さなかったといいます。やがて、拷問の日々の果てに悟りを得た後は、地獄の責め苦は通じなくなり、強力な武具を手に地獄を抜けたと言われています。その後は長い旅と戦いの日々だったはずです。『隠れし神々』はあの方の名前を消しましたが、あの鋼鉄のような意思と膨大な殺された神々の呪いの前に存在を消す事は叶わず、より最悪の不死の存在となりました。しかし最終的に『隠れし神々』は、あの方を怨嗟の炎渦巻く地獄『永劫回帰獄』に閉じ込めることに成功したのです」
「『永劫回帰獄』ですか?」
「ええ。至高の神々の都合の悪い真実が全て隠されているという領域です。あの人はそこで、実体を失うまでに焼かれ、それで全て終わったものとされていました」
「出て来たのですね? そこからも……」
「あの方は何らかの方法で実体を取り戻し、その地獄界を何らかの力で剣と鎖の形に焼き固め、より絶対的な力を求めて復讐の旅を再開したのです。そして……かつて、私が住んでいた世界が滅ぶ時、あの方が現れたのですよ」
「ヘルセス様は、ルイン様と面識が?」
「私たちのかつて暮らしていた世界では、私たち神族は人に優しくし過ぎたという理由で『隠れし神々』に弾劾され、世界が滅ぶことが決定づけられてしまったのです。これに異を唱えた私の父神と母神も処刑されました」
「より上の神々はそんな理不尽な事をなさるのですか?」
「理不尽でしょう? 絶対者のように、裁判官のように私たちを断罪する『隠れし神々』の使徒たちは、神々しく光り輝き笑いながら、私たちの世界を無数の光の矢で滅していったのです。地上の全てと、良き人々も、神殿も、多くの神々たちの抵抗も、なすすべもなく……」
この告白の恐ろしい意味に気付いて、アーシェラは戦慄した。より上位の神々は、人が救われることを全く望んでいないという意味に思えた。あまりの事にアーシェラはどう返事を返してよいのか分からなかった。
「あの日、黒い稲妻のように世界の壁を破壊して現れ、獲物を見つけた獣のように使徒たちに襲い掛かったあの方の姿が、まだ幼女だった私には神の使いより神々しいものに見えていました。私たちの世界はもう住めないほどに破壊されましたが、様々な恐ろしい力を扱うあの方の前に、使徒たちもまた皆殺しにされたのです。私たちは何とか生き延びたのですよ」
「……ウロンダリアはつまり、一度滅んでいるという事でしょうか?」
あまりに壮大な話に、アーシェラは話の整理が追い付かず理解を間違えてしまった。
「ここの話では無いわ。ここは今のところ永遠の地です。激しい戦いが終わり、あの方が去ったころ、尖った楔のような形をした巨大な星船が世界の壁の彼方から現れ、私たちわずかな生き残りは全て収容され、この『間の投錨の地』にて降ろされたのです。人々は地上に、私たちは天界に。驚いたのは、この地には私たちのような過去を持つ者ばかりだった事です。ウロンダリアこと『間の投錨の地』は、滅ぼされた世界からの移住者によって成り立っていると言っても良いでしょう」
「もしかして、私たちバルドスタの民というのは……」
「そう。私の故郷、バルドの人間たちの子孫なのですよ。だから私もあなたたちに加護を与えているのです。長い時を超えて、今でもね。そして今まで、私の使徒となった者にこの話をしたことはありません。あなたの時代にダークスレイヤーたるあの方が現れ、やっとこの話をする時が来たと思っています」
「あまりの事に、理解が追い付いていません……」
「でも、あなたは賢いから理解できるはずよ。あの人はあの恐ろしい戦いぶりからは想像もつかないほどに優しかったのを覚えています。絶望に涙する私を励ましてくれた時の優しい笑顔は、今でも心が温まるのです」
ヘルセスの寂しげな笑顔の理由が分かった気がした。ルインと名付けられたあの眠り人は、この女神がまだ幼かったころの救世主であり、そして憧れだったのだろうとアーシェラは気づいた。
「何だか、申し訳ないような気持ちがいたします」
「いいえ、そのような受け止め方をすることは無いわ。あなたがあの方と信頼を作れれば、私はそれで十分に満足なのよ。ただ噂の通り、あの方は女神を好まないのだと納得しただけよ」
「噂ですか?」
「ええ。あの方の風評と異なる優しさが知れ渡った事件です。ある時、あの方を懐柔すべく、えりすぐりの美しい女神を青い城に集め、後宮のようにしてあの方に与えた神がいます」
「神が女衒の様な事をするのですね……」
「でしょう? しかし、面白いのはその後です。あの方は巧妙に女神たちを元の領域に返したのです。誰とも深い仲にもならず、さりとてその心を傷つけないようにしつつ。彼女たちを強引に集めた神は惨たらしく殺されましたけれどね。ただ、獣のように恐れられていたあの方の風評は、等身大では極めて甘く優しい方という事が判明し、憧れを持つ存在は多いとされています」
