第一話 予感
ウロンダリアに『二つの世界樹の都』テア・ユグラ・リーアが現れて一ヶ月が経過していた。
魔の国と聖王国は『不帰の地』におけるベオ・ヤイヴの一氏族、『ギャレドの氏族』の謎の全滅の真相と、『古都の門』の仕掛け、及びそれらに対する異端審問会と古王国連合の関与を細かく調べ上げた。
さらにその証拠の山と共に『不帰の地』と『二つの世界樹の都』の領有・管理権について、全滅した『ギャレドの氏族』の唯一の生き残りであるゴシュと、今や『キルシェイドの眠り人』という二つ名で呼ばれるようになったルインにその権利があるという案に対して、古王国連合からの回答は言葉少ないものだった。
『指摘の件に関しては一方的な見解とも取れ、我々の側でも精査する。領有に関しては我々は関知しない。異議も無い』
との内容だった。
こうして、『不帰の地』および『二つの世界樹の都』の管理と領有の権限は、『キルシェイドの眠り人』こと、ルインに委ねられる事となった。
『不帰の地』奥地の丘。魔王府の出張所を兼ねた上質な帷幕。
濃い紫に金銀の刺繍の施された立派な帷幕の中は、光取りの繊細な透かしを通して複雑で美しい日光に照らされ、臨時の席とはとても見えない重厚かつ繊細な上位魔族好みの場となっている。
この場では魔の国と聖王国そして一部の古王国や古王国連合の代表者が集い、ウロンダリアにもたらされた美しい都の今後についての話し合いがもたれていた。
古い石化木の大きな円卓には少なくない人々がぐるりと座しており、『古王国連合』という文字の光る大きな水晶の置かれた席だけは空席で、眼鏡の秘書官が読み上げた文書をはたりと置いた。
「古王国連合としてはそう答えるしかないであろうな」
頬杖をついていた魔王シェーングロードが、読み上げられた古王国連合からの回答についての感想を呟いた。
「好都合ですね。今の古王国連合はどうにもクロムの民の意志が多く働いています。彼らではこの都とその遺物を財貨でしか評価できない可能性が高く、それゆえに価値を見誤って毀損してしまいかねませんから」
護衛の聖刻の騎士ユレミアを伴った神聖乙女ラルセニアも同意する。
この会議の場は古王国連合の役人の欠席も回答もすでに伝えられた上でのことで、最重要の議題は別の所にあった。
「余の見立てだが……」
魔王シェーングロードは古王国連合の担当者の席に手をかざした。名札の役割を果たす水晶は浮かび、円卓の中央に漂ってくる。『古王国連合』という光る文字は揺らいで、『円から八方向に延びる矢印』つまりは『混沌』の印章の形を取った。
「既に『混沌』はウロンダリアに侵入しており、『古王国連合』はおそらく深く関わっているであろう。その根源を見つけて取り除かねば最悪、再びかの戦争の再来となる。それは断固として避けねばならぬ」
魔王は腕を組み、獅子のような目に暗い影がよぎる。
「そもそもあの戦争は本当に終結したのか? 終盤は畳みかけるように我々の勢力が攻勢をかけたが、混沌の神々は我々にはわからぬ奇怪な布石を打ち、こうしてウロンダリアが最も弱くなる時期を待ったのではないのか? 今のウロンダリアにはかつてのような名だたる英雄はそう多くない。混沌の神々の勢力には軍事力はあまり意味をなさぬ場合もあるというに……」
しばしの沈黙の後に、神聖乙女ラルセニアが紅茶のカップを置いた。
「とても心配なのは『影の帝国インス・オムヴラ』の王宮に厳重に保管されているはずの『愚者の王の大剣』がどうなっているかです。あの剣でウロンダリアの時は破壊され、時の流れがしばしば曖昧になっています。この時の流れが彼らにとって有利な『焦点』をどこかに結ぶとしたら、それはどこなのか? 私も大賢者様たちに見解を問うてみることにします」
「大賢者?」
ルインの小声の呟きに対して、右隣の席のチェルシーが小声で答える。
