第四話 混沌の花の神ヴァラリス
西の櫓、大浴場だったはずの未知の領域。
『咲き乱れる妖花の女王』こと混沌の花の神ヴァラリスは、チェルシーの介入に大いに狼狽えていた。
「この領域にいる私を討伐する気か? しかし、これは我が本体ではないぞ。……私の話も聞かずに私を追い払ったとして、みじめな結末にしかならぬぞ? そもそも夢魔の女よ、お前は私がその男と敵対しても生きながらえると考えるほどに愚かな、混沌のみの存在だと考えているのか?」
ヴァラリスは紅蓮の花を模した宝石の玉座を呼び出すと、精巧な花柄の黒の薄衣を羽織って座し、尊大な雰囲気に戻った。両の耳の上に深紅の花飾りが現れ、ルインに意味深に微笑みかける。
「媚びた態度をあまり取らないでほしいんですけどね。そしてまーたこの流れですか……」
チェルシーが再びはたきを剣に変えた。しかしヴァラリスは意に介せず話を続ける。
「私も殺される可能性さえ考慮してここに来ているぞ。最悪の消滅を免れたい故な。とはいえ夢魔の姫が警戒して話しづらいゆえ、結論から語ろう。……まず、私もまた純粋な『混沌』の存在ではない。よって、この後の我らが王とお前たちとの戦いで滅ぼされたくはないのだ。もっとも……」
ヴァラリスは凄みのある笑みを浮かべた。
「私を完全に殺せば、『薔薇の眠り人』ロザリエもまたその宿命が終焉を迎えて死ぬことになるのだがな」
「……どういう意味です?」
珍しい事にチェルシーが動揺した。
ヴァラリスは美しい脚を組みなおして不遜な空気で話を続ける。
「まず、この状況には最初から欺瞞がある。普段は厳重な結界のあるこの場所において、なぜ異国の花多くして私が現れやすい状態になっていたのか? 簡単に言えば仕組まれた運命の操作だな。そして私とあの女は、お前たちの選択によっては最小限の役割を果たして舞台から去ることになる。雑な死と消滅によってな」
この時、一瞬ルインの視界はチェルシーの髪の色と同じ色調を帯び、すぐに戻った。
(なんだ?)
チェルシーははたきを剣に変えたまま腕を組み、慎重に答える。
「……嘘を言ってないですね」
「当然であろう。その男が現れたらおしまいだからな。我らが王たる神ゼスナブルならわからぬやもしれぬが」
「気になるのはそこです。『混沌』はとても厄介な概念の一つだけど、あなたはなぜ造反するような事を?」
「まずその認識から間違っているぞ、夢魔よ。我ら『混沌』の印章は知っておろう?」
ヴァラリスは右の掌の上に燃えるようなオレンジ色の光で輝く混沌の印章『円から八方向に延びる矢印』を出現させた。
「さながらこの矢印のように自由なはずなのだ。本来の『混沌』ならな。私は自らの意志に従うまで。そして……叶うならばその男、ダークスレイヤーの扱う力に触れ、永遠性を獲得したいのだ。今度こそ本物のな。……我が動機の始まりは見せてやろう」
押し寄せる波のように明るい夏の光が広がり、周囲は夏の草花の延々と続くさわやかな草原となった。玉座に座していたヴァラリスの姿は、草花柄の薄い若草色のドレスに草花を編んだ花輪を冠と首飾りにした、黒髪の素朴な若い女の姿となった。
「私はかつて、とうに滅んだ世界において、一年で死と再生を繰り返す位の低い草原の女神であった。或いは強い精霊だったやも知れぬ。少女たちに命の短さと『花の盛り』を伝えていた気もするな。しかし、一年で死と再生を繰り返す私はいずれ人々から忘れ去られ、零落し、やがてあの遠い世界はおそらく『混沌』に呑まれ、渇望を抱えていた私はこの姿となったのだ。……笑うがいい。この素朴で力のない、一年で死しては生まれる哀れな神を」
ヴァラリスは素朴な姿に似合わない自嘲気味の笑みを浮かべたが、しばらく黙っていたルインが沈黙を破った。
「いや、その姿もまた素朴で可愛らしいしものだし、無限世界には実に多くの神と呼ばれる存在がいるが、多くの場合、その責務は尊いものだ。たとえ時代と共に役割が終わったとしてもな。……しかし、それで消滅せずに残る渇望とは何だ?」
ヴァラリスは苦悶するように目を閉じた。胸や首筋、目から鮮血がとめどなくあふれ、草原は血に染まり始めた。
「どういう事⁉」
