前編 ハーダルの終焉
長く栄えた世界ハーダルの大都市、神々の都ラーシュバードはかつての雄渾な都市も人々も、そして神々さえも見る影もなく焼き尽くされ、名のある多くの戦士もまた、全て炎に呑まれて同じ運命をたどった。
──破滅の使徒アルサオン、船の民は神の悪徒マスティマと呼ぶ。
悪魔の姿をした天使ともされる彼らの一師団がこの世界に降臨し、その圧倒的な戦闘力と炎の力の前に、この偉大なる戦士を多く生み出した世界は数日であっさりと終焉を迎えた。
最後まで勇敢に炎の剣と槍を揮い戦った戦女神、炎赤の守護者ヴァルミスもまた四肢の腱を切られ、自らの揮っていた炎の槍ヒスカルドによって崩れかけた神殿の壁に磔にされ、今や多くの傷から少しずつ流れる神血の喪失により、砂時計のように命の時を失いつつあった。
(……ああ、雄渾なるハーダルがこのような終焉を……)
左鎖骨の下を刺し貫かれて壁に縫い留められていたヴァルミスは、気絶から回復してうっすらと目を開けていた。建物が燃える刺すような匂いと、肉の焼けこげる匂い、血の匂いが混じり、圧倒的な暴力と炎によって蹂躙された世界は、まだどこか現実的ではなかった。
(悲しむ事さえ出来ぬほどの蹂躙を……)
マスティマの師団を率いていたのは、髑髏の甲冑を着て、炎纏う重い大剣を揮う将軍、マスティマ・ガリエルだった。彼は容赦なくラーシュバードの神々を部下のマスティマたちと共に皆殺しにしていったが、最後まで果敢に戦ったヴァルミスにはとどめを刺さず、生き地獄に等しい磔にして放置していた。
他の女神たちは野犬のようなマスティマの戦士たちにより、戦利品として連れ去られたのに、なぜヴァルミスだけはそれをされず、これ見よがしに磔にされ、緩慢な死へと向かう形にされたのか? ヴァルミスは訝しんでいた。
(見る者も居ないのに、何のために殺さずに磔に?)
遥か彼方に見える、かつて神々の荘厳な神殿だった建物は、今やマスティマたちの炎の武器により融け落ち、暗い空の下、巨大な地獄の化け物の歪んだ笑みのような残骸と化している。
(私に、愛する世界の惨たらしい終末を見届けつつ死んで行けと……?)
ヴァルミスの耳には、化け物の顔のような残骸の中で行われている、恐ろしい戦勝の宴の惨劇が届いていた。悪魔の姿をした神の使徒であるマスティマたちが、その箍を外されて世界を滅ぼさんとする時、その世界の人間や神々にする事は、おそらく誰にも知られることがないはずで、それだけに言うのもはばかられるような行いが繰り広げられていた。
(何という、惨たらしい行いを……!)
人間と神々、特に女の悲鳴が多く聞こえてくる。それは敗れて戦う力を奪われ磔にされたヴァルミスを、心折れてなお涙と共に戦わんとさせるものだった。それほどに許されざる行いが繰り広げられていた。
同時に、疑問がより強くなる。
(なぜ、奴らは私を辱めたりしない?)
炎と赤い色のものを守護する戦女神ヴァルミスは、勇ましさと美しさに定評があった。何柱かのマスティマたちはヴァルミスを戦利品と主張したが、それをガリエルが押し止めて磔にした経緯がある。部下のマスティマたちの反発は激しいものだったが、それでもこのようにするには、どのような意味があるのかと、神血を失い過ぎて回らなくなってきた頭で、ヴァルミスは考えていた。
(せめて、せめて死すとしても奴らに一太刀浴びせつつ……)
ヴァルミスはおそらく叶う事のない思いを叶えるべく身じろぎしたが、腱を焼き斬られた四肢は動かず、大量の神血の流出が視界を暗くし始めていた。やがて、過去の様々な事が思い出され始める。と、心の中で何かがはじけた。
それはハーダルの主神が消した記憶だった。ヴァルミスはかつて、自分がこの世界から離れていた期間があった事を思い出した。死か、主神の消滅が、記憶の封印を解いたらしい。
(ああ、これか!)