「凄く賢い人たちです。私でも勝てないくらい頭がいいですね。何か有益な助言はもらえるかもしれないですけど、みんなとっても自由なので見つけるのがまず大変なんですよ。どこにいるかも分からないんです。見つけたとしても答えてくれるかどうかわかりませんしね。……それは悪い事ではないんですが」
「悪い事ではない?」
「そんな時はわざわざ答えを示す必要が無い場合って事ですね」
「なるほどな」
ルインは左隣のクロウディアを見た。影の帝国インス・オムヴラの皇女でもあるため、この場には影の国の代表としても出席している。そんなクロウディアは神聖乙女を真剣に見つめていた。
「クロウディア?」
影の国の事で気がかりの多いはずのクロウディアを案じてルインは声をかけた。しかしクロウディアの言葉は意外なものだった。
「ルイン、ラルセニア様ってとても可愛いのね。出てきたお菓子を全部食べちゃってるのよ。とても上品だけど、みんなが気付かないくらい自然に素早く食べちゃってるの。お腹がすいてるんじゃないかしら?」
「まさかそんな……」
「見てて」
ちょうど、給仕が新たな菓子を神聖乙女の席に配膳する。
「バルドスタの林檎のパイ、モルオン・サダ風です」
「ありがとうございます」
神聖乙女は笑顔で会釈し、フォークを持つと、次の瞬間には林檎のパイが消えてしまった。ルインは我が目を疑った。
「どういう事だ?」
「きっとお腹がすいているのよ」
「あれはそんな感じでは……」
笑顔で言うクロウディアだが、パイの消える速度は『自然に素早く食べちゃってる』ようなものではなく、どう見てもほぼ一瞬で消えていた。少女の姿をした存在の食事を注意深く見るのも失礼と考えたルインは会議に集中することにしたが、どうにも気になっていた。
(神聖乙女は自分の領域か空間に菓子を移動させている?)
いつしか神聖乙女の能力について思考を巡らせていたルインに、その神聖乙女から声がかかる。
「では眠り人ルイン様、お手数ですがこの二件、よろしくお願いしますね」
「承知した」
ルインは武人の礼と共に返事を返したが、何の話しかは一部しか頭に入っていなかった。
『不帰の地』ヴァンセン、世界樹の都を眺める丘。
ルインはここしばらくの日課になっている、切り立った丘から世界樹の都を眺めて何も考えない時間を楽しんでいた。魔の国の工兵隊が気を利かせて作ってくれた丸木のベンチに座る事もあれば、立ったまま腕を組んでいる事もある。
大魔城と呼ばれるエデンガル城をこの地のどこかに置く予定だったのに、予想外に巨大な世界樹の都が現れたため、ルインはどこに城を置くべきか結論が出せなくなっていた。しかしその悩みはいつも途中から景色を楽しむ空白に置き換わってもいた。
「ここからの眺めが好きですねぇ」
給仕服のエプロンをはたきながらチェルシーも壮麗な世界樹の都を見やり、再びルインに視線を戻した。
「ところでご主人様、途中から会議のお話が頭に入ってない感じでしたよね?」
「ああ、神聖乙女の菓子の食べ方が気になってしまってな。要件は確認してあるから大丈夫だが……」
神聖乙女がルインに頼んだ要件とは、混沌の花の女神ヴァラリスが今後干渉してきた場合の報告と、聖王国への来訪だった。
「あれはおそろしく早いお菓子の領域への転送です。手練れでなければ見逃してしまいますね」
「やっぱり食べてないよな?」
「あれはですね、クロウディアさんは似たような事が出来るから『食べてる』って理解してますが、厳密にはまだ食べてませんね」
「どういう事なんだ?」
「ラルセニア様って訪れた先で食べたもの全部に丁寧な感想を書いて発表します。それで人気の出たお菓子や特産品は大人気になりますから、みんなが沢山贈り物をしたり、公式の場でのお菓子やお食事も豊富になりますが、とても一気に全部は食べられませんよね?」
「少女だものなぁ」
「なのでああやって領域に仕舞い、後でじっくり食べて丁寧に感想を言うって流れなんですよね」
「丁寧な対応だな。人気も出るわけだ」
「ですよね。とてもまめな対応をしますよね」