驚くチェルシーに対して、ルインはわずかに真面目な表情になるにとどめていた。ヴァラリスは涙のように血の滴る赤い目を開けると、押し殺した声で話を続けた。
「私を崇めていた民たちは牧畜で生きる草原の民であった。牧畜を行うには季節と共に草原は豊かにあらねばならぬ。しかし草花の生育が悪そうな年は、その民たちは病弱な少女を草原に生贄として捧げたのだ。豊かな草原を願う者もおれば、本心はそうでない者もいる。その思いは神たる私でさえとても一言にはまとめられぬがな、慰撫するには男性性が求められている部分は多分にあるのだ。……これは私自身の渇望でもあるかもしれぬがな」
様々な情景や思いが突風の様に過ぎ去ってゆく。しかし多いのは、死への恐怖や緊張、身体が弱く短命な自分が得られなかった未完の情念だった。
「かわいそう……今でもたくさんの思いが残っているのね……」
意外なことにチェルシーが共感しており、ルインは驚く。
「混沌の相の時に私がしばしば見せる憎悪は、いけにえにされる少女たちが世界を呪った気持ちの名残なのだ。神としては弱かった私の主たる部分やもしれぬほどだ。私は……お前たちが『邪悪な混沌の花の神』と呼ぶ私は、紆余曲折を経てそう呼ばれる存在に至っただけだ」
「話の筋は通っているな。……しかし、ロザリエまでその運命に巻き込まれている理由はなんだ? ロザリエが君と戦い続けているのは理由があるのか?」
この疑問はヴァラリスが答えたかったもののようで、待っていた事を感じさせる笑みを浮かべた。場に暗い光が満ちると血なまぐさい夏の草原は消え、緑青のような緑、赤や黒の錆びのような重い色をした、金属質の荊の森と、薄紫の目をした赤い髪の大きな女性の姿を取って現れた。また異なる神格だった。
「また違う姿に……」
「この姿は既に混沌に飲まれた世界イルリフにおいて、私が取り込んだ荊の女神ソーナのものだ。あのロザリエという女はソーナの使徒だったのだ。私はソーナの大部分は混沌の力によって奪えたが、ソーナはおのれの神性と権能の一部をあの女に託したのだ。……やがて、長い戦いで我らは混じり合い、分離し、『分かちがたく、しかし分かたれたるもの』となってしまったのだ。もはや戦いつつも、共に在り続けるしかないという因果のみを残してな……」
「うわぁ……色々と腑に落ちましたけど、まためんどくさい事に……」
チェルシーはまたも大変な面倒ごとに巻き込まれたルインを見やったが、ルインは静かな笑みを浮かべている。意図の分からない落ち着いた笑みに、元の混沌の姿に戻ったヴァラリスは不機嫌そうに問う。
「私を嘲笑する気か?」
しかし、ルインはそれには答えずにチェルシーに問う。
「この話にも嘘や欺瞞は」
「ないですね。真実です……残念ながら」
ヴァラリスに向き直ったルインの顔には何の迷いもなかった。
「承知した。話を聞こう」
この言葉に、神たるヴァラリスが驚愕の表情を浮かべた。
「そなた気が良すぎはせぬか⁉ 邪悪な混沌の神と呼ばれる私の話にそのように対応するのか。……いや、これはそなたの強い男性性がやや神性に見えるほど強いだけか。これを裏切るようなことあらば、私は何者より価値のない存在となり果てるな……恐るべき鷹揚さよ」
「過去の歴史がどうあれ、まずおれは今のところ君からは利しか得ていない。ロザリエにもマントの留め具を貰ったし、そういう運命なのだろう。共に失われてしまうなら、それは止めさせてもらう。ただし……」
ルインの空気が張り詰める。ヴァラリスは礼を尽くす意味でルインの話に先回りした。
「分かっておる。必要ならば私を側妃のように扱うが良い。我が混沌の瞳はそなた以外の者にけぶらせはせぬ。約束しよう」
「違う。そのような礼は一切求めないし、そのような礼は返さないでくれ。釣り合いの取れる範囲でこちらに助力し、ウロンダリア及び他者を毀損しない行いを約束してもらいたい」
ヴァラリスは再び驚きの表情を浮かべたが、燃えるようなオレンジ色の瞳の光は陰り、その後は暗く寂しげに視線を外した。
「もちろんそれらの約定は守るが……そうか、私にはそんなにも魅力も価値もないと言うか……伝説の強き男にそう断言されると、私もかように小娘のように揺らぐのだな」
花がしおれるような気配が漂い、実際に周囲の花々は色あせ始めた。
(落ち込んだ……?)
