第二章エピローグ  王女は空に手を伸ばす

第二章エピローグ  王女は空に手を伸ばす

 ウラヴ王の死と、魔王ザンディールの撃破から数日が過ぎた。バルドスタのダスラの王宮は今、しばらく雌伏しふくしていた王族派の者たちが続々と戻ってきており、忙しかったその評価と役職の割り当てもだいぶ落ち着いていた。

おおよそ、私の意思の必要な議案は終わりましたわね?」

 摂政せっしょうとして女王の玉座に座すアーシェラは、巨大な『バルドスタの円卓』に乗せられた、バルドスタ戦教国せんきょうこく精巧せいこうな地図模型を囲む重臣たちに声をかけた。重臣の一人が武人の礼(※胸の前で右こぶしを左手て包む所作)をしつつ答える。

「は! アーシェラ王女様のご裁可さいかを仰ぐ必要のある案件はほぼ終わりかと。我ら重臣一同、大バルドスタの威光で再びウロンダリアににらみを利かすべく、以降は駐屯ちゅうとんの割り当てと地方の首長しゅちょうの人選を行いまする」

「良い。そなたらは元老院派やベティエル派が幅を利かせた時代にも忠誠を崩さなかったまこと武人ぶじん。そなたらの采配さいはいを私は信用しています」

「ありがたきお言葉! 我ら雌伏の時は長くとも、このダスラの王宮を支える要石かなめいしの如く、再び王家とこの国を支えてまいりまする。より強く、栄えさせん事を!」

 文官といえども武のたしなみが無いと登用されないバルドスタらしく、文官たちの声もどこか野太さと力強さがある。

「私は少し、所用で出ようかと思います」

「お待ちください」

 静かな声が上がった。黒めの長髪に顎髭あごひげのある若い男だ。

「あなたは確か……」

「かつての軍師ラグラスが息子ライデン、その長子ライソンと申します」

「ええ。若いのにあの二人が推挙すいきょしているのは存じています。苦しゅうない、用件は何ですか?」

「は! 僭越せんえつながら、二つお聞きしたい事がございます。一つは、魔の領域キルシェイドにおられ、此度の長き因縁に決着をつける助力を頂いた、眠り人ルイン様と王女様との事。そしてもう一つは、ベティエルや元老院などの増長を招いた、『古王国連合こおうこくれんごう』とのかかわりについてでございます」

「ライソン、控えぬか!」

 重臣の一人が若い軍師をたしなめたが、アーシェラは(とが)めなかった。

「良い。意味のある質問と理解しています。その上で、まずルイン様の事は、つまり今後の我が国の何らかの力になるか? という解釈でよろしいでしょうか? つまり、私との関係が何かこの国に良いものをもたらすのか? どこまで期待できるのかと」

「はい」

「二つの質問に合わせて答えましょう。まず私は『古王国連合』からの脱退と、独自の軍備増強を進めていく考えです。また、魔の国キルシェイドと眠り人ルイン様には、同盟を提案しようと考えています。ただ、あの方はどうも、財貨や名誉、そして女性にも見向きもしない方なのです。故に利己的な話はしたくないと考えていますから、多くを期待してはいけないでしょう。……個人的に、あの方に嫌われるような頼み事はしたくない、という意味もありますが」

 公的な立場の王女が、ある男に嫌われたくないと明言したのは重臣たちには意外だったらしく、微妙な空気が漂った。アーシェラは口調を崩して話を続ける。

「そなたらは我が剣にして盾。なので少しだけお話しますと、あの方、眠り人ルイン様は、我が国を守護してくださる美しき大鷲おおわし、戦女神ヘルセス様もご存知であり、かつ一目置くほどの方だったのです。私の考えと対応はすなわち、ヘルセス様のご意思にのっとったものでもあります。私たちがあの方の信頼を裏切らぬことが、結果としてこの国にも恩恵をもたらすと考えていますが、それはあくまで結果であるべきだと考えています。手段であってはならぬのです。しかし、それを貫けば、此度こたびのような長く困難な問題さえも解決していただけることはあるかもしれません」

 ライソンはこの言葉に、深くこうべを垂れた。

僭越せんえつが過ぎました。姫様とあの方がいてこその今です。よくわかりました」

「いえ。では、よろしいでしょうか?」

 アーシェラは円卓の間から立ち去り、王宮の深部、本来の王族たちの住居だった区画に足を運んだ。多くの事を成し遂げた今、ダスラの王宮の古い岩壁に染みた先代の王族たちの心が、どこか自分をひっそりと讃えてくれているような温かみが感じられ、世界は以前のように暗く冷たくはなくなっていた。

「アーシェラお姉さま!」

 兎のぬいぐるみを持ったミリシアが、アーシェラに気付くと嬉しそうに駆け寄ってきた。

「そんなに走ったら転んでしまうわ!」

「あっ!」

 ミリシアは派手に転び、ウサギのぬいぐるみがアーシェラの足元に転がった。そっとぬいぐるみを拾い、ミリシアに寄るアーシェラ。しかし、ミリシアは顔をあげるとにっこりと笑った。

「あら、泣かないのね?」

「みんな病気が治ったし、アーシェラお姉さまも優しいお顔に戻ったので、ミリシアは痛くもかゆくもないのです!」

「そうね、そうだわ。もう泣く必要はないのよ」

 アーシェラは気丈なミリシアを優しく立たせつつ、その柔らかな髪をそっと直した。

「それに、天使鳥てんしちょうを見たのです。あと、大きなわしと!」

「あら、どこで見たのですか?」

「鷲は大きな塔のところで、天使鳥は森の上を飛んでいました!」

「なんですって?」

 鷲は女神ヘルセスの使いであり、バルドスタでは非常に縁起の良い鳥だ。さらに、全身が白く、長く二つに分かれた尾が美しい天使鳥は、地上と天界を行き来し、とても清浄な場にしか姿を現さないとされている。