ようやく腑に落ちたルインは再び世界樹の都を眺めた。
「この都の景色は本当に飽きない。ただ、魔城をどこに置くかはとても悩みどころだ。そろそろ図面も届くらしいが、今の魔王城を見るに相当な巨大さなのだろう?」
ルインの問いに対して、チェルシーの眼は大きく見開かれた。
「しまったあぁぁぁ!」
「いきなりどうした?」
「もしかしてご主人様、ここしばらくこの景色を眺めていたのって、エデンガル城の置き場所について考えてたんですか?」
「ああ、まあそうなるかな? いつも途中からこの景色を眺めてしまうが」
「ごめんなさい。言うの忘れてました。エデンガル城ってものすごく広大なので、本来の形で配置したらこの景色が全部埋まります」
チェルシーは世界樹の都とヴァンセンの森、遥か彼方の白い山脈を手のひらでなぞるように示した。
「……巨大に過ぎないか?」
「中を全て探索したら人の一生では足りないとされていますね」
「またそんなに巨大なのか。この景色への調和が云々、という話では最初から無かったか……」
「そりゃあこの完成された景色に様式の異なる巨大なお城が現れたら……って悩みますよねえ。でも、そんな必要なかったりするんですよ」
「向こうの森の側に置くとか?」
「それもいいですが極端な話、入り口だけあれば良いのですよね。それこそ転移門みたいに門だけとかも。ここだと、あの広い湖のどこかにちょうどいい大きさのお城を置いて、中はエデンガル城になっていればいいのかなって考えてましたけど、そんな事が出来るって説明をしてませんでしたね……」
「ああ、そんな事が出来るのならそれが一番良いな」
「この方法は外部からの侵入もほぼ不可能になります。見た目と中身が違うので、侵入者は初代魔王スラングロード様が念入りに作った悪意に満ちた罠だらけの区画に迷い込むことになりますね。侵入者を助けに行くのもだーれも成功してませんし」
初代魔王がどれほどに悪意のある罠を仕掛けたのかがチェルシーのため息交じりの呆れ声によく出ているように感じられて、ルインはその様子にふと笑った。
「それはいい。それでいこうか。……ああ、ちょっと教えてほしいが、侵入者はどうなったんだ?」
「スラングロード王は罠の図面は残していますけど、その区画は危ないので誰も確認に行ってませんし、そもそもたどり着いてません。魔の都の盗賊結社に少し資料が残ってるくらいですね」
「盗賊結社?」
「敵対組織は根こそぎすっからかんにする、スラングロード王が投資して作った組織です。そういえばここしばらく平和で名前を聞きませんね。活動しているのかな?」
チェルシーは可愛らしく小首をかしげ、話題はすぐに城の話に戻った。
「魔法の図面の投影機で良さげなお城の形を原寸で浮かび上がらせることもできるので、とりあえずあの湖の桟橋から行けるような、程々の大きさの物であればよくないですか?」
「そうだな、それなら決めやすい」
「では後で良さげなお城の模型と、エデンガル城の内部が投影できるものも用意しておきますね!」
「ありがとう」
チェルシーは元気よく次の仕事に戻った。
無骨な丸木のベンチに座ったルインは隣に半透明の女神バゼリナが現れた事に気づく。彼女は既に座って微笑んでいた。
──本当に美しい都ですね。時に黒い方、『喜びのシルニス』様の事は覚えておいでですか? 神々の遊棋(※将棋やチェスのような遊戯)を展開する、猫の耳と尻尾を持った美しい方です。
ルインはその名前を聞いて、灰銀の髪に黒い衣装のすらりとして賢い存在を思い出した。
──私まで置いていく気⁉
呆れたような、しかし心配も含まれた怒りの声が思い出される。
「輝く灰色の髪に、黒い衣装の? 何やら怒られている記憶があるような」
「どうしたのでしょう? シルニス様までまたそんなに曖昧に? ……あの方の仕事にしては……いえ、あの方も女性ですし……うーん?」
「あの方?」