ルインは自分の失言に気づく。しかし相手はウロンダリアに災厄をもたらした混沌の神であるため、自分の対応に間違いはないはずだとチェルシーを見やった。明らかに笑いをこらえている空気をルインは感じたが、それでもチェルシーは真面目に苦言を呈する。
「ご主人様、相手も女性なんだからもう少し気を使ってあげた方が良かったかも。せっかく、ウロンダリアの命運をいい方向に引っ張れるし、すごく心強い助力も得られるんだから、『何の関心もない』みたいに断言しちゃうのはちょっとこう……いや、無欲で相手に敬意を持っているのはすごくいい事なんですけどね。言い方です、言い方! くふっ」
(今笑ったか? ……いや)
ルインは軽く咳ばらいをし、今や枯れた花弁が舞い散って落ち込んでいるヴァラリスに声をかけた。
「その……少し誤解があったかもしれないが、そのような見返りを求めないというのはあくまで敬意によるものであって、むしろこの件を請け負うのは以前のキスや、その瞳、美しい姿に大いに意義を感じての事だ。混沌の女神のそのような姿を見られ、信頼を得られる栄誉は、無限世界広しと言えどまずない事なのは理解している。それゆえだ」
ヴァラリスはしばらく顔を伏せていたが、やがてゆっくりと顔を上げた。
「あまり欲望の無い姿勢はかえって女が傷ついたり、女を引き寄せる場合があるのだぞ? そなたはそれを分かっているのか、分からぬのか、なかなか難解な男だな。まあ、私がこうして心揺さぶられる時点で実に有益な男だが……少し傷つくところであったぞ。それに……」
ヴァラリスはまた足を組みなおして黒地に深紅の花柄の扇子を取り出すと、口元を隠して小声で続けた。
「例えば私が今後約定と貞淑を示し続けた末、そなたを求めたら応じて欲しいものだがな」
「あー、それは多分駄目ですねー」
ルインより先にチェルシーが答える。
「何だと? なぜおまえがそれに答えるのだ夢魔よ」
「その話はご主人様に対しての無理解に過ぎる非礼になりかねない、と言ったら理解してくれますか? 現時点で、あなたの言う事にご主人様は理解を示しました。約定を結び、次の機会まで一旦身を引いた方が良いと思いますよ? 私も『小言』を言いませんし」
ヴァラリスの眼に一瞬の思慮が漂う。
「……良かろう。『心臓の指の契り』で良いな?」
「『心臓の指の契り』ですか? そこまで⁉」
「驚くのか夢魔の姫。私は戯れでここに来ているのではないぞ? 貞淑を示すとも言ったはずだが」
「んー……それなら何も言う事はないですね、困ったことに」
チェルシーは少しだけ含みのある言い方をし、ルインに向き直った。
「『心臓の指の契り』は、その誓いを破ったら破滅がもたらされる罰を自分に課す強力な誓約です。ヴァラリスはそれを辞さないと言っていますがどうします? 私の見立てでは事実上、この契約をご主人様が受け入れた時点で、混沌の花の神ヴァラリスのウロンダリアに対する脅威はとても低くなり、むしろ有益な状態になったと言えますが」
「……受けるよ。そこまでの覚悟があるならな」
ルインは湯から立ち上がりつつ黒炎を纏い、衣服を一瞬で身にまとった。それは『西の櫓』でルイン用に用意されたものではない、永劫回帰獄の技巧の神が作った、戦装束にもなる礼服だった。その上にバゼリナの編んだ黒炎のマントが揺らぐ。
「はー……」
「私との契約に装いを整えるか……」
その威風漂う姿にチェルシーとヴァラリスが息を呑んだ。
「大事な契約なら湯上りで素っ裸というわけにもいかないだろう?」
黒の薄衣姿だったヴァラリスも玉座から立ち上がり、その身を隠すように白い花びらが舞うと、質素だが控えめに露出の多い純白のドレス姿となった。チェルシーはその姿に品の良さを感じたが口には出さない。
「で、どうすればいい?」
「この場合は私がそちらに歩み寄る。『心臓の指』すなわち、左手の小指の前の指を出してくれ」
ルインは言われたとおりにその指を差し出した。
「心臓に最も近きこの指は、魔術や契約において重大な意味を持つ」
ヴァラリスは言いながら、同じく自分の細い、しかし力に満ちた白い指を伸ばした。慎重に伸ばされた指はルインの指に触れた刹那に、黒い火花が散ってわずかに火が燃える。その一瞬に、ルインは邪悪と混沌の彼方のヴァラリスの心を垣間見たような気がした。
