ディレニスの雪・前編
無限世界の辺境、雪深いディレニスと呼ばれる冷たい世界。その滅んだ神々の王宮、グラネクサル。
氷の女王サーリャは紺と白のドレスのような戦装束に身を包み、左手に剣を握ったまま、眼下に並ぶ氷の巨人の大軍勢を見下ろしていた。
次に、背後を見やる。
かつての忌むべき父神コルベックが座した、今は斬り砕かれた玉座の残骸がそこにあり、氷と霜にきらきらと輝いて冷えきっている。この玉座の代々の主でさえ相対した事の無い強大な敵が現れる可能性があり、サーリャはあらためて冷たいため息を漏らした。
「あなたは全く、父としても何の教訓も与えてくれないままでしたね……」
サーリャはまた氷のように澄んだ瞳を眼下の氷の巨人の大軍勢と、その王であり将でもあるハインに向けた。山や凍った湖も構わず整列するその大軍勢は遥か彼方まで続いている。この威容はこの後起きる可能性のある断罪の戦に抵抗するためだったが、その始まりの気配は一向に訪れず、既に丸一日が過ぎようとしていた。
「我らが氷の女王よ!」
凍てついた戦斧を立て、両手を添えていた巨人の王、ハインが重々しく口を開き、その編まれた髭から少なくない氷の塊が落ちた。
「何ですか? 王ハインよ」
「あまりに遅すぎまする。界央の地と一戦交える覚悟はあれど、某、戦いを待たされるのはきわめて苦手にて」
長い緊張を和らげる目的もあったのか、巨人の王の軽口にわずかに身体を揺らす者たちがいて、氷の落ちる音がそこかしこから響く。しかし構わず、巨人の王は話を続けた。
「女王様は一度、氷獄に戻ってお休みになられてはいかがかと。なに、天使どもの火線など、我らの冷たき筋骨には容易くは通りませぬゆえ」
巨人たちから静かな笑いの空気が漂ったが、それはかなりの勇ましさを帯びたものだった。天使たちの揮う武器の火線は一撃で城を消し飛ばすほどの力を持つが、氷の巨人たちの固く凍った筋骨には確かに通り難い。それをサーリャは良く知っていた。しかしそれでも、天使たちの数は遥かに多かった。
「気遣いは無用です。王ハイン。氷獄の管理者たる私がいてこそ、あなたたちの冷たき武もより勇壮にその力を増すというものです」
サーリャは冷たい微笑みを浮かべ、話を続けた。
「しかし、確かに遅すぎます。私は『炎と氷の剣』の最後の封印を解除し、聖魔王イスラウス様に離縁を宣言してきました。断罪の対象になってもおかしくないはずなのですが……」
しかしここで、サーリャと巨人たちを黄金の光が昼間よりも明るく照らした。何事かと全員が空を見やる。少なくない数の巨人たちが武器を抜きつつ見上げた空に、黄金に燃える巨大な鳥の姿が浮かび上がった。
思わず跪きたくなるような、愛と威厳に満ちた声が響く。
──全てを是とし不問とする。大儀である。引き続き守護者の任も託す。
氷を解かさない、しかし暖かな光がひときわ強くなると、やがて黄金に燃える鳥の姿は消え、世界に静寂と冷気が戻ってきた。
「何と……!」
ハインは絶句した。サーリャは急ぎ氷の剣レクスレールを印を描くように揮い、氷獄への通路を開けようとした。いつもと変わらずにきらきらとした冷気の渦が現れる。
「何という事、氷獄への入り口も変わらずに開きます。私を守護者としたまま……」
少し前に無限世界を揺るがす大事件が起きていたはずで、それに加担した理由で何らかの断罪がある事をサーリャは覚悟していたが、界央の地は全くの不問という答えを返してきた。不気味なほどに大きいか、あるいは歯牙にもかけていないという意思表示なのか、いずれにせよサーリャにも巨人たちにも、すぐには大きな危機が訪れないであろう見通しとなった。
「界央の地の意志、とても測りかねる。偉大さをあらためて示してその威光を維持するとも読めまするが……」
無骨にして動じない巨人の王さえ、その言葉に困惑が漂っている。
「今回の件は、流石にここまで不問であると見せるのはとても無理だと思ったのですが……」
ここで、サーリャはある男の事が急に気になりだした。遥かに遠いアスギミリアの地で界央の地の勢力と戦ったダークスレイヤーのその後はどうなったのだろうか? 界央の地が歯牙にもかけないほどの小さな反乱に過ぎず、鎮圧され、惨たらしい末路を辿り、何事もなかったようにされたのだろうか?
