第二幕 ある戦いの果て
──全ての世界の果てにして終焉とされていた、凍てついた領域、氷獄。
氷でできた月の照らす空を、凍てつく空気の粉をきらきらとまとわせて、尾の長い優美な雪鳥(※1)が人を乗せてゆっくりと旋回している。
冷気纏う雪鳥を乗騎にしているのは、氷のような青白い髪をした冷たい青い眼の女だった。二の腕までの長い手袋と、紺と白のビスチェの胴鎧と長いスカートの戦装束も美しく、その髪には色の無い氷の花の髪飾りが雪のような白い肌と大層似合っていた。
女はため息を吐き、氷のように青く澄んだ細身の剣を抜く。その剣身に、氷でできた月と、女の色の無い唇が映った。唇を見るといつも思い出す男が、今は眼下の冷たい平原に一人で立っている。女の決意は冷たく燃えた。この男を……!
「終焉の氷花よ、咲き乱れて凍てつけ!」
冷たく美しい女の声がした、大きな雪鳥が優雅に飛ぶさまを眺めていた黒衣の男は、その声で目に闘志をより強く燃やす。
「ならば黒煙の具足で!」
男は黒い煙の燻る籠手と具足を呼び出し、全身を永劫回帰獄の黒い炎で覆う。その男の姿が見えなくなるほどに、さあと一陣の冷たい風が吹き、白い氷一面の地上に様々な氷の花が波のように咲き乱れ始めた。しかし、それが黒衣の男の前に来ると、冷気は男に阻まれて巨大な氷塊となり、そして砕けた。
「やめろ。おれと君が戦ったところで、決着などつかない」
「もうここまでしなければ、あなたを冷やせないのです。滅ぼしたくないのでしょう? 何より、苦しいのでしょう? 世界を焼かんとする黒き炎を御し続けるのが。……なら、本気で戦うしかありません。抱きとめるように、愛し合うように。……私にはもう、それしか……」
女の声は涙に詰まっていた。
「わかった。……泣くなよ。助かるだけだ」
恐ろしい怒りで男の眼は燃えていたが、それでもまだ自分に向けた優しさが残っており、女は胸を締め付けられる思いだった。
「助かるなどと! あなたはどこまで……どこまで……!」
女の声は何かを噛み締め、押し殺すようだった。
「終焉の氷鳥よ。廻る世界の冷たい終焉を告げるものよ、来たれ!」
決意したように別の力を発動させる女。激しい吹雪が吹き、無数の氷の鳥の群れが迫りくると、それは猛烈な凍てつく嵐へと変わった。時間さえ凍らせる性質のもので、男の動きが鈍る。しかし、男の右目に黒い炎が燃え、さらに中心に熾火のような赤い光が燃え始めた。男はゆっくりと顔を上げる。
「終焉さえ破壊する。欺瞞に等しき世界の理など!」
女の知っている優しげな声ではなかった。怒りで全てを破壊する時の男の声だった。
「おあああぁ!」
男は獣の咆哮のように叫び、莫大な量の黒い炎の柱が上がる。冷気は薄氷のように砕け散り、無数の氷の鳥の白い羽が散った。
「ああ! もうこれさえも効かない! 終焉の氷さえ、あなたは止めてしまうのね……。何という呪い、何という怒り、何という悲しみ……それが……」
女は振り絞るように続けた。
「あなたが、自分を責め続ける為のものだなんて! でも……!」
女の闘志もまた、愛を伴う激しいものだった。
「終焉の凍てつく風よ! 壊劫(※2)の冷気を!」
女の叫びとともに、全てが極冷で粉と散る恐ろしい風が吹いてきた。白く輝く風が、地面も氷の花も全てきらきらと輝く粉と変えて消えていく。
「無駄だ。おれはそのさらに果てを知っている! 永劫回帰獄!」
男の叫びと共に、終焉の冷たい風は爆発的な黒い炎とぶつかり、しばらくの間せめぎ合っていたが、やがて冷気は巨大な黒い炎をまとう数条の斬撃により霧散した。全てが静かになると、黒い炎を上げる大剣を持って立ち尽くしていた男は女を見上げた。
「ああ、苦労をかける……だが!」
男の全身から、黒い炎が再び爆発的に燃え上がった。
「終わりのない戦いなら、弱者も強者も、汚れた欺瞞の世界ごと、全て滅ぶべし!」
男は恐ろしい笑いをあげる。
「あなたにはその権利さえある。でも……!」
氷の女は空を見上げた。氷でできた月が冴え冴えとした光を放っている。
「あなたを殺せるのは……私は違うのかもしれない。でもあなたと心を通わせたのは嘘ではないはずよ……!」
かつて聴色の髪をした女から聞いた言葉が、氷の女の胸を締め付けていた。
──あの人を、ダークスレイヤーを殺せるのは、あの人が心から愛した女のみ。でも、そんな人は二度と現れないわ。
女は小さな口紅入れを出し、左の小指で色の無い唇に赤い紅をひいた。女にとってこれは『葬送』の意味合いがあった。女は二つの言葉を思い出す。
──お前は賢いが冷たすぎて苦手だ。その色の無い唇も。
──おれはその唇は綺麗だと思うがな。奴とは趣味が合いそうにない。
何度も殺し合った末に、色の無い唇を綺麗と言った男。もう、その男の膨大な怒りと呪いを冷ましてやる事は出来そうになかった。後戻りのきかない最強の技を除いては。