遠い昔の、青い城での記憶。そして黒衣の男の気高い振舞いと声。自分がなぜ凌辱も殺害もされなかったのかに思い当たった。
(奴らは、あの人を恐れているのね……でも……)
意識が暗黒に飲まれはじめ、ヴァルミスは今度こそ自分に死が訪れたのだと悟った。
(変ね、死んでしまうなら、もう一度あの人に会ってみたいわ……)
ヴァルミスの意識はそこで途切れ、四肢が力なく垂れ下がった。長く美しい炎赤の髪もその色がくすみ始め、煤けた風に虚しく吹き流されていた。
暗黒と虚無に沈みゆくヴァルミスを何者かの力強い声が呼んだ気がして、彼女はうっすらと目を開けた。肩を抱く力強い腕と温もりに気付き、見上げると、懐かしい鳶色の眼が心配そうに自分を見下ろしている。その精悍な男は目を開けたヴァルミスに対して、わずかな笑みを浮かべた。
「気が付いたか、もう大丈夫だ」
「黒い方……いえ、ダークスレイヤー、なぜあなたが⁉ それに、私はもう死んだものと……」
ダークスレイヤーと呼ばれた黒衣の男は、やや離れた場所の白い存在を視線で示した。
「今回は彼女に呼ばれた。この世界はもう滅びかけており、外界との境界が弱くなっている。おれの馬なら渡って来れる状態になっていたからな」
ヴァルミスは男の視線の先にいる、白くうっすらと輝く存在に気付いた。霧のように白いドレスと短いマント、編まれた長い髪も肌も白いが、その双眸だけは艶やかに親し気に黒い。その白い女はヴァルミスの視線に対して柔らかに笑みつつ会釈した。その気高く柔らかな物腰は、白い女の存在としての位の高さを自然と理解させ、ヴァルミスは思い当たる存在に気付いて声を上げた。
「その方は、もしや『白い女』と呼ばれる方々の一柱ですか⁉」
白い女は綿のように柔らかな声で答える。
「私を知っていましたか? 炎赤の守護女神ヴァルミスさん。その通りです。私たち『白き飛沫の姉妹』をそのように呼ぶ方々は多いものです。私はその長女シルウェスティナ。遠い昔、そちらの黒きお方、ダークスレイヤーによって隠れし神々の理の外に救い出された者の一人です」
(なんて柔らかな声!)
柔和に微笑む白い女の声と表情に、ヴァルミスはそれだけで心の憂いが消えてゆくのを感じていた。その柔らかな声は荒れた心を霧のように優しく撫でて潤すように感じられていた。。
遠い昔、『隠れし神々』の何かを知り、その一柱である『慈悲』が流した涙が、生命の原質である『乳海』に落ちた事により、その飛沫から無限の生命と慈悲の心を持つ、白い女たちが生まれたとされている。
その言い伝えにたがわぬ存在感に、死から戻ったばかりのヴァルミスは嘆息しつつあった。
「あなたの失った神血は私が傷を塞いで生命の息吹を吹き込んだので、もう大丈夫です。今後、死や時があなたの美しさに爪を立てる事はまずないでしょう。……ただ、あなたの魂に対してさらに清浄すぎる力なのと、あなたの失った神血が多すぎる事により、あなたはこの後少し変質してしまう可能性があります。私の力があなたの神気に馴染むまで、しばらくは安静にしていてくださいね」
「そういう事だ。あとは少し休んでいたらいい。ここから先はおれが受け負う。……失礼するぞ」
ヴァルミスは黒衣の男に抱きかかえられ、焚き火のそばの絨毯の上に横たえられた。続いて、白い女シルウェスティナが柔らかに語る。
「その扱う力の属性の違いにより、私とその周囲をマスティマたちは認識できず、よって、あなたも見つかりません。黒いお方が戦いを終えて帰ってくるまで、私はここにいます。女神が心に傷を負うと、大変な事になります。まずは落ち着いてゆっくりと休んでください」
「わかりました……」
ヴァルミスはこれが全て死後の夢ではないかと思っていた。死から生還し、よりによって懐かしい黒い男と再会した。同時に、愛する世界に訪れた災いに激しい怒りも感じている。しかし、それらを全て受け止めて何かを判断するには、戦いと束の間の死によって心が疲れすぎていたのか、急激な眠気が襲ってきていた。
「申し訳ありませんシルウェスティナ様、大変な眠気が襲ってきました」
「『黄泉の眠り』と呼ばれるものですね。少し休むと良いですよ」
ここで、かつて神々の神殿だった今は炎の魔城と化した建物から、無数の人間たちのうめき声や絶叫が一層強く聞こえてきた。
黒衣の男、ダークスレイヤーの表情がわずかに険しくなる。
「……行くか」
立ち上がったダークスレイヤーは、魔城と化した彼方の神殿を眺めた。火の粉を伴う風がその黒衣のマントとコートを靡かせるが、男の眼には恐怖も気負いも何もない。