ここでアーシェラは、『西の櫓』の眠り女たちとルインの関係を連想した。さらに、上位の魔族であるチェルシーやラヴナはこの事を知っているかもしれないと感じた。
「もしかして私たち『眠り女』も、誰かの意図で集められているのですか? 例えば運命を巧妙に操作して……」
ヘルセスは微笑むと、あっさり答えた。
「そうよ。ただし、その意味合いは全く違うわ。あの方でないとあなたたちの運命を変えられないのよ。神の定めた運命を無効にできる力を持っていますからね。それに、真に『穢れ無き乙女』は『穢せない乙女』であることが望ましかったのです」
ヘルセスの言葉は途中から謎めいていた。
「では、本来なら私は……」
「自分がどうするつもりだったかは、自分が一番わかっているでしょう? 考えてもごらんなさい、そんな時に地獄に単身乗り込み軍勢を虱潰しにする存在など、普通は現れることは無いでしょう?」
アーシェラは深く考え込んだ。ひどい目に遭うか、いずれにせよ不幸な生涯を終えていたであろう自分の人生を変えた存在は、何も見返りを求めていない。では、どうすればよいのか? と。
「ヘルセス様、私はどうすればよろしいのでしょうか?」
ヘルセスはこの疑問をどこか想定していたような微笑みを浮かべている。
「あの方はなぜあなたを助け、特に何の見返りも求めないと思いますか?」
「それが全く分からないのです」
アーシェラには見当もつかなかった。金ではないし、工人の都市国家の件は既に神聖乙女が声明を出している上、その伝統を汚す考えは無かった。僭越ながら決して悪くない容姿の大国の王女である自分の事も求めていないように見える。遊女のように扱ってよいとさえ言ったのに、それも過分な気遣いだと言われたのだから。
「それは、あなたが多くの取引のように代価を考えてしまっているからよ」
「ここまでしていただいて、代価を考えないわけには参らないかと思っています」
「ええ。それ自体は間違ってはいないわ。では、あの方は何を望んで動いたと思いますか?」
「申し訳ございません、それが分からないのです」
ヘルセスは微笑みつつ答えた。
「あなたの平穏と自由よ。あの方にとっては何より尊いものよ」
「私の平穏と自由……ですか? 」
アーシェラの驚きにヘルセスは美しい微笑みを返した。
「あなたはこれから、あなたらしく生きなさい。それがあの人の動きに唯一報いられる事よ」
「そんな事が?」
「でも、今のあなたはとてもいい顔をしているわ。そんな自分を大切になさい」
「……わかりました」
他者の平穏と自由を平気で損なおうとする者ばかりの世にあって、高位の神々も恐れるらしい存在はそれを何より重要なものと位置付けているらしい。これはアーシェラには衝撃だった。
「それから、魔王との戦いでは最後に迷える魂の救済が必要になります。それはあなたと私にしかできない事ですが、その時もあの人に手を繋いでもらいなさい。使徒になるのに絵画聖堂の試練が必要だった理由もそこで判明するでしょう。それはつまり、聖猫の結界術はやはり必須という事になります」
「手を? わかりました」
「全て終わったら、あなたにはかつて私が見たものを見せるわ。私の使徒があの方と信頼を築いている……こんな喜ばしいことは無いもの」
何かを納得したようなヘルセスの笑顔とともに、白い光の柱は消えた。
「アーシェラ様、もう終わったのですか? 一瞬光の柱が見えましたが」
比較的長い対話は、現世のリスラには一瞬の事のように感じられていたらしい。
「おそらくヘルセス様の領域とこちらでは時の流れが違うのでしょうね。様々な話を聞かせていただきました。しかしいささか情報が多く、今日はもう湯浴みをして休むことに致しますわ」
「かしこまりました」
ヘルセスの神気にあてられたのと、衝撃の話の数々で、アーシェラは頭が重い気がしていた。
「待ってください、今夜は『西の櫓』に行く事にしますわ」
この申し出にリスラは微笑んで答えた。
「僭越ながらその方が良い様に存じます。暗殺者対策も『西の櫓』の方がはるかに上でしょうし」
この後、アーシェラはチェルシーに連絡を取り、遅い時間だが『西の櫓』にも存在する自分の部屋で寝ることにした。この日は遅く、ルインと会う事は無かったが、『西の櫓』はどこか温かく過ごしやすく、数々の衝撃的な話を聞いた後でも、安らかに眠る事が出来た。
first draft:2020.07.21
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