涙の、甘き海
既に呼び名さえ混沌に穢されて失われた海。混沌の瘴気を吹き出す不気味な腫瘍が火山のように深い海のいたるところに膨らみはじめ、美しかった海はおぞましく変容し、人魚たちは浅瀬に追いやられる魚のようにあてのない逃避を続けていた。人魚たちの楽園の一つだったあの美しい海の姿は既にない。
人魚たちはそれでもあの美しかった海に感謝の歌を捧げ、ここではないいずこかの海へと逃げ延びるべく、海の一部である自分たちの魂に伝わる多くの歌を唄った。真潮の歌、逆潮の歌、底潮の歌、海馬の見えざる蹄の歌。
混沌に触れて爛れ、あるいは混沌の化け物に襲われて重い怪我をした人魚たちも少なくなかったが、いつしか彼女たちの群れはしばしば小魚たちがその身を守るように、大きな生き物のようにひと塊となり、最初は大きな魚のように、そして今は彼女たちの古い歌に伝わる偉大な人魚の母を思わせる塊となって、彼女たちは泳ぎまた唄い続けた。
波鎮めの歌、月照らす夜の歌、珊瑚の祝い歌、竜払いの歌。
しかし混沌の浸食はとまらず、やがて人魚たちの眼と体はうっすらと青い燐光に包まれ、群れというよりは本当に一体の大きな人魚のようにふるまい始めた。その姿は伝説の大いなる人魚、歌姫オルセラの姿そのものだった。唄う歌もまた彼女たちさえ忘れた古いものへと変わっていく。
海の時代の歌、星の海の歌、六つの月の歌、始まりの長き雨の歌。
これらの古い古い歌を聴いた混沌は暗い海の底で燃えるようなオレンジ色に濁る八つの恐ろしい目を開くと、混沌の化け物が集まっては無数の巨大な触手や腕となり人魚たちを捕えんとした。人魚たちの歌は今や魂を削る絶叫のようでありながら、なお荒れ狂う海の美しさを残した激しいものとなった。
彼女たちの運命がこの海と同じく絶望より恐ろしいものになろうとした時、いずこからか大いなる歌声が激しい歌と混沌を大海の如く呑み込んで鎮め、海に青く輝く道を示す。
──甘き海の歌。
人魚たちはこの歌が、伝説の歌姫オルセラの唄う甘き海の哀しみの唄だと気付いた。
混沌は怯えて急速に委縮し、人魚たちは歌に導かれて見えざる海の道を通ると、六つもの月の輝く甘い海へと至った。輝く珊瑚の谷底には無数の真珠がどこまでも淡い光を放つこの海は、人魚たちの涙が哀しみを忘れさせる伝説の海だった。
※以上、引用、タイトル含めて1000字でした。
初稿2024.12.13
コメント
海の美しさと怖さの両面が感じ取れる掌編。
海に関わる者としての筆者の実感がこもっており、短いながらずしりとくる。
いいですね。個人的には物語終わったあとのテキストが好きです。潮の流れと海の様子、怖さがチャンと表現できてるし、どこか儚い。
ありがとうございます!
たまには1000字で試行錯誤するのも悪くないものですね。
混沌のおぞましさと人魚たちの美しき歌のコントラストに魅了されました。彼女たちの哀しみと強い想いが伝説を呼び覚ましたのでしょうか。最後に訪れた安堵がいつまで続くことでしょう。素敵です。
ありがとうございます! たどり着いた場所は素晴らしい場所ではありますが、そんな場所を作り出しているのは無数の人魚たちの真珠の涙です。果たしてどうなりますかね。