女の姿をした巨大な領域の根底に渦巻く、哀しみと憎悪、孤独、果たされなかった思い。神として現れながら、最後には誰にも省みられず忘れ去られつつも、生贄にされた少女たちの思いを抱えたまま消える事もできなかった。強大な力と女の部分を持ちながら、『混沌』の可能性に思いを託してここに至り、いま自分と対峙しているとルインは理解した。
「そなたの気の持ちようと相性によっては、私は黒炎で焼かれる可能性もあった。しかし……」
ヴァラリスの指が一瞬のためらいの後、ルインの指と絡む。男女の契りを思わせる生々しさがどこかに漂っていたが、その雰囲気はヴァラリスの身体を蛇のように素早く走った黒炎が消した。
目を閉じ、胸に手をあててヴァラリスはしばし呻くと、その身体を走る黒炎は何箇所かに黒いリボンとして現れ、衣装の一部となった。
「『心臓の指の契約』によって、私がそなたの意に反する行いをした場合、この身に破滅がもたらされる事を誓う」
ヴァラリスの左目からうっすらと血が混じったような涙が流れ落ち、やがて眼を開けたその顔からは少しだけ邪悪さや険しさが消えていた。
「私の長き不明の旅はようやく行き着くべきところを見つけたやもしれぬ。私は以降、そなたに貞淑も誓おう」
「え⁉ 待ってそれは誓い過ぎ!」
チェルシーが慌てて声を上げたがヴァラリスは悪戯めいた笑みを浮かべ、やがて少し名残惜しそうに絡めていた指を離した。
「眠り人……いや、ダークスレイヤーよ。そなたは存外に甘い男なのだな。そんな男が稀に楽しんでいた風呂の時間を邪魔して悪かった。代価は手配する。そして夢魔の姫よ、面倒をかけたが以降よろしく頼む。そなたらとも敵対する気は当然ないのだ……」
以前よりもどこか明るくなった色調の花びらが吹雪のように舞い、ヴァラリスは姿を消した。やがて、その気配が去ると共に周囲は西の櫓の大浴場に戻り、正装したルインとチェルシーが立ち尽くしていた。
「説明は受けたが、そうか、おれはなかなかに風呂をゆっくり楽しめないのだな……。とりあえずウロンダリアの混沌の災いを神一柱分は軽減できたと喜ぶべきか」
「そこですか? そこじゃないですよご主人様! ああもう、やられた! まさか『混沌』の女神までこんな事に……いや、バゼリナさんの時からこの可能性も考えるべきでした。悔しい! 読み切れなかった!」
チェルシーははたきを振り回しながら地団太を踏んでいる。
「何か問題があったか?」
「大ありです! ヴァラリスは『貞淑を誓う』と言ったでしょう? あれはすごく強力な婚姻に等しいものです。ご主人様以外の何者にも身を任せないって事なんです。男の人への欲望にどれほど焦がれたとしても、ご主人様以外にはそれを求めないって事なんですよ!」
「そこまで強い意味が? ……待て、それはやり過ぎだろう!」
「だから誓い過ぎって言いました! 強気でそう見えませんでしたけど、あのヴァラリスがとても淑やかにご主人様に仕えている形になってます。一方通行の誓約なので側妃や、言い方は悪いけど愛人みたいな……」
「なぜそこまでする…………」
絶句したルインは掌で額の辺りを掴み、しばし目を閉じた。
「ですよねー……」
しかし、チェルシーのルインを見る目がとても好ましいものを見るものである事にルインは気づいていなかった。その気になれば使い捨てのように絶大な快楽や利益を得られる関係を手にしたのに、相手の自由を第一に案じているその姿はとても貴いものだった。
「ああ……」
嘆息しながらバゼリナが姿を現す。
「本当に『花』が増えてしまいましたね。しかも稀有な花がおそらく二輪も……」
申し訳なさそうに言うバゼリナに対して、やがて浴室の天井を見上げたルインは独り言ちた。
「まあ仕方ない。綺麗な花園の番人を務めるのも栄誉か……」
この言葉にバゼリナとチェルシーは思わず顔を見合わせた。まるで一輪たりとも『花』を摘む考えが無いように聞こえている。
「ところで」
ルインは二人に振り向く。
「ヴァラリスも具体的な頼みごとが何か、忘れてないか?」
「あっ、そう言えばそうかも」
混沌の女神もそれくらいには余裕がなかったらしいと三者は気づいた。
「とりあえずご主人様とバゼリナさん、お茶にでもしません? お話もありますし」
「そうさせてもらおう」
「……ご一緒いたします」
ウロンダリアの歴史に重大な影響を及ぼす契約が為されたこの日は、ルインの溜め息のようにけだるげに過ぎていこうとしつつあった。
first draft:2022.11.16
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