北のアンスリノラと、物知りカルラ(第五章予告編)

北のアンスリノラと、物知りカルラ(第五章予告編)

 ウロンダリア北方、『氷の巨人の国』ハインランドに囲まれた、古い飛び地の城塞都市じょうさいとしアンスリノラ。

 『天空に届く氷』とうたわれる氷に閉ざされた高い山脈の中にあって、このアンスリノラの飛び地は唯一の緑ある盆地ぼんちだった。古い火山の火口が点在し、炎の力を強く宿す赤いダギドラゴンたちの多く住まうこの地は常に暖かな風が吹き、それが氷を溶かして緑をはぐくんでいる。氷河ひょうがと清水の流れる川が同時に存在する奇跡的な条件のこの地には、ある理由で九百年ほど前から移住してきた人々の子孫が今もなお細々と暮らしていた。

 今、黒光りする大きな丸太をくヘラジカの背に乗った男と、その男の小さな娘という親子連れが、傾きかけた陽を背にアンスリノラの跳ね橋に戻ってきたところだった。

きこりのヨッドと娘のアリンだ。材木の伐り出しが終わり、戻ってきた。開門願おう!」

 黒雪熊くろゆきぐまの毛皮の服に身を包んだ若い男は、誰もいない城壁に声をかけた。と、胸壁きょうへきの間から白い大犬が顔を出し、どこかに走り去る。男の後ろの少女アリンはその様子を目を輝かせて見ていた。ほどなくして、重々しい音と共にばしが下がり、きこりの親子とヘラジカは、見事な黒鉄木こくてつぼくの丸太を曳きつつ城壁の内部に入る。少女が振り返って城壁の上を注意深く見ていると、先ほどの白い犬が胸壁の間からじっとこちらを見ており、二人が十分に離れたあたりで、再び跳ね橋が巻き上げられた。

「お父さん、白い犬がいた!」

「コル様だ。カルラ様に仕えている聖なる白い犬様だ。お前がいるから少しだけ姿を見せてくれたのだろう。この後、門番のダギたちも戻るだろうが、カルラ様の姿が見えても、あまり見ようとしては駄目だぞ?」

「うん!」

 アリンは城壁に沈みゆく赤い夕陽が、その最後のかけらまで消えるのを見届けていた。と、暗くなりかけた空に大きな翼を持つ影がふたつ現れた。アンスリノラの城門を古来から守っている、二頭の赤いダギドラゴンのつがい、夫のグルースラーク火口のほとり(※竜言語ダギ・テラ)と妻のミルシルナセ銀の糸のせせらぎ(※竜言語ダギ・テラ)だった。

「お父さん、とても大きいダギ!」

「あまり注目しないでひそやかに見るのだ」

「うん!」

 二頭のダギドラゴンは城門の左右にふわりと降り、その翼を畳む。そして長い城壁の終点、古代にアンスリノラを守護していたとされるエンデールの王族の城を注視していたが、やがてそこから、黒服に遠目でもそれとわかる長い白銀の髪をした女が出てきた。女は城門右手に座すミルシルナセの前に立つと、聞いたことのない力強い言葉が風に乗って遠い雷のように聞こえ、ミルシルナセもまた似たような言葉で女と話しているのが分かった。少女にとって、その言葉は激流で激しく心を洗われるような不思議な清浄さと力強さがあった。

「お父さん、この言葉は?」

ダギドラゴンたちの言葉、竜言語ダギ・テラだ。聞いていると心が自然に磨かれて元気が出るぞ? カルラ様は竜言語が話せ、ダギたちと心を通わせることができるとされているのだ。いつも夕方に聞こえる歌は、明日の天気や危険、獲物の位置についてのものだが、それはダギたちがカルラ様に伝えているとされているのだ」

「いつもの綺麗な歌はカルラ様が歌っているの?」

「ああ、カルラ様はリュースの名人だし、我々に色々な事を教えてくれるからな」

 アンスリノラの地は夕方になると、リュースという手と弓で弾く複雑な弦楽器に乗せられた歌が必ず流れてくる。昔からこの地を護っていると伝わる、眠りの巫女みこ末裔まつえい、物知りカルラが時間と明日の天候、気を付けるべき情報や有益な情報、あるいはたまに外の世界の物語などを人々に謡い聞かせ、それは彼らに恵みと教養をもたらしていた。

「我々で最後だし、もう日が暮れる。そろそろダギが吠えるぞ」

 ヨッドの言葉の終わらぬうちに、二頭の赤いダギが控えめに吠える。これは閉門を意味しており、翌日の夜明けまではもう城門が開かれることはまずない。間もなく、いつも夕方に聞こえる歌が玄妙げんみょうで美しいリュースの音に乗って聞こえてきた。

