陽炎の憂い・後編

陽炎かげろうの憂い・後編

 無限世界イスターナルのかつて見捨てられた地ウダル・カ・ラ。破局噴火にも奇跡的に残ったマリーシア神殿。

 陽炎かげろうの武神マリーシアと、『闇の王』ゴルムオーズの静かな対峙を最初に破ったのはゴルムオーズだった。

「黙れ界央セトラの地の犬どもが!」

 ゴルムオーズは大木のような左腕でマリーシアをつかむべく大振りした。しかし次の瞬間にはその腕に引かれるように姿勢を崩し、勢い余って巨体が神殿の壁に激突した。地響きと共にその巨体に石材と石の粉が降り注ぐが、ゴルムオーズは素早く大勢を立て直す。

 マリーシアの姿は人々の視界から消え、やや離れた場所に現れた。凛々りりしく結ばれていた口がみがかれた剣のきらめきのように美しい声で言葉を放つ。

「それは悪しき構え。腕に力を乗せ過ぎだ。とても私には届かない」

「何だと……!」

「武器を用い、正しく私に届かせられるか見せてみるがいい」

「貴様!」

 ゴルムオーズは棍棒こんぼうを拾い上げると油断なく深い踏み込みから大振りで棍棒を振り下ろした。しかし、半端に潰れるような動きで足が崩れ、棍棒を叩きつける勢いのまま、なぜか無様に姿勢が潰れて顔から石床に激突する。再び神殿がぐらぐらと揺れた。

「それもまた悪しき構え。軸足じくあし緩く容易に崩せる」

 現れたマリーシアは呆れるように指摘した。

(こ、高度過ぎて何をしているのか全く分からぬ……)

 この様子を見ていた老神官は、自分がかなりの武術の達人であったにもかかわらず、それでもマリーシアの動きは全く見えなかった。言葉を解釈するなら一撃目はかわしたうえでゴルムオーズの勢いをそのまま利用し、二撃めは軸足を崩したらしい。

 マリーシアの瞳はまた瞳孔が消え、淡い南国の海のような水色の光を帯びた。

「三撃外したら私は一度だけ攻撃する。それで良いな?」

「馬鹿にしおって!」

 怒りに震えていたゴルムオーズの肩が膨れ上がり、そこから巨腕きょわんが生えてきて六本腕の姿となった。さらにそれらの手の先に赤黒い炎が燃えて棍棒や丸盾となる。

「お前は手足を全てもいで闇の子をはらむ肉袋にしてやる!」

 ゴルムオーズは武器を構えつつ、臓物を握りつぶされるような恐ろしい呪詛の言葉を放ったが、マリーシアの結ばれた口元にわずかに笑みが漂った。

「……その意気やよし!」

 ゴルムオーズは咆哮ほうこうを上げて六本の腕を振るう。しかし一瞬でマリーシアの姿を見失ってしまった。マリーシアの声が響く。

「握り甘く、勢いのみ。我が姿もとらえられぬであろう」

「黙れ!」

 どこからか響く声に、ゴルムオーズは嵐のように六本の巨腕を振り回すが全く手ごたえはない。

「盾の握り甘く」

 見えない何かが盾を持っていたゴルムオーズの手首を叩き、丸盾が吹っ飛んだ。

「棍棒はこしらえも悪く、すぐに抜けるであろう」

 また何かがゴルムオーズの手首を打ちえ、握りから抜けた二本の棍棒が神殿の天井に傷をつけて落下した。

「なぜだ! 姿を消そうが気配は読めるというに⁉」

 ゴルムオーズはやみくもに攻撃していたわけではなかった。忌々いまいましいマリーシアが姿を消す力があるのは知っていたが、その上で何もない空間でも気配を察知した場所を狙っているのに全く手ごたえはない。察したように威厳あるマリーシアの声が響く。