(そんなはずは……)
「我らが女王よ、気になる事がおありなら、我々は引き続きこのディレニスを守りまする。お好きなようになされませい!」
氷の女王の女心を察したのか、その不安を元気づけるようにハインが身体を揺らして笑い、氷のかけらがぱらぱらと落ちる。
「王ハイン、私にそのような気遣いは不要です。……不要ですが、嬉しくは思います。氷獄に戻り無限世界の様子を確かめてまいります」
サーリャは氷獄の鍵の剣、レクスレールを揮うと、暗くきらめく吹雪の渦の彼方に消えた。
氷獄。
サーリャはお気に入りの盆地を見下ろす山脈の頂上に姿を現した。自分の莫大な冷気を固めた月はいつものように静かにこの領域を照らし、盆地を埋め尽くす氷の花が気まぐれな吹雪に美しくそよぐ様子も変わりない。
「あれは⁉」
しかし、その盆地の中央に二羽の大きな火の鳥が佇み、橇のついた黄金の輿が小さな神の社のように鎮座している。
──下らない界央の地は関係ないわ。こちらへ。
女の静かな声がしたが、この声には界央の地への敵意が漂っており、それが信頼に足る何かを漂わせていた。サーリャは大きな雪鳥に姿を変えて輿と火の鳥のそばに降り立ち、再び姿を戻す。黄金の輿は両開きの扉がゆっくりと開いたが、見えたものにサーリャは息を呑んだ。
「あなたは? そして、その人は!」
黄金の輿の中は豪奢な寝椅子となっており、眩しい金髪に宝冠を頂き、緋の衣装に長く白いケープを羽織った女、おそらくは女神のような存在が座しており、その膝に全身がひどく焼け焦げた甲冑の戦士の頭を乗せている。
「ダークスレイヤー? 生きているのですか?」
緋の衣装の女は膝に乗せた男の顔を覗き込んだ。ビスチェの胸元は輝くような肌で、かつ豊かであり、下を見る仕草からさらさらとこぼれる長い黄金の髪は神々しい艶に満ちている。息を呑むような艶めかしさがあるが、どこかに危険な気配が強く漂ってもいた。
女は顔を上げた。薄い赤紫の瞳の中心が底知れぬ闇のように深く恐ろしい。月を小さな珠にして連ねたような輝きの首飾りが、緋のドレスの表面を転がり、サーリャでも息を呑むような艶めかしい身体の線が浮かんでは消える。
「呼吸はしていないけれど、この人に死は無意味だから、黒炎を鎮めて魂に呼び掛ければ息を吹き返すはずよ。氷の女王サリヤ。……失礼、今はサーリャだったわね。この人に名前を貰ったのだもの」
「なぜそれを……いえ、申し遅れた非礼を詫びるわ。私はこの領域の守護者サーリャ。多くの者たちが『氷の女王』と呼ぶわ」
緋の女は緩く握った手を口元に当てて笑った。
「律儀ね。伝え聞いているよりよほど。私はイシュクラダというの。界央の地にはとても都合の悪い、女の陰謀と月の闇などを司っていたわ。そして……あなたの母上、サタとは面識があるわ。あなたはあの子とよく似ているのね」
──隠されし月と陰謀の女神、イシュクラダ。
「母を⁉ あなたは?」
「今は時間がないので、いずれ。まず、あなたの大切なこの人についてです。あなたの故郷、ディレニスのどこかで、この人に寄り添って黒炎を鎮めてあげて下さい。これはあなたに一番適正があるのです」
「黒炎を鎮める? どのような方法でですか?」
「雪山で冷たくなった男を女が温める話があるでしょう? あの要領でなるべくじかに触れ、この人の中で渦巻く黒炎を鎮めてあげたらいいわ」
「それは……!」
イシュクラダの言っている意味に気づいて、サーリャは生まれて初めて気が動転した。
「どうしたの? ……嫌なら私がやるわ」
「いえ……その、何と言いますか……」
狼狽しているサーリャに構わず、イシュクラダが話を進める。
「あなたはこの人に嫌われていないから問題ないと思いましたが、違うのですか? これは知っておいてほしい事ですが、界央の地があなたとディレニスに手出ししないのは、あなたがこの人を慕っていて、この人もあなたを嫌っていないからよ? あなたに何かひどい事をして、この人を怒らせたら大変なことになるもの。それに、『ダークスレイヤーに親しい者に手を出してはならない』という古からの約定があるのです。これは界央の地をはじめとする上層世界の暗黙の決まりなのですよ」