その様子に、これから起きる恐ろしい戦いと、おそらく復讐の成就を感じたヴァルミスは、懐かしい男に語り掛けた。
「叶うなら、あとで私も行きます。……今は理解出来るわ。マスティマたちは暴虐の限りを尽くしても私には巧妙に加減した。やはり彼らが恐れるのは、あなたただけ……」
ヴァルミスは続く言葉を言いよどんだが、死に向かった事で何かが吹っ切れており、偽りない自分の気持ちを伝えようと決意した。
「死の直前にあなたを思い出したのよ。……とても懐かしくて、せめてもう一度会いたいと思ったわ。なぜかマリー様に怒られたことも思い出すのよ。私もやはり女神だったのね。我が愛しい世界がこんなことになり、激しい怒りと心を押しつぶす悲しみに満ちていたのに、再会をとても喜んでいる自分がいるわ」
黒衣の男は優し気な笑みを浮かべた。
「当時は君やバゼリナには随分気を使ってもらったからな。恩人を救えて嬉しいのが今の偽らざる気持ちだ」
やがて黒衣の男は瓦礫と炎の彼方に歩き去って行った。これから激しい戦いをするとは思えない鷹揚な背中は、遠い昔と全く変わっておらず、ヴァルミスは安堵して眠りに落ちた。
おそらく神の力に増幅された威厳がより近くに見せているものの、実際にはどれほど離れているのかわからない、魔城と化したかつての神殿は、暗い空の下で哄笑する悪魔の顔のように見えていた。禍々しい目と口は炎と煙で霞み、神の悪徒マスティマたちの笑いと、想像するのもはばかられるような所業に晒された人間や半神、神々の叫びが聞こえてくる。
ダークスレイヤーは焼かれてガラス化した瓦礫を編み上げ靴で踏みしめつつ歩いていた。牛の頭骨を模した金属板で飾られた長靴がしばしば鈍く光を跳ね返す。今やヴァルミスに見せていたわずかな笑みは消え、本来の彼らしい無表情で力強く進んでいた。
かつては雄渾にして美しかったであろう都は、今や多くの焼けこげた死体と、頑丈なものほど高熱にさらされたことを物語るガラス化した瓦礫の廃墟と化しており、無数の死者の怨嗟の想念が火の粉と共に漂っている。
大きな噴水だったであろう円形の残骸に幾つかの死体をみとめ、ダークスレイヤーはそのうちの一つに目がとまった。華奢な死体が二人の幼子を守るように抱きかかえたまま焼け焦げており、幼子と若い母親であろうと思われた。
彼方から乱痴気騒ぎのようなマスティマたちの笑いが聞こえてくる。
「馬鹿騒ぎはここまでだ。神々の犬ども……」
ダークスレイヤーは自らの領域から嵐の魔剣ヴァルドラを呼び出した。煙に満ちた空が清浄な黒雲に追い払われ、激しい雷雨が焼かれた都を冷やし始める。黒い落雷と化して降臨した魔剣を、黒衣の男は地面に突き立て、その膨大な力の波動を放った。
それは、神の悪徒マスティマたちへの宣戦布告を意味していた。
†
―ダークスレイヤーのみが扱える永劫回帰獄の力は、本来は至高の神々の作り出した黒い炎の牢獄である。しかし、神々が彼に与えた苦しみを全て試練として悟りに至った彼は、今や復讐と激しい怒り、そして自責によってこの恐ろしい炎の唯一の使い手となってしまった。
―賢者フェルネーリ著『ダークスレイヤー』より
†
かつてラーシュバードの天に浮かんでいた神々の神殿は、今や地に落ちて焼かれて融け、大地から顔を出さんとする巨大な悪魔の顔のように変形していた。その大広間では世界を滅ぼす任を終えたマスティマたちが、その将軍ガリエルの座す玉座の前で焼けた鉄板に人や神々を乗せるという悪趣味極まりない座興を楽しんでいた。
「人よ、神々よ、お前たちの世界と時代は終わりだ。世界が滅んだ後も蛆虫のように生きる事を望むなら、自らの魂の清らかさをその鉄板に乗って証明せよ。焼かれねば生きる道もあろう」
分厚く威圧的な、曇った鋼の全身鎧を着た男が玉座から重々しくそのように言う。その頭部は牙のある髑髏の兜であり、錨のように切っ先の丸い炭と熾火のように赤黒く光を放つ重厚な大剣を手に、マスティマ・ガリエルは尊大に頬杖をついた。
光る枷に繋がれた人や神々は、マスティマたちの宴席の中央に置かれた赤熱する鉄板を見て声を失っていた。今までこの鉄板で焼け死ななかった者は一人もいなかった。その集団から、禿げあがった長い白髭を蓄えた老人が進み出た。この世界の書物を司っていた老神だった。