「気配有れど姿そこにあらず。悪しき者は心弱く、弱き故に多くの敵を作り出す。はたしてそのような者に真の敵の姿は見えようか? 我こそは『陽炎かげろう』なり……」

 声のした前方をゴルムオーズは大きな拳で叩き潰したが、やはり手ごたえはなかった。

「おのれ!」

 ゴルムオーズは身体をより大きくして一つの棍棒を六本の腕で掴むと、全てを圧するように突進をしてぶちかましを仕掛けた。

「ここまでやれば逃げる隙はあるまい! つぶしてくれるわ!」

 しかし、ゴルムオーズの巨体はわずかに浮いて急加速すると、神殿正面の壁にひどくめり込むように突っ込み、その背後にマリーシアが降り立った。何かに絡めていたと思われる左腕の細い鎖がきらきらと巻き戻る。

「またもや悪しき構え。我が鎖索ささく(※ひも状の細い鎖。悪を捉える神具)により足を浮かせば、自らの勢いが身を亡ぼす程度。悪とはかように自縛じばくことわりを持つものだ」

「ならば数ではどうだ! ……来い、我が眷族けんぞくウグベラどもよ!」

 外と通じる崩れた開口部から、あのただれた灰色の肌をした有翼の魔物たちがわらわらと現れ始めた。空中に飛びあがったマリーシアはあろうことがその魔物たちの頭を踏み台にしながら空中を渡り、次々と水晶の六角棍ろっかくこんでそれらを撃ち砕いてゆく。

 この様子に老神官は思う所があった。

「あれは伝説の歩法『霞渡かすみわたり』では⁉」

「……遠巻きにして火の槍を投げかけろ!」

 体勢を整えつつ苛立いらだたたし気に叫ぶゴルムオーズに対し、ウグベラと呼ばれた痩身そうしんの魔物たちは距離を取って集結すると、それぞれの掲げた手に凶悪な逆棘さかとげのついた燃える炎の投げ槍が現れた。それは暗い空を照らして夕日のように周囲を浮かび上がらせるほどだったが、マリーシアは跳躍して崩れた神殿の壁の上に立った。

「放て!」

 ゴルムオーズの声とともにウグベラたちは神殿を埋め尽くすほどの炎の投げ槍を放つ。迫りくる火の海の前に、ここで初めてマリーシアは水晶の棍を構えると、尖った六角棍の先を無数の火の投げ槍に向け、受け流すように半回転して弧を描いた。火の投げ槍はその動きに従うように、或いは魚の群れのように半円を描いて迂回して戻り、濁った赤い炎から澄んだ青い炎に変わってあべこべにウグベラたちを串刺しにして燃やした。

「おお、あれこそはマリーシア様の奥義『乾坤けんこん巻き返し』では?」

 老神官は再び感嘆の声を上げる。

「我が武により攻撃の線を捉えて相手に返す。いわば初歩の返し技に過ぎない。また、魔道に落ちた言葉とは、真なる神の言葉を狭く曲解きょくかいし歪めたもの。それを正さば因果は常に自らに返るものだ」

 断末魔と共に炎に包まれて落ちていくウグベラたちの前に、マリーシアは事も無げにつぶやいた。

(つまり、魔物どもの魔術の本質を理解して本来の性質に戻して返したと?)

 この緊張の中にあってもマリーシアの言葉を学ばんとしていた老神官は、その言葉の意味を解するのに夢中で恐怖はどこかに追いやられていた。それでも神の言葉はとても難しいものだった。

「数に任せて捕えて八つ裂きにしろ!」

 主の指示を聞き、ウグベラの大群は恐ろしい奇声を上げながらマリーシアに向かう。しかしマリーシアは静かな溜め息を漏らすと、見事な三龍さんりゅうの刻まれた六角棍さえそばに置いた。

(それさえも要らぬと⁉)

