バルコダの首なし騎士と、ある勇壮な無名の女について・後編

バルコダの首なし騎士と、ある勇壮な無名の女について・後編

 昼過ぎに集落に戻った旅巫女たびみこは、人々が旅巫女の帰還や無事に驚いている事にはあまり取り合わず、吸血鬼の領主の通り道に並木道がないか、また弓を貸してくれる者がいないかとたずねた。

 既に旅巫女のこれまでの行動に感謝していた集落の人々は喜んで協力し、旅巫女は古いがしっかりした熊狩り用のクロスボウと矢をもらい、これを手入れしながらあわただしく干し肉や木の実など旅の食料を口に運んだ。人々がその急ぎようの理由を尋ねると、旅巫女は吸血鬼の領主がいずれ不死の化け物になる見込みが強く、時間がないであろうことを告げるともくもくと弩の手入れを続け、さらに日の沈む前にと、集落からそう遠くない街道の並木道へと出かけた。

 人目がない場所まで来た旅巫女は、再びかおり高い酒を口にして次は古い神々の労働歌ろうどうかを唄った。機織はたおりの女神たちの機織り歌、糸紬いとつむぎの歌、農耕の神々のたがやし歌、植樹の歌、その中でも特に、養蚕ようさんにまつわる歌を唄い、次に翡翠蚕ひすいさんの歌を唄う。

──そなたの肌は肌理きめなき光。翡翠ひすいの布のその下を、我が剣の刃に見出して……。(※意訳:あなたの肌は滑らかに美しすぎて、肌理と言うよりは光そのもの。服の下のその美しい肌を、戦場にあっても私は剣の刃からも見出して焦がれてしまうのだ……)

 いつしか気分が良くなっていた旅巫女は、戦神いくさがみが戦場から妻である女神おんながみてたねやの歌を唄っており、情熱的なその続きを唄うのを慌ててやめると、再び翡翠蚕の歌を唄った。

──はるけき、はるけき岩と大樹の世よ。この世は若枝も葉も花も全て真なる宝石ぞ。しかしちぬ実がなれば世は終わろう。かいこよ花まで食い尽くせ。朽ちぬ翡翠ひすいで永久の世を! 決して実のなる事の無きように。

──寄れよ寄れよ翡翠のかいこ。ここに食べても良いお前の枝があるぞ!

 旅巫女は遠い遠い『岩と大樹の時代』の深いいましめの歌を唄い、続いて、バニプと呼ばれる山羊のような姿で収集にたけた古い種族の誘い歌を唄った。そうしているうちに街道は大きな並木道に変わる。運のよい事に、この並木道に生えているのは幹の太い木ばかりで、旅巫女は中ほどの木の幹に翡翠の枝をした。翡翠の枝は根のようなものを伸ばして幹にしっかりとくいこんで抜けなくなり、淡い光を放つ。

 旅巫女は周囲や空を見渡すと翡翠の枝をそっと撫でては今後の首尾を願い、日の暮れる前に集落に戻ることにした。

──翡翠蚕ひすいかいこは『岩と大樹たいじゅの時代』という遠い昔の岩と木が明確には分かたれていない時代に起源をもつ。この時代にはむしもまたそのどちらも食し、翡翠蚕はその頃の蟲たちの末裔であるとされている。その美しい翡翠の糸は女神の肌を隠す衣服に用いられる。

──著者不明の古書『セルセリの娘たち』より。

 この夜の浅いうちは穏やかなものだった。しかし、次第に夜が更けるにつれて遠巻きに集落を囲む山々とその間を渡る夜風が、他の村落で起きている恐ろしい事を伝えてきた。人ならざる膂力りょりょくを持つ吸血鬼はその声もまた大きく、あるいは夜の闇に声が乗る力もあるのか、魔物の遠吠えのような叫びは隠れている人々をも震え上がらせた。

──血を! 血が足りぬ! 異なる血の渇望かつぼうが余の心さえ食らい、我らも知らぬ闇に呑み込まんとしている!

──すまぬ! すまぬ! 誰か余をまだ貴族のまま殺してくれ!