ルインの問いかけにバゼリナは少し慌てた。
「あっ、すいません黒い方。私の想定とあなたの記憶の状態が少し異なるのです。小さな違和感ですが、運命を織る私の仕事と、あなたの記憶に関わった方の仕事からすると、これは少しあり得ない粗なのですよ。神たる私が違和を感じる程度には……ああ、そういう事ですか!」
半透明のバゼリナは手をぽんと叩く仕草をした。
「どうした?」
「お答えはできませんが問題はありませんよ。織物に例えるなら、花柄を織る時にもう少し花を増やせる余裕のある意匠にしてあり、いわばその岐路なのです。かつての黒い方は想定より疲弊しており、それを減らせる措置ですね。その為のゆとりです。つまり花が増えます」
花が増える、という喩えに女性の比喩を感じ取ったルインは、あえてそれ以上聞かないことにした。バゼリナの姿は幻影から色濃い姿に変わる。
「ああ、他の方には見えなくしているから大丈夫ですよ? ところで本題に入りますが……黒い方、そのシルニス様の神気を感じます。近くにおられませんか?」
ここでルインにはやっと遠い昔の諸々が思い出された。青い城とその馬小屋でのやり取りと共に、様々な宝飾品で身を飾った利発な女神の姿が鮮やかに蘇る。
「あのシルニスが近くに?」
「はい。心優しいあの方の事ですから、黒い方の事を近くで見守っている可能性が高いです。そもそも……」
バゼリナは両腕を大きく広げて目を閉じ、しばらく何かを感知するように集中していたが、やがてルインに向き直った。
「おそらくこのウロンダリアには、あの蒼い城の方々が何柱か、既にたどり着いています。気配がしますし、全てはそのように織り込まれていますから」
この言葉がルインの胸中にざらざらとした冷たい風のような何かを思い出させた。青く美しい城に集った、美しく力はあるが無限世界の理から外れた女神たち。
「確か……」
別れの時の緋の衣装の女神、イシュクラダの言葉が思い出される。
──私たちの運命は分かちがたく結びついています。その真実を知られるのはおそらくかなり先の事。あなたが私たちと無数の世界を慮ってこの城を後にすると仰るのなら、私たちも今はそれに従いましょう。
「……思い出したぞ」
──しかし、いつか再び私たちは集うでしょう。その時はおそらく『時の終わり』です……。
「バゼリナ、『時の終わり』が近いのか?」
ルインの慎重な問いにバゼリナは一瞬目を閉じ、開けて躊躇なく答えた。
「……はい、おそらくは」
「そうか……結局……」
ルインこと、ダークスレイヤーは立ち上がって少し進み、視線を二つの世界樹の都と森、彼方の山脈に移してしばらく無言で眺めていた。この男の胸中を知っているバゼリナは、その背中を見てこみあげてくる涙を止める事が出来なかった。
しかし、振り返った男は笑っていた。
「泣くなバゼリナ。おれももう理解しているよ」
「その笑顔、より泣きたくなります。あなたはあんなに戦い続けたのに……」
「世界は誰か一人の意志で変わるものであってはならないさ。おれはおれであるだけだ」
その言葉の鷹揚さにバゼリナは涙を拭き、ルインの手を取った。
「あの苛烈な闘いの日々さえそう言い切りますか。……今度は最後まで共にいます。まずはあなたの眠りを覚ました眠り女の方たちを一人一人、その運命から解放するお手伝いをしますね。それと、『西の櫓』でしたっけ? 幾つか気になる事があるので連れて行ってくださいませんか?」
「わかった。これから行こう」
ウロンダリアに忍び寄る『混沌』の予感と共に、無限世界全域の滅びの時が迫る不吉な空気が漂い始めていた。しかしルインは何のためらいも感傷も無く、当たり前のように次の行動に移った。姿を消してその後姿を見るバゼリナは、変わる事のないこの男の強い魂にわずかに微笑んだ。
first draft:2022.10.24
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