 老神官はマリーシアの様子を察して絶句する。マリーシアは手刀で小さめに構えた。

「ついでにこの灰も少し払う」

 闇の大きな塊のようなウグベラたちの大群が迫り来たが、マリーシアは手刀のまま、静かに引き手を取り、一気に掌底を突き出した。

──無手むて空圧波くうあつは

 衝撃波が空間を伝播でんぱし、ウグベラたちの背中が破裂すると背骨が突き出し、その全てが墜落して小さな山を作った。

「力とは時に波。くう、またはふうに合わせて正しい飛翔が出来ていれば波の一部となり、命までは失わぬ程度に技を放った。しかし、魔物ゆえの傲慢ごうまんさは愚かなる力の飛翔。理念なき飛翔の末路はこのようなもの……」

 何かむなしいものを見たようにマリーシアは独り言ちる。

「……何だ! 貴様のその強さは! 貴様はかつてここではそれほどの武威を見せなかったはず!」

 ゴルムオーズの声には狼狽ろうばいが漂い始めていた。マリーシアは脱力して倒れるように落下すると、緩やかな一回転ののちふわりと着地して神殿の中央付近に進む。

「すでに趨勢すうせいの決した戦いに、戦後の報奨ほうしょうを語る者たち多く、また一対多の戦いに何を見出せるものがあろうか?」

 マリーシアの結ばれた口にわずかに笑みが漂っていた。

(我らはマリーシア様の事を崇めるばかりで、何も理解しておらなんだか……)

 老神官の胸に、この大災害に至る長い歴史での自分たち人間の考えが、いかに浅いものであったかという気付きが鈍い痛みをもたらし始めていた。そして、どれほど長い年月を経ても変わることなく再び自分たちの前に姿を現し、強大な敵を前にして立つマリーシアの姿に心から敬服の念が湧いてきていた。

「私はこの戦いを歓迎する。闇の王ゴルムオーズ」

「余をどこまで愚弄ぐろうするのだ!」

 ゴルムオーズは赤黒い炎を呼び出し、いびつに牙の並んだようななたとものこぎりともつかない獲物を三本の腕でつかんだ。

「貴様ら神々を切り刻んで喰いまくったこれで、貴様のはらわたも喰ろうてやるわ!」

──闇の王の神喰かみくい包丁。

 赤黒い呪詛じゅその炎をまとうその大包丁は、揺らめく邪悪な空気に触れただけで神殿の壁が腐れ落ち始めるほどの瘴気しょうきに満ちている。しかし、マリーシアが深く呼吸を整えると、神殿にあおきらめく神気が満ちて、神喰い包丁の瘴気はかなり抑えられた。

「これで勝てぬはずがないのだ!」

 隙のない突進と共に神喰い包丁が振り下ろされ、包丁それ自体も恐ろしい叫び声を上げた。マリーシアの目の輝きが強くなる。

──神眼しんがん死生針点しせいしんてんの見切り。

 マリーシアは迫りくる刃に対して水晶の棍で突きを放ち、ゴルムオーズの恐ろしい包丁の刃を突いた。鋭く重い、何かが割れるような音が響く。

──棍法こんぽう燈心消とうしんけし、虚穿うつろうがち。

 果たして、ゴルムオーズの大包丁は神殿の床に深く食い込んだが、その直前に途中から割れて三分の二ほどが吹き飛び、断面がマリーシアのわずか前に見えている状態になった。突風がマリーシアの髪をなびかせるが、その表情は涼しげなものだった。

「……あり得ぬ! なぜこれほどまでに強い⁉」

「悪とは大抵は堕落だらくすなわち、時と共に弱くなる者に私が遅れを取る道理があるだろうか?」

 どこを見ているか分からないマリーシアの目は、ゴルムオーズが全く歯牙にもかからず、視野にも映らない存在と言っているようなものだった。

「……貴様、貴様、貴様貴様貴様貴様ァ!」

 怒り狂う闇の王の動きはもう暴力の嵐そのものだった。マリーシアはわずかに距離を取り、ここでまた水晶の棍を投げ捨てるように放り投げたが、それは壁際の槍架やりかけに見事に収まった。

「またもそれさえも要らぬと言うか! 余をどこまで見下せば気が済む! このように扱われる自分も貴様も許せぬ! 焼き尽くしてくれん! かつてこの地にあった小生意気な国をそうしたようにな!」

 ゴルムオーズの腹にさっと線が入り、牙だらけの大きな口が開く。その奥は異なる世界の溶岩の海のように煮えたぎっていた。

(いかん、あれは……!)