 人々は恐怖も凄まじかったが、吸血鬼の領主の人ならざる世界の未知の絶望と闇を何とはなしに感じ、その深淵しんえんに触れたおそれのほうがさらに強かった。集落の頑丈な集荷小屋しゅうかごやに子供たちや女たちと共に身を隠していた旅巫女たびみこは、屋根の風抜き口から聞こえてくる尋常じんじょうならざる叫びに耳を傾けていた。

 旅巫女は手を何度か握っては開いて息を整えると、小屋にぶら下げてあった古い馬のくらを取り、集落に馬か何かがいないかたずねると、若いが少し気難しい驢馬ろばがいる事とその場所を聞いては、再会を約束して矢のように飛び出していった。ほどなくして、恐怖と心配で押しつぶされそうだった小屋の女子供の耳に旅巫女がのびやかで面白おかしい歌を唄う声が届く。騎馬民族ともされるエンデールの民に伝わる乗馬の習い歌で、これには初めて馬に乗る子供の恐怖を和らげ、また馬の緊張をほぐす独特な呼びかけが歌に含まれていた。しかし歌がしばしば、旅巫女がそれでも言う事を聞かない驢馬ろばを何とかぎょさんとする慌てた言葉で中断され、また驢馬のひづめの音もどこか旅巫女への反発心漂うもので小屋の女子供たちに束の間緩い空気が漂う。

 それでも旅巫女の歌と驢馬のひづめの音は次第に整い始め、やがてなかなかに勇ましい速駆はやがけの音と共に遠ざかり、人々は旅巫女の無事を祈った。

 驢馬と息の合い始めた旅巫女は街道から集落と分岐する道に至ると、一度足を止めて酒を振りまき、墓場のすすきはらうようにふるいながら悪しき者の道を切る歌を唄う。それが終わると翡翠ひすいの枝をした並木道へと速駆けし、やがて夕方とは違う、若草色のぼんやりとした明かりをみとめた。

 はたして、翡翠の若枝は半分ほどがなくなり、既に柔らかな翡翠色の光を放つ美しいまゆが出来ている。旅巫女はその美しさにため息を漏らしつつも、慎重に近寄ってはそれを眺め、やがて意を決して墓場のすすきの鋭い葉のふちで翡翠色の繭の表面をなぞった。かすかな手ごたえと共に目が痛くなるほどに細い糸が薄の葉に引っかかり、これを少しだけ巻き取っては慎重に道の反対側に伸ばしていく。見た目の細さのわりに鋼のように強く美しいこの糸は、なるほど確かに女神たちの肌を包むのにふさわしいものだと旅巫女は感心していた。

 小声で糸紬いとつむぎの歌を唄いつつ、少しずつこの鋼のように頑丈な細糸を引き出し続けて、遂に反対側の木の幹に何度かしっかりと巻き付けると、次は背負い袋の二重底に大事に隠していた銀色のかけらを取り出した。半透明でうっすらと銀色に輝く滑らかな平たい石のようなそれは、モグラのように地下を移動する地のダギうろこのかけらであり、旅巫女はこれをしっかり握って胸元に添えると、おのれの心の人の部分を天地に一度開放して形を無くし、ダギと人のまじりあった姿の自分を想像しては、やがてとても深く息を吸って竜の言葉で彼方の吸血鬼の当主に呼びかけた。

──A rn o zara! 我はここに在り! Na rn va sa Dawu dagi Soz! 来るが良い、血に囚われし者よ! 

 人ならざる竜の言葉は雷の様に空気を震わせ、大きくこだました。旅巫女の眼は一瞬、ひとみが縦に割れて燃えるような銀色に輝いたが、再び心を組みなおして人の心に戻ると、その眼もまた人のものに戻り、かなりの脱力を感じて旅巫女は崩れ落ちた。しかし杖を支えに何とか立ち上がると、荷物から覚醒作用かくせいさようのある木の葉を取り出して急いでみ、全身に底力を行き渡らせて次の準備に取り掛かった。

 旅巫女は張られた翡翠蚕の糸が吸血鬼の領主の首をねるに良いと思われる位置を決め、近くに大きな焚火を燃やす。疲れた体を押して薪を集めて放り込んでは火と煙がだいぶ大きくなった頃、次はナイフを取り出して旅用のドレスの肩のあたりを切り、肩や首筋が良く見えるなまめかしい姿となった。次に、熊狩り用の頑丈なクロスボウの重いハンドルを回して矢をつがえられるようにし、モーンの助言に従って墓場のすすきの茎を切っては加工してこれを矢としてつがえる。

 これらの作業が終わるころ、旅巫女は夜の闇が深くなり、異様に静かになった事に気付いた。空を見上げても星が良く見えず、気難しい驢馬ろばも耳を盛んに動かして何かを感じ取っている。

 しんとしたバルコダの夜は突如、彼方からの恐ろしい叫びによって破られた。

──希望か絶望か美味な血か! やがて余は余でさえなくなる。余を呼びし者よ! そなたの末路は凄惨せいさんであるぞ!