「こっちで見たのです!」

 ミリシアに案内され、アーシェラは王族だけが使えるバルコニーに出た。王宮の西面に位置するこの場所は、『(かばね)の森』と『インスミラの月の塔』が一望できる。

「あれです!」

「まあ!」

 天をく『インスミラの月の塔』の上空に、雄大に飛ぶ大きな鷲の姿があった。やや大きさの違う二羽の大鷲は、もしかしたらつがいかもしれなかった。アーシェラは王家に伝わる言葉を思い出した。

──遠い昔は、ダスラの王宮にいつも大鷲が巣を作っていた。我々を見守るように。

 古くからの王宮の言い伝えが、再び蘇った瞬間だった。

「ああ、何という事なの……!」

 アーシェラは涙が溢れてきて止める事が出来なかった。

「泣いている時の淑女しゅくじょは、殿方とのがたがいない時は一人にした方がいいと聞きました。ミリシア、お母様の所に行って、みんなに人払いを言いつけますね?」

「ありがとうミリシア、そうね。少し泣きますわ」

「嬉しい涙ですよね?」

「そうよ?」

 ミリシアは静かに立ち去った。小さい子なりの気遣いが、アーシェラにはとても嬉しく感じられた。改めて『インスミラの月の塔』の上空を見やると、つがいであろう大鷲はゆっくりと輪を描き、時に塔の上部に姿を消したりしている。

(ヘルセス様、偉大なる美しき大鷲よ、どうかこのバルドスタを末永くお見守りください。私もまた命ある限り、使徒しととしてここに……)

 ここで、聞いた事の無い美しく尾を引く鳥の鳴き声が下方から聞こえ、アーシェラは下方の暗い森に視線を移した。十数羽の白く美しい、尾の長い天使鳥が舞うように『(かばね)の森』の上空を飛び、時に城壁や絵画聖堂かいがせいどうの大木にとまったりもしている事に気付いた。全ての因縁が終わり、場が清められたことを意味していた。

「天使鳥まで! 皆、無事に旅立てたのですね……!」

 『かばねの森』は今、清浄に清められた森と化していた。肩の力が抜けたアーシェラは、心の圧力が抜けるように涙が流れ落ちていた。しかし、そこでルインに思い至り、ある事に気付いた。

──大丈夫だ。

 そう言いながら笑っていたルインは、無数の怨嗟(えんさ)を自分の剣に吸い上げてはいなかったか? それは本当は苦しい事ではないのか? 誰かにとても優しくできるのは、耐え難い苦しみを経た者だからではないのか?

──遊女ゆうじょのように扱ってくださって構いません。

 そんな言葉さえ躱す、どこまでも硬骨の、しかし自分を笑わせるつかみどころのない優しい男。

──下層地獄かそうじごくのある領域の存在を皆殺しにし……。

──獣のように暴れまわる、とても恐れられた存在。

 ヘルセスの言葉も思い出される。アーシェラは度々ルインに掴んでもらった左手を空に伸ばした。『ベネリス』と名乗って巷間(こうけん)に紛れ始めた頃に、バルドスタで流行っていた恋歌こいうたを思わず口ずさむ。

「そんな長さの剣があれば、今すぐこの空を切り裂いて、天使プラエトの群れを起こし、私を別の世界に連れて行って。どこか遠くの、誰も知らない世界へ……」

 女も戦うバルドスタにおいては、『男が女の左手首を掴む』事は特別な意味を持つ。戦場で手を引く事を意味し、それは深い信頼の証でもある。

 アーシェラにとって、最初にルインにそれを求めたのは、絶望の日々に自棄(やけ)になっていた部分と、深い期待のない混ぜになった複雑な感情だった。しかし今、何度かルインが掴んだ左手は、大鷲が舞い、因縁が消えて天使鳥の飛ぶ、深い春の青空の風が優しく当たっている。

「ルイン様、そして、眠り女の皆さん……」

 かつて、絵画聖堂の試練を超えた古い時代の三人の気高い王女たちは、呪いを全て解く事は叶わず、最後は自分を知るものが誰もいない時代に、孤独に耐え切れずに使徒を辞したと伝わっていた。しかし今、不死とされる眠り人に、寿命の怪しいものが多い眠り女たちは、アーシェラを決して孤独にもしないだろう。

 アーシェラは再び、歌を口ずさむ。

「そんな長さの剣があれば、今すぐこの空を切り裂いて、天使プラエトの群れを起こし、私を別の世界に連れて行って。どこか遠くの、誰も知らない世界へ……」

 アーシェラは眠り女となった自分が本当に、誰も知らない世界に連れ出されたように感じていた。

 こうして、バルドスタ戦教国せんきょうこくの王女にして、眠り女アーシェラの最大の苦難は解決した。長く暗い呪いから解放された大国は、再びその武威と誇りを取り戻し、その王女と眠り人の関係は、ウロンダリアに訪れる大きな危機を度々救っていくことになる。

 そして、この事件をきっかけに、長い平和で徐々に腐敗し、世界に間違った安寧を得ていた者たちは闇の中で大きくうごめき始める事となる。しかし、世界の意思に反するそれらはやがて、眠り人こと、ダークスレイヤーの怒りの炎に触れていく事となるのだった。

 より激しい戦いと共に。

第二章 落日の瞳と眠り人・完!

──そんな長さの剣があれば、今すぐこの空を切り裂いて、天使プラエトの群れを起こし、私を別の世界に連れて行って。どこか遠くの、誰も知らない世界へ……

──作者不明。バルドスタの民間の恋歌より。

first draft:2020.08.18

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