──明日の空は晴れの物語。風穏やかで、機嫌良き空はやや心を曇らせても、せいぜい昼に氷雨が落ちるくらいでしょう。トナカイの群れはラトリナ川を渡り、白ヒナギクの原で草をむでしょう。大隧道だいずいどうの者たちは奥深くにあって現れず、ハインランドの巨人の門は氷雪ひょうせつかすみに閉ざされたまま……。

 意志の強そうな、しかしとても美しい声を近くで聞いたアリンは、優しさと心強さを感じる歌声に深い魅力を感じて心が満ちてくるのを感じていた。自分たちの毎日が見守られている強い安心が湧き上がってくる。

「そういえば、そろそろ肉が足りない。明日はトナカイを狩るか!」

「お父さん、だいずいどうって何?」

「我々の祖先がかつてカルラ様と共に通ってきた大きな洞窟だ。今は魔物の巣になっていて近寄れない。決して近づいてはいけない場所なのだ」

「どうして魔物が?」

「話せば長いがな、昔、カルラ様の城には、エンデールという国の気高い王族がカルラ様を護るために住んでいたと伝わっている。しかし、時代が過ぎてある時、王族の一人がカルラ様を気に入ってしまったそうだ。詳しい事は分からないが、それが原因で色々とまずい事が起き、カルラ様がこの地を離れられないようにされてしまっているとの事だ。大隧道だいずいどうの件もそのせいだと言われている」

「カルラ様、悲しいかな?」

「わからない。カルラ様とその話をした事のある者はほとんどいないからな。でも昔、死んだ爺様じいさまがまだ子供の頃、ひどい熱を出した時には、夜にカルラ様が来て看病してくださって、一晩で熱が下がったと聞いたよ。とても優しい人だったと言っていた」

「熱? めずらしいね」

 空気の清浄なアンスリノラでは、軽い風邪を除いては熱を出すような病気は非常に珍しく、皆病気知らずで生涯を過ごす人が多かった。

「爺様は間違って毒キノコを食べたらしい。カルラ様は毒を取り除いてくださったのだろう」

「カルラ様、ずっといてくれたらいいね!」

「そうだな」

 ヨッドとアリンの親子は遠くに見え始めた自宅の灯火をみとめ、暖かな夕食に思いを巡らせて無言になった。

 その遠ざかる親子の後姿を、白い犬コルを伴い、リュースとその弓を手にしたカルラがしばらく無言で眺めていた。新雪のような白銀の髪に、意志が強そうに結ばれた唇と、賢そうな黒曜の瞳。黒いゆったりしたローブドレスは、古代エンデールの様式を色濃く受け継いでいる。

 カルラは独り言ちた。

「あなたたちを長く見守り続けていたいけれど、今のままでは、私の命の時はあと半年ほどで尽きてしまうわ。……いずれ激しい風が吹きます。ウロンダリアは荒れ、時の終わりの大戦が訪れるでしょう。全てが踏みにじられて失われる事のないように、私は恐ろしい方を目覚めさせねばなりません。ただ……」

 カルラはきびすを返し、にらむように城壁の外をながめた。

「かつての王たち『蒼白そうはく』と、彼らに力を与えた『氷河ひょうが魔女まじょ』は、私がここを出ることを全力ではばもうとするでしょう。……うっ!」

 カルラは激しい頭痛を感じて、リュースとその弓を取り落とし、こめかみに手を当てた。多すぎる記憶の物語を受け継いでいるカルラの頭は、その量と年月の重みに耐えられず、きしむ様な頭痛がしばらく前から頻発していた。

──カルラ!

 白い犬、コルの心配の声がカルラに聞こえた。

「大丈夫よ。少し前に大王の銀狼ぎんろうミュールが吠えていたでしょう? 予言は成就じょうじゅしているの。きっと会えるはずよ。間に合わせてみせるわ!」

 雪深い飛び地、北のアンスリノラでは、最後のねむとされる『黒い眠り女』物知りカルラの危険な旅が、もうじき始まろうとしていた。

──かつて、眠り人を起こせる『眠りの巫女』たちの中に、一人だけ黒服をまとうべしとされた『黒い眠り女』がいたとされている。彼女は他の眠り女とは違い、失われた『船の民』の物語を引き継いでいるとされたが、既にその消息はわからない。

──マートム・ナレン著『失われた眠り女』より。

first draft:2020.08.30

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