 声のする方に目を凝らした旅巫女は街道の遥か彼方に、青白い何かを中心として移動する闇を見た。やがてそれは、本来なら黄金の輝きを持つであろう魚のうろこのようなよろいと、それを着た夜の馬を駆る吸血鬼の領主であることに気付く。旅巫女の額から冷たい汗が流れ落ちたが、旅巫女は強い酒を取り出して一口呑むと強気に微笑みを浮かべた。

──お前は罠をかける狩人だ。獲物を恐れすぎる事は無い。

 旅巫女はモーンの言葉を思い出して熊狩り用のクロスボウを構える。今や吸血鬼の領主の燃えるような赤い目がはっきりと見え、その胸に刺さったいばらの剣の妖しい血の輝きも眩しいほどだった。

──女か! 余の束の間のかわきをいやいやだけだぞ! もはや逃げても余はそなたをすすむさぼるであろう!

 吸血鬼の当主は見事な装飾そうしょくの斧と剣を抜いて構えた。旅巫女は冷静に息を止めて熊狩りのクロスボウで当主の胸の剣を狙う。領主の口が耳まで割けて開いてはのこぎりのような歯が見え、斧を投げつけては剣を振りかぶった。旅巫女は薄の矢を放って飛びのいたが、足に斧がかすった感触があった。

──美味そうな血の匂いよ!

 吸血鬼の領主の叫びはしかし、焚火たきびが散らばる音と激しい転倒の音、そして馬のいななきに変わり、やがて静寂が訪れた。

 旅巫女はそっと振り返りつつ起きる。左足のすねから血が出ているが骨を外れており深手ではなく、飛び散った焚火の向こうには闇をまとった夜の馬が悲し気に首を垂れている。そこに吸血鬼の当主の胴体と、やや離れた位置にその首が落ちていた。よろよろと立ち上がって首に近づくと、傍に暗く透けた霊体のような吸血鬼の領主が立ち上がった。礼服を着たその姿で吸血鬼の領主は深々と一礼をし、旅巫女の心に直接響く声で感謝を述べる。

──もはやこれしかあるまい。余の魂はこれで旅立てようが、余の情念はそうはいかぬ。首を失っても地に縛られ残るゆえ、抜けぬ血のいばらの剣もそのままに、どこかに胴塚どうづかを築いて埋めればよい。それでも年に一度は彷徨うであろうから、その夜は外に出ぬことだ。これを民に伝えてやってほしい。

 吸血鬼の当主は旅巫女に再び礼を述べては幾つかの品々や権利を謝礼として渡す事と、吸血鬼の城への入り方、そして城のある場所に今後の手続きや民への賠償ばいしょうの手順などが全て書き記されている事を伝えると、最後に倒れた胴体を見てため息をついた。

──哀れな最期と思ったが、そなたのような女の手にかかって旅立つのは悪くない。ただ、我が胸に刺さった血のいばらの剣、あれは容易には抜けぬが、それでも誰の手も届かぬ場所に埋めて欲しい。そなたにもし抜けたら使っても良いが、呪われた武器が栄光をもたらすことなどないのだ。

 旅巫女はこの言葉に、血の荊の剣はモーンの元に持っていく事を話した。

──やはりあれは地上にあってはならぬ武器か。

 吸血鬼の当主はその言葉を最後に沈黙し、やがて日が昇るとその首と霊体、そして夜の馬は消えてしまった。

 旅巫女は首のない吸血鬼の当主のいくつかの荷物や装備を外し、次いで血の荊の大剣の刺さった傷をよく見た。墓場のすすきの茎が大剣に沿うように刺さっており、旅巫女は鍋掴なべつかみ用のミトンを取り出しては酒で清め、不穏な武器に触れる時の鍛冶神の言葉を唱えつつ剣の柄を握り、引き抜こうとする。意外な事に血の荊の大剣はするりと抜け、旅巫女はその重さに尻もちをついた。次にこの剣を予備の服で包んでしっかりと縛り背負う。当主の身体は手を組み合わせて整え野営用の防水布をかぶせると、周囲に簡素な木の枝を立てて結界を張り、翡翠蚕の糸は翡翠の枝に巻き、容易く動くようになった枝は繭が付いたまま抜き取っては集落に戻ることにした。大事をやり遂げた今、大変な空腹と倦怠けんたいに疲労の極みでひと眠りしたかったが、それでも集落の人々を安心させたかったことと、まともな食事への欲求が混ざり合った強い何かが旅巫女を動かしていた。