 それはこのウダル・カ・ラの地を焼き尽くしたとされる地獄の炎の咆哮ほうこうの前触れだった。かつて天から降りて来たこの闇の王は、最も反抗的だった大国をこの咆哮で一夜にして灼熱の荒れ地に変えたと言い伝えられている。

「焼き豚のように死ね!」

 しかし、空間そのものが切り裂かれるような鋭い音がし、気付けばマリーシアの右手は手刀の形になってかかげられていた。

「……何だ? 動け……ぬ」

 ゴルムオーズの背後の神殿の分厚い壁が、斜めに斬られてずり落ち、倒れて石の粉を煙のように舞い上げる。

「まさ……か……!」

「勝敗は決した。さらば闇の王ゴルムオーズ。もう少し私の武の足しになって欲しかったが……」

「余が……! このような! 武神マリーシア、なんという……!」

──無手むて真空斬しんくうぎり。

 憎しみに満ちたゴルムオーズの目の焦点はぼやけて虚ろになり、その口から大量の青黒い血が噴き出し、腹の大きな口からは発火性の血が少し溢れると、やがて頭から足まで背後の神殿の壁と同じくずり落ち、炎に包まれると闇のかすみとなって霧散むさんした。

「およそ理由なく何かを敵とする者、真の敵は内なる心にあり。これは己を知らぬ心であり、故に私の真なる姿をとらえる事はかなわない」

 マリーシアはつぶやいて、目の光を抑えて瞳孔のある瞳にすると、言葉を失っている周囲の者たちを見やった。周囲の者たちはマリーシアの様子に気付いて全員が平伏する。

「先ほども述べたが、長い歴史の中には死地もあろう。死す者多い事もあろう。しかし、私もまた変わらずこの地にあろうと思う。穏やかな日ばかりが尊いのではない。死と隣り合わせの日々は時に己を磨き、何より尊い刃とすることもある。また共に歩いて行こう」

 マリーシアの最後の言葉には、平伏している者たちの心にも直接届くような暖かな光が満ちていた。人々は力あるマリーシアの言葉に感動して勇気を貰い、再び立ち上がる力を得始めていたが、マリーシアは遠い昔に比べると良く言えば穏やかな、悪く言えば活性をだいぶ失った人々に対して、ある哀しい疑念が浮かび上がり、憂いの感情が湧き上がってきていた。

(いつくしむべき人々だが……)

 進んだ文明と長い平和が、一人一人が自分の道を切り開く思考と活力を緩やかに奪い、だいぶ弱く小粒にしてしまったようにマリーシアには見えていた。

(長い平和には、何か緩慢かんまんな毒が含まれてはいないか?)

 長く答えの出ない、マリーシアの憂いの始まりだった。

 こうして、永い瞑想めいそうをやめてウダル・カ・ラに再び現れたマリーシアは、打ちひしがれた人々を再び導く事となった。しかし、その心には以前とは何かが異なる深いうれいが横たわるようになっていた。

──マリーシアが次第にその名を消されていった理由は幾つかある。聖魔王イスラウスの妻たちが彼女を近づけたがらなかった事。彼女に敗れた多くの男神たちが彼女を良く思わなかった事。そして何より、彼女は争いや不和を肯定していたからだとされている。

──大賢者アンサール著『喪神記そうじんき』より。

first draft:2023.1.23

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