「焼くなら儂を焼けばよい。しかし、儂が焼かれている間はこの者たちに手出しをするな! このような行い、たとえ至高の神々の意志だとしても到底承服できん。このような行いには必ず天罰が下る!」
ここで、甲冑姿のマスティマたちからどっと笑いが起きた。
「我らこそ、その天罰よ!」
「然り! 面白いことを言う爺だ!」
マスティマ・ガリエルの兜の奥の眼が赤く光った。
「副官ダキエル」
玉座の横に火柱が立ち、それは甲冑姿の黒い肌の男の姿を取る。ガリエルはその男に対し、問うた。
「おれより道化の才のあるお前に問う。あの爺はお前より笑いを取ったが、お前はこの場をより面白くできるか?」
副官ダキエルは嫌らしい笑いを浮かべて案を述べた。
「あのおいぼれの書物の神には、同じく文筆を司る臆病者の娘がいます。どうですかな? ここはひとつ、あの炎赤の守護女神に手を出せずに戦の熱を冷ませずにいる、ここの皆の慰めにされては。あのおいぼれは気骨ある男。それくらいでは動じぬでしょうなぁ」
「なんだと……やめろ! 儂を焼けばよかろう!」
「それではつまらぬのだ。書物の神なのに分かっておらぬな? 覚悟ある者に対しての責め苦は萎えるものだ」
「何という事を……これが神々の意志だと言うのか……」
「我々マスティマは隠れし神々の貴き意図によって地上に悪を成す者なり。お前たち如きに我々の意図など理解出来ん」
ここで、マスティマ・ガリエルが重々しい声で続けた。
「お前たちにはわかるまい。下らぬ善と悪を全て超えたところに、隠れし神々の意志はあるのだ。時に暴虐と殺戮、凌辱の限りを尽くしてこそ、善悪定かならぬ尊厳ある者となるのだ。思い出すが良い。英雄とは殺戮の限りを尽くした者ぞ?」
「何だと……」
老いた書物の神は肩を落とした。その背後の集団から、眼鏡をかけ、黒髪を編んだ地味な女神が進み出る。
「マスティマの方々、それなら、父や皆を焼くのはお待ちください。ここにおられる方々を、きっと癒して差し上げます。どうか、私の献身にわずかばかりの恩寵を下さいませんか?」
「やめろ娘よ! そのような事はするな! 儂が焼かれたほうがましだ!」
「お父様、まだ殺されるわけではありません。でも、鉄板に乗ったらお父様は焼け死んでしまいます。恐怖に押しつぶされた人々を最後まで護るのが、私たち神々の務めでしょう?」
しかし、そのやりとりはガリエルの無慈悲な言葉によって遮られた。
「脱げ。末席のものから順次相手するが良い。して、書物の神よ、お前は鉄板に乗るがいい」
「そんな、無慈悲な……!」
「私は脱げと言い、次に、鉄板に乗れと言った」
「乗ってやろうとも! だが、儂は聞いたことがある。お前たちでさえ恐れる存在がいると。美しいヴァルミスを殺さず、せいぜい我が娘を凌辱するのがお前たちの限界よ! 死してなお、儂はお前たちの破滅を見届けてやろうぞ!」
「何だと!」
何人かのマスティマたちが色めき立ち、剣に手をやり立ち上がりかけたが、それは文筆の女神の悲痛な叫びに消された。
「やめて! お父様!」
「伝説の黒き戦士よ、ヴァルミスを清らかなままに戻した戦士よ! 我が魂の叫びを聞き、どうかこの者たちを惨たらしく殺したまえ!」
書物を司る老神は燃え上がる鉄板に飛び込もうとしたが、影のような何かが掠め取るようにこの神の姿をかき消した。
続いて強大な力の波が伝播しマスティマたちの顔色が変わる。ガリエルは大剣に手をかけた。
「現れたな、来るぞ!」
次の瞬間には、建物の天井が崩壊して、棘だらけの巨大な鉄球が鉄板を叩き潰し、瓦礫の雨と火の粉が激しく飛び散った。続いて、広間を埋めるほどのその鉄球は縮み、その上に黒い魔剣を肩に担いだ黒衣の男が不敵な笑みを浮かべて立っていた。
「悪趣味な宴会だな、隠れし神々の犬どもが」
静かだが良く通る声で男が言う。マスティマたちは真顔になり、それぞれの武器を手に立ち上がった。ガリエルだけは大剣の柄に両手をあてがい座したまま様子を見ている。
「現れたか、ダークスレイヤー」
ガリエルの燃える眼が赤みを増す。
「宴会の締めに自らの死を選ぶ趣味、嫌いではないな」
対して、不敵に笑う黒衣の男。
「かかれ! 今こそ、まつろわぬ者を焼き滅ぼすのだ!」
「応ッ!」
副官ダキエルの号令に、マスティマたちは燃える炎の翼を顕現させて空に飛び立った。
世界の終わりに等しい、激しい戦いが始まろうとしていた。
first draft:2021.03.03
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