 集落に戻った旅巫女は、災いが去った事と吸血鬼の当主を適切に葬る必要がある事を伝え、またこの地方がもう夜に怯える必要がなくなった事をなるべく早く広めてほしい事を伝えると、その後は代金を支払って食事を求め空腹を癒し、集荷所の一角で深い眠りに落ちた。

 集落の人々は半信半疑だったが、やがて街道に向かっては首のない恐ろしい遺体を確認した者たちが戻ってきて人々は大いに安堵し、また喜び、それはバルコダ地方に昼夜構わず広がり始めた。

──サドニのバルコダ地方で起きた我らの眷属けんぞくに降りかかった事件については、それが名高い『モレストの獣の乱』なのか『ヴァルキルド王の選別』なのか、または別の事件なのかはよく分かっていない。そして人間たちには良く誤解されるが、『深紅の紛争』はだいぶ後の時代だ。 

──クロエ・クルエル著『我らの深紅の歴史』より。

 深い眠りに落ちていた旅巫女たびみこは薄暗い中で目を覚ました。やや離れた場所に小さなテーブルとランプが置いてあり、わずかな明かりが丸太を椅子にした中年の女を照らしている。中年の女は旅巫女の目覚めに気付くとにっこりと微笑み、集落の長老に旅巫女の荷物や安全を見張り、何か要件があったら聞くように言われたのだと語った。

 旅巫女はこの問題の解決が『斧割りの滝』のモーンの神託しんたくによるところが大きく、礼を返すためにすぐにでも発ちたいむねを伝えた。集落の人々はこの大恩人に報いるべく、昨夜の気難しい驢馬ろばを貸す事と何人かの護衛を申し出たが、旅巫女は山賊や悪漢の類はいないだろうとして護衛は断り、あわただしく驢馬と共に集落を出ていった。

 上り始めた今夜の月は二つで夜道は明るく、このバルコダ地方の明るい未来を予感させる気がして旅巫女は微笑んだが、すぐに夕食を摂り忘れた事に思い至り、またしばらく空腹になる事にため息をついた。旅巫女は次の食事が早くとも明日の朝の川魚であろう事を思いつつ、荷物から木の実や乾物かんぶつ、チーズなどわずかな量を取り出しては口にして驢馬と進む。

 しばらくして集落からだいぶ離れた頃、旅巫女は驢馬に乗せた荷物から黒い紐のついた平たい鈴を取り出し、これを振った。二つの月に照らされた街道に闇が渦巻き、吸血鬼の当主が乗っていた見事な夜の馬が現れ、旅巫女を主とするようにいなないては首を垂れる。

 旅巫女は驢馬のくらに自分の馬札うまふだをしっかりと結び、自分たちの後をゆっくりと追い続けるようにささやくと、荷物を夜の馬に移して疾風のように駆けだした。谷を渡る夜風のような速さで夜の馬は駆け続け、旅巫女は容易く『斧割の滝』にたどり着く。

──やり遂げたようだな。

 二つの冴え冴えとした月が照らす明かりの下、既に妖艶ようえんな魔女姿のモーンがおのれの神像の前に優雅に座しており、その黄金の眼が光っている。周囲には牛のように大きい三頭の猟犬もそれぞれがくつろいでおり、旅巫女は座しては深く礼拝して感謝の言葉と心を伝えた。

──気にするな。この地の民草たみぐさたちはもはや自力ではどうすることもできなくなっていたが、お前が来てよかった。そして残るは後始末と今後の話しのみ。旅巫女よ、お前の働きは私と幾つかの取引が出来る程のものだぞ。

 モーンはまず、吸血鬼の当主を苦しめた血のいばらの剣を求めた。旅巫女が背中から重い包みを外すと、従者じゅうしゃの猟犬がその包みをくわえてモーンの元に寄り、差し出す。魔女姿のモーンは慣れた手つきで包みを解き、木の枝のように軽々とこの見事な大剣を抜きはらってながめた。

──これはつ世界の血の神オダの娘、血の神マリスの手による特別な血の術式じゅつしきの宿る剣だな。しかし、血に宿る情念じょうねんを知らずに濃縮してしまう吸血鬼どもの血が、この剣にいやされぬかわきを与えてしまった。つまり過剰に呪わしい状態になっておる。よって……。