「そんな言葉が?」
「そして、その恩恵を受ける者、特に女たちは清く在らねばならないわ。これは信頼と返礼のお話よ? ましてあなたは既にこの人の心を見てしまったでしょうし」
サーリャは自分が、既に何か引き返せない道に入っていた事を悟った。
「そうですね。申し訳ございません。イシュクラダ様、その人を預からせてください。必ず何とかしてみせます」
「よろしくお願いするわ。……ああ、もしも深い仲になっても構わないですからね? 真なる神、そして真なる美しき女とは、互いに相争わない者ですもの」
イシュクラダは優美に曲げた手のひらで口元を隠し、笑う。
「そんな事……」
言いよどむサーリャに構わず、イシュクラダはしっとりと話を続ける。
「それから……アスギミリアの地で、この人は巨神と共に天使の軍勢八十億のうち、その三分の一を消し飛ばしたわ。界央の地の絶対は終わり、世界は終焉へと向かい始めるでしょう。『船の民』の巨大な星船はかろうじて二つ残り、この人はついに物質界に民をも得た形になったわ。無限世界で最も進み、それゆえに無限世界から出ようとした民たちをね」
「では、この後は……」
「世界は誰にも読めない状態になったわね。界央の地はおそらく天使たちの責を問うでしょうが、混乱期となり、危険な選択は控えるはずね。……ではまた会いましょう、冷たく美しいあなた」
イシュクラダは妖艶にして上品な笑みを浮かべると、火の鳥や輿もろとも幻影のように消えてしまった。サーリャは従者たちを呼ぶ。
「ブライ、ニクル!」
氷の粉を纏って大きな白鳥と黒鳥が現れると、それぞれが少年と少女の姿を取った。
「この人をディレニスのバナンシ山へ。あそこなら安全にこの人を冷ませるでしょう。誰にも見られることなく」
サーリャの従者である大きな白鳥と黒鳥はすぐにそれに従い、サーリャは忙しく氷獄を立ち去った。
凍てつく世界ディレニス、その最高峰のバナンシ山。
遠い昔に凍った火口湖の氷は、まだ『冷たい人々』が存在していた頃の聖地だった。人々は失われた火を求めて火口湖の氷に美しい螺旋階段を刻み、どこまでもどこまでも降りていく。しかし、氷の階段がいつしか岩の階段になっても火は見つからず、次第に凍った地下の水脈を巡礼目的で回廊に刻んでいく流れとなり、そして遂には人と歴史が途絶えた。
雪鳥と化したサーリャはダークスレイヤーを乗せたブライとニクルを伴い、長い螺旋階段を滑るように飛んで下りては歴代の氷の女王の彫刻がある回廊へと至り、やがて彫像の無い寂しげな回廊も過ぎて、地底の氷洞から誰も知らない凍った地底湖へとたどり着いた。
「ここなら良いでしょう」
人の姿になったサーリャはニクルの背から紺の敷物を下ろし、そこにダークスレイヤーを横たえ、黒い鎧を脱がせ始めた。
「あとは私がやります。あなたたちはここに誰も来ないように見張っていてください。……訪れる者はいないでしょうが」
「わかりました!」
白装束の少年の姿を取っていたブライは、元気に返事をすると再び白鳥と化して飛び去った。しかし、黒いレースのドレスを着た黒鳥の少女、ニクルは立ち去らない。
「どうしたの?」
サーリャの問いに対して、ニクルは言いづらそうに口元を隠し、小声で答える。
「ねえサリヤ、男の人と肌を合わせるのよね?」
「合わせるけど、別に男女のそういうものではないわ」
「何かのはずみで、相手がそれを望んだら?」
「なぜそんな事を聞くの?」
怪訝そうなサーリャに対し、ニクルは冷気まとう澄んだ目に笑みを浮かべた。
「氷の女王は代々とても孤独だけれど、必ず一度は強い男の人と出会って結ばれ、やがて子供を産んで引き継がれてゆくの」
サーリャはここで、かつて界央の地の道化である存在、パロガから聞いた言葉を思い出した。
──彼は君の冷たい下腹に新しい命を宿す事もできるよ。