「この氷獄を照らす、最後の凍てついた月、私の美と冷気の象徴、終焉の凍る月で報いるわ! そして希望も捨てないわ。私の全てをかけてあなたを眠らせてみせる! ブライ! ニクル!」
女は二体の従者の名を呼んだ。自分の領域、氷獄の中では神霊に等しい二柱の大きな白鳥と黒鳥は、白と黒の美しい冷気の二重螺旋を描き、氷でできた月へと飛んでゆく。やがて、二羽の姿が完全に消えると、氷獄の全てが震えはじめ、月がゆっくりと落下し始めた。
「本当に面倒をかけるな……!」
しかし男の顔から微笑みが消え、続いて獣のような叫びをあげ、またも爆発的な黒炎に包まれた。
「全てを破壊する斧、ラヴレスよ!」
男の右手に、『全ての権威を破壊する斧』魔戦斧ラヴレスが顕現した。
「内より溢れ出でる黒炎を、憤怒によって鎧う」
さらに、永劫の黒い地獄で鍛えられた、怒りそのものを鍛造した黒い鎧とマントが顕現する。
「アクリシオスよ!」
黒い炎が黒馬と化して現れ、男は飛び乗ると落ちてくる月に向かった。黒い炎がやがて人馬を全て包み、眼に激しい赤い憤怒の炎の燃える黒い炎の巨鳥と化すと、氷の月に突っ込んでゆく。斧と魔剣の斬撃が、天を二度割るように黒炎の軌跡を描き、氷の月は切り削られ始めた。
「全てを破壊する!」
狂気と正気に境界の無くなった男は、その暴力性と正確さを併せ持って月を砕いて進む。氷獄の管理者であり、『終焉世界の冷気』を司っているあの女の有り余る冷気を固めたものである月は、何者にも突破しえない極冷の天体めいた塊だった。しかし男の激しい怒りの炎はそれさえも寄せ付けなかった。
「ああ、なんという怒りを……!」
女は涙ながらに気高い雪鳥と化し、剣をくわえて空に飛び立った。
やがて、月は大きなかけら二つに割れ、男は月の向こうの空に飛びだした。
「ああ、おれは……もう、駄目なのだな……」
男の見上げる空に星は瞬いていない。黒い炎が世界の終焉後の冷気さえ凌いだこと。それは、男の呪われて怒りに満ちた生が永遠に続く事を意味していた。
「まだよ!」
氷の澄んだ碧色をした剣をくわえた青い目の雪鳥が、気高くも涙を湛えて舞い飛んできた。
「泣くのか、あんなに冷たい心を持っている君が……」
男がその意味に気付いて絶望をつぶやいた。きらきらと冷気を纏う雪鳥は戦装束の女に姿を変えると、男の右目にその氷の剣を突き刺した。何かが溢れるように黒い炎が噴き出したが、女は自分の身を冷気で包み、守る。
「ああ、面倒を……かけるな」
氷の剣を掴みつつも、男は女に笑いかけた。女は涙の落ちる眼をそらす。そして、二人はそのまま月の冷たい瓦礫の上に落ちていった。
しばらくして、氷の女の膝に頭を乗せられていた男は目を覚ました。とても小さくなった冷たい月が逆光に女を照らしており、その眼は溢れそうな涙で輝いている。
「ああ、やっぱり死なないか」
諦めたように男は笑う。
「残念ながら」
女の眼には、わずかな笑みがあった。
「もう壊れてるだろう? おれは」
「まだそこまでは。でも、今のままでは誰もあなたを殺せない。あなたは正気と狂気を抱えたまま彷徨って、いずれ無限世界を破壊するでしょうね」
「仕方ない。人の心に愛などないのだから」
「これほど私に面倒をかけて、それを言うのね?」
「紅」
「え?」
「ないほうがいい」
男は女の口紅の事を言っていた。
「今は葬送の途中よ?」
「そうか。なら、眠れるかもしれないな」
男が疲れた、しかし穏やかな笑みを浮かべた。
「嘘でしょう?」
「なぜだろうな?少し、気が休まる」
「そう、疲れたのね。ならしばらく眠るといいわ……」
「ああ、出来るなら、助かるな……」
信じられない事に、男は眠りに落ちた。男の目じりに女の冷たい涙が落ちる。女は泣きながら男を凍らせた。
「こんなに悲しいのに、あなたが私の膝で眠っているのが嬉しい。私も大概、駄目な女ね……」
女は微笑んで月の小さくなった空を見上げ、再び男に目を向けた。
「いつか、希望の見出せる時まで。そして……」
女の頭上に氷でできた月が再び膨らみはじめ、男と女の周囲は地の果てまでが色の無い氷の花々に覆いつくされた。
「私の心には愛はないわ。あなたの心にも。だからこそ少しだけ分かり合えるのかもしれない。それで十分よ。多くの世界では、『色の無い女』とさえ呼ばれる私に、干渉できる誰かがいる時点で……」
女は髪飾りにしていた、稀なる『色の無い氷の花』サーリャを外すと、霜に覆われた男の胸に置いた。
「時の終わりにまた会いましょう、ダークスレイヤー」
そして氷獄に、再び冷たい吹雪が吹き始めた。
※1 ディレニスやウロンダリアの寒冷な地域にいる精霊の一種。白く美しく尾が長い。群れると吹雪を呼ぶ。
※2 あえて『かいごう』という読みにしています。仏教用語の『えごう』と意味はほぼ同じですが。
初稿2020.10.02
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