 あろう事か、モーンは無造作にこの大剣を放り投げ、それは隣の女神マリーシア側の滝つぼに沈んでいった。

──あの忌々いまいましい女はおらぬゆえ、あの女の聖域の力で剣を少し清める。不在の間にあの女も少しは仕事をした事になるのだ。文句を言われる筋合いはない。

 旅巫女はモーンがマリーシアに対して迷いなく嫌がらせをしている事に吹き出しかけたが、それは不敬ふけいに過ぎるので何とかこらえた。続いて、モーンは旅巫女に翡翠ひすいの枝と翡翠蚕ひすいさんまゆの所在を聞き、また旅巫女が求める物を尋ねた。旅巫女は自分の旅には良い武器が必要である事、翡翠の枝や翡翠蚕の繭については換金以外特に思い当たらない事を述べる。しばし美しい顔で思案したモーンは、楽し気な笑みを浮かべて幾つかの考えを示した。

 翡翠の枝と翡翠蚕の繭は、小さな若芽わかめを折って馬や驢馬に食べさせれば病を寄せ付けなくなること。旅巫女が途中まで乗ってきた驢馬には良い運があり、民草に謝礼を聞かれたらあの驢馬を所望し、手に入れたら驢馬には翡翠の若芽を食べさせると良い事、旅巫女が引き出した翡翠蚕の糸は、望むなら血の荊の大剣と吸血鬼の当主の見事な斧と剣に巻いて祝福を与える事が出来る事、残った枝と繭をモーンに献上するなら、さらに熊狩り用のクロスボウに特別な加護を与えるという話になった。

 旅巫女はこの話が最も良いのだろうと考えてモーンの提案に従い、翡翠の若枝と翡翠蚕の繭、吸血鬼の当主の見事な剣と斧、そして熊狩り用の弩をモーンの猟犬に差し出す。それらをしげしげと眺めたモーンは、剣と斧を再び無造作にマリーシア側の滝つぼへと放り込んでしまった。

──笑っても良いのだぞ?

 今度は旅巫女も表情を抑える事が出来なかった。

──さて、お前はあと一仕事するようだが、明日の朝にはここに品物を置いておこう。私の加護を受けた品を持てば、お前は今後しばしば名工と出会う運命となる。その出会いは大切にする事だ。それから、気の良い事だが死者と幽世かくりよちぎるのは二度までにしておけ。それ以上はお前の魂が幽世に引き寄せられやすくなるからな。

 魔女姿のモーンは旅巫女をめ、楽しめた事を伝えると猟犬たちと共に姿を消してしまった。

──旅巫女よ、言い忘れていたが復讐ふくしゅうはほどほどにな。狩りの範囲にとどめるのだ。

 旅巫女はモーンの最後の言葉にひどく驚いた。モーンは自分の秘めた心の何もかもを見抜いていたのだと気付き、また重大な示唆の含まれたその優しい言葉に涙が流れ落ちた。しばらく深い感謝の心で礼拝をし、やがて約束通り古代の豪族ごうぞく墳墓ふんぼへと向かった。

──血の神オダはつ世界の神とされるが、ウロンダリアに干渉することはほぼ無いとされている。しかし、ある時美しく才気あふれる吸血鬼の王女に神示しんじを与えて感精かんせいさせ、血の神マリスを生ませてウロンダリアに遣わしたとされている。

──クロエ・クルエル著『我らの深紅の歴史』より。

 灰色の薄明の世界で、若い痩身のそうしん貴族の男は何度も旅巫女に礼を言い、そしてこれ以上は自分に逢う必要がない事を伝えると、これからの旅で旅巫女が不運に見舞われる事の無いようにという祈りの言葉を伝え、暖かな光の中へと消えていった。

 再び、がばりと起きた旅巫女は石室せきしつの中が暖かく乾いた夏の気配に満ちている事と、自分の身体に暗く透けた生地のマントがかけられている事に気付いた。旅巫女は隣のひつぎに礼を言い、安らかなる眠りが続くように祈ると、マントについていたフードを被って石室を、そして墳墓を後にする。

 再び『斧割おのわりの滝』にたどり着いた旅巫女は、大岩の祭壇に何か輝くものを見つけた。小さな翡翠ひすいの若芽と、輝くほど綺麗に磨き直されて神聖な文字の刻まれた熊狩り用のクロスボウだった。