「まさか、この人が私の⁉」
「多分そう。だから『そういう事』も考えておいた方がいいし、氷の女の子供は、男女が長い間望まないと魂が降りてこないの。それは、あなたが先代の氷の女王であるお母様、サタにも望まれて生まれてきた事を意味しているわ」
「なぜ、そんな事が言えるの? お母様は『夢幻の酒』でコルベックに汚されて私が生まれたはず。あなたも知っているでしょう?」
サーリャは少し苛立ち始めていた。しかし、ニクルは気にも留めずに話を続ける。
「今この時になって初めて話せる事だから仕方ないわ。この時まで、あなたはそう思って生きるべきだった。そういう事もあるのよ。そして真実はもっとずっと深くて悲しくて、冷たくて美しいものよ。この聖域のように。だから……」
ニクルは小さな冷気の輪を描き、そこから細く白い指に挟んだ何かを取り出した。とても高価な香水の瓶のようなそれは、聴色(※桃色の一種)の液体が入った複雑に美しい水晶の小瓶だとわかる。
「この二つの『夢幻の酒』はあなた用のもの。そして、この二本で最後。一本はサタとお話をするためのもので、もう一本は男の人と結ばれるためのもの。これ無しで結ばれたら、あなたは酷いやけどを負うかもしれないの。……大切な部分とかに」
これは下世話な軽口ではなく、なるべく遠回しな言い方で注意を促していると気付き、サーリャは少し慌てた。
「私はこの冷たい目と心で、あの人の心と記憶も見たわ。だから言える。……あの人はそんな事を望まないわ」
ニクルはしかし、サーリャの強い口調にも動じずに、二つの小瓶を渡して握らせた。
「確かに、コルベックのした事は擁護できないわ。でも、サタは形はどうあれあなたを産み落とす事を望んでいたの。なぜそんな事になったか、サタ自身が教えてくれるわ。この人を冷ますとき、最初はサタに会う事を願いつつ一本めを飲んで。そして、サタのお話を聞けたら、次はこの人の魂を呼び戻す事を願いつつ二本目を飲んで。このお酒は黒い炎の痛みもかなり和らげてくれるから」
まるで全てが用意されていたような不気味さにサーリャは気づいた。
「……これは全て、誰かの思惑なの?」
「違うわ。願いと運命の話しよ。……さあ、早くその人を冷まして、サタのお話を聞きに行ったらいいわ」
ニクルはそこまで言うと、くるりと身をひるがえして黒鳥の姿になり、氷の回廊の彼方に飛び去った。
伸ばしかけた手をそっと握ったサーリャは、『夢幻の酒』の二つの小瓶を見て、次に敷物に横たえられたダークスレイヤーに目を移す。かろうじて顔はそのままだが、全身が焼け焦げており、死体なのに生気に満ちた生々しさが漂っている。
「あなたがどんな思いで戦い続けて来たか、少なくとも私は理解しているつもりよ。今もきっと、あなたの魂は闇の炎渦巻くどこかで孤高の獣のように彷徨っているのでしょう?」
サーリャは膝をついて、ダークスレイヤーの甲冑や衣服を脱がせた。その視界が次第に涙でぼやけてくるのが分かる。この戦士の戦いは、遂に無限世界を変え始めた。そんな偉大な戦士が今も自分を責めて黒炎に焼かれている。人々の賞賛も、豪華な宮殿も、高価な珍味の山と積まれた食卓も、魂を震わす楽の音も、この戦士を抱きしめて愛を囁いて受け入れる女もなく。
サーリャは泣きながら男の腕や胸にそっと触れた。黒炎の火柱が爆発的に燃え上がり、サーリャの白い腕を焦がす。
「ああ、黒い炎でまた自分を焼いて!」
ひるむよりも決意を固めると、ためらわずに『夢幻の酒』の小瓶を開けて一気に飲んだ。さらに戦装束と、その下の精巧な肌着をするりと脱ぎ落した。冷たくも暖かな白い肢体は、ディレニスのいかなる彫像よりも美しかった。
「炎に包まれてもあなたを抱きとめる女は、ここにいるわ……」
サーリャは激しい炎に負けない勢いで冷気を纏うと、そっと横たわり、焦げた男の腕を抱き、静かに目を閉じた。
初稿2022.10.15
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