──射手はとくと念じて撃てよかし。一夜に一度だけ、何者もこの矢から逃れる事敵わず。

 旅巫女は感心してこの弩を手にし、以前より軽く滑らかになったその手ごたえに驚いては、再びモーンに深い感謝の祈りを捧げる。その祈りを終えて顔を上げた旅巫女は、マリーシア側の滝つぼから、あのいばらまとった美しい大剣と、吸血鬼の当主が手にしていた見事な金象嵌きんぞうがんの剣と斧が浮かび上がってきたのを目にした。

 あり得ない奇跡に大岩の祭壇を駆け下りて水際に行くと、それらは旅巫女の元に漂って来て岸に打ち上げられた。それぞれを拾い上げ、浮かび漂っていた様子と異なるその重さに驚き、目を凝らしてそれらを眺めては、存在するかしないかの細い翡翠の糸が巻き付いている事を確かめ、それぞれをしまう。そんな旅巫女の背後に聞きなれた驢馬の足音がかすかに聞こえ、旅巫女は道の彼方を見ては微笑んで立ち上がった。

 こうして、バルコダ地方の吸血鬼の統治の時代と恐ろしい夜は終わり、次第に元気を取り戻していく人々の様子を見ながら、旅巫女は吸血鬼の当主の胴体の埋葬まいそうや吸血鬼の城におもむいては後始末や今後の統治の引継ぎの手伝いなど数日忙しく動き回り、一通り終わったところで静かに別れを告げてバルコダ地方を、あるいはサドニを出るべく旅立った。

 食べさせた翡翠の若芽が相当に美味だったのか、今はすっかり意気投合した驢馬と旅巫女は夜にはバルコダ地方の境となる高い峠を上り詰め、尖った丸太の柵で囲まれた野営地に至っていた。振り返っては山々の間にわずかに広がる家々の明かりに、旅巫女は微笑んでため息をつく。

 やがて、驢馬を繋いで食事その他を終えた旅巫女は、辺りに誰もいない事を確かめると、吸血鬼の城から持ってきた女ものの見事な鎧と、死した豪族から贈られた夜のように透けるマントを身に着け、吸血鬼の当主の見事な金象嵌の剣と斧を腰におび、さらに血の荊の大剣と熊狩りの弩を背中に背負っては夜の馬を呼び出してこれにまたがり、それぞれの武器を眺めた。その様子は威風堂々としており威厳さえ漂っていたが、当の旅巫女の思いは別のところにあった。

──復讐はほどほどにな。狩りの範囲にとどめるのだ。

 モーンの言葉を思い出し、旅巫女は深く息を吐いていつもの姿に戻ると、驢馬をでて眠りにつき、翌朝にはやがていずこかへと旅立った。この後、バルコダ地方の人々はこの旅巫女の名前を聞かなかったことをしばらく悔やんでいたが、やがて復興の日々の中でそれも忘れ去られ、年に一度だけは彷徨う首なし騎士の恐怖の一夜とともに、ただ旅巫女の行いだけが語り継がれるようになった。

 のちの時代、この旅巫女がほぼ同時代の何人かの有名な赤髪の女たち、例えば西方新王国で国を興した女王、赤髪のクライラその人であるとか、或いは眠りについたナルスラヤの世界樹のふもとで求めに応じ続けたカイネの赤髪の遊女であるとか、または古きリドキアにてただれの女神ムルマに仕えた隻腕隻脚せきわんせっきゃくの赤髪の聖女セシャダであるとも、或いは各地に名を遺した名もなき赤髪の女狩人だとの説もあるが、全て確証はない。旅巫女のその後もまた実のところは誰も知らないままであり、そしてもう知りようもない。しかし人々は今でも時々、旅巫女の運命までもが夜の馬と共に闇の彼方に吞まれぬものであったことを願い偲ぶ。これは、そのような古い言い伝えの物語だ。

──山羊のような姿をしたバニプ族は多くの場合、人には理解しがたい収集癖と膨大な知識を持っている。彼らは土から生き物の肉体を創ったとされる女神、赤き女王ニサが知的好奇心から創り出したという種族で、彼らは人間や古き民の事は『哀れなラナブナラク(言葉を操る愚か者)』と見下しているが、悪くない友人でもある。

──インガルト・ワイトガル著『ウロンダリアの種族』より。

first draft:2024.08.28

コメント

  1. ひらやすみ より:

    お見事でした。なんて贅沢な味わいでしょう。各所に散りばめられた作中文献の引用もまた一興。この短編の中にファンタジーの必須要素+αが全て盛り込まれているようです。ああ、下手なコメントが安っぽく見える、この辺で留めておきましょう。