第二話 眠れぬ夜の密談
影人の皇女クロウディアは、しばしば見る悪夢の中にいた。
「ダーサお父様、マヌお母様!」
影人の帝国、インス・オムブラの繊細かつ荘厳な宮殿、アンルーシェの広間を、クロウディアは両親の名を叫びつつ走っていた。
──クロウディア……。
──クロウディア!
父と母の声がする。クロウディアは二人の安否を確かめ救いたいと思っていたが、裏腹に足はひたすら逆方向へ逃げるように遠ざかっていく。
(違う! 私はお父様とお母様を助けなくては!)
しかし、美しい宮殿は緑や紫に穢れた闇に侵食され始め、無機物だった床や壁は生き物のように脈動を始めていた。それらに取り込まれたらどのようになるのか? 未知の恐怖がクロウディアの心に冷たい牙を突き立て始めていた。
(ああ、違う! ……違う! 私は……)
走るクロウディアの前に、巨人のような影が立ちふさがった。
「くっ! 邪魔を!」
クロウディアは一瞬で影人の暗黒騎士の甲冑を纏うと、片側が炎上刃になった剣、ブラインドラで果敢に影に斬りかかった。しかし、影は岩の板のような大きな手でクロウディアごと薙ぎ払い、剣が飛ばされ、クロウディアの甲冑も消えてしまった。
「ああっ!」
「無駄ですよ、クロウディア様」
影の巨人は、二本の長い角の生えた兜の暗黒騎士姿になった。
「あなたは、アレクシオス! なぜあなたがこんな事を?」
「私は知った。影人が混沌の力を持てば、地上に敵するものなどもはや存在しないと! 私が目指した最強がここにあると!」
「何を……何を言っているのよ!」
いつの間にか破れかけた黒い外出ドレス姿になっていたクロウディアは、それでも影の曲剣ウームブラを呼び出し、果敢に切りかかる。しかし、その斬撃は大きな掌であっさりと受け止められ、剣ごと腕を掴まれると持ち上げられ、クロウディアは吊り下げられた形となった。
「放しなさい!」
「女の力などこんなものだ。しかし、その血に宿る影人の力は絶大なる意味を持つ。私か、我が神の花嫁になる運命は決して変えられぬ。そして、我が神にこれほどの者を渡すほど、私は愚鈍ではない。……何より、この美しさよ!」
兜の隙間から覗くアレクシオスの眼は、汚らわしい欲望に濁っていた。汚い動物の舌にでも舐められるような視線が肌を這う感覚に、クロウディアは意思より先に声を上げていた。
「ルイン……ルイーン‼」
「誰だ? 聞かぬ名前だが……何者だ⁉」
黒い炎のような影が現れると、レクシオスの両手が斬り落とされ、何者かのたくましい腕がクロウディアの胴を抱え、奪い去る。その何者かは離れた場所にクロウディアをそっとおろした。いつものように優しく笑うルインだった。
「どうなっている? とりあえずあれが敵か」
「ああ、ルイン!」
ルインはコートを脱ぐと、そっとクロウディアに放り投げた。
「肌が少し見えている。それを使ったらいい」
「ルイン、アレクシオスは我が暗黒騎士団の団長……だった人よ。とても強いわ」
「わかった。……下がっていろ。少し手合わせしてみる」
変わらぬ静かな笑顔で黒い魔剣を抜き、構えというにはあまりに無造作に剣を横に倒して敵に向かうルインだが、その鷹揚な背中は無敵の戦士のようだった。
「ルイン! ……あっ⁉」
クロウディアは真っ暗な私室の中で目を覚ました。冷たい汗が背中をじっとりと濡らしている。
(ああ、私ったら何という夢を! でも……)
以前はひどい結末になって飛び起きていた夢が、現在はいつもルインが助けに入って目覚める内容のものに変わっていた。
バルドスタでの大樹の魔王ザンディールとの戦いの時、クロウディアはごく短い時間だけルインの影に再び潜ったが、戦いの最中のルインの心の気炎はすさまじく、あの戦い以降、クロウディアの心の世界に、決して折れぬ鋼鉄の炎の柱が立ったような感覚が残り続けていた。
異物感があるのに決して嫌ではないこの感覚に、クロウディアは自分がまだ経験した事の無い、深い男女の関係をたまに連想していた。
(いえ、そんな事あるわけないわ……)
クロウディアは闇の中でも変わりなく見通せる影人の視力で周囲を見、水差しの水を黒曜石のゴブレットに注いでは二口ほど飲んで一息ついた。悪夢が夢に過ぎず、恐ろしい未来の示唆ではない事と、ルインに関する部分はどこか自分の未熟さのせいなのだと納得しようとしていた。
(少し夜風に当たった方がいいわね)
春もだいぶ深まったとはいえ、深夜はまだだいぶ涼しい。クロウディアは上階のバルコニーに出て春の星空を眺めつつ、魔の都の深夜の灯火と喧騒を眺める。酒を呑んで上機嫌な様々な種族の楽し気な声が、柔い春の夜風に乗って聞こえてきていた。
「あらあら、眠れませんか?」
「チェルシー!」
振り向けば、いつの間にか近くにチェルシーが立っていた。
「いつも思うけど、本当に気配を消すのが上手よね」
「正確には『気配を消す』のとはちょっと違うんですけれどね。それより、ご主人様の影に潜ったせいで、以前よりもっと眠れなくなったりしてません?」
チェルシーの質問が図星過ぎて、クロウディアは一瞬返答に困った。
「……なぜそれを?」
「少しだけ、男女の煩悶の空気が漂ってますからね。心地良い秘め事と困惑、そしてこれは少しの罪悪感、そして疑問ですかねー?」
「うっ……」
チェルシーが挙げた感情は全てクロウディアが今抱えていた気持ちそのままで、驚くと同時に何も言えなくなってしまった。チェルシーは構わず続ける。
「そろそろ悩むのもきつくなってきたでしょうし、幾つか話しますけど、まず、その状態って、下手すると男女が寝るよりよほど深い関係なんですよ」
「ええ⁉」
「ご主人様って、多分まだ完全には目覚めてないんです。その分、どこか夢を見ているのに近い部分があって、私たちだけはその心に触れやすいんですよ。影人の理は私もよくわからないんですけど、おそらく影の世界は心の世界とも繋がっています。ご主人様は私たちに対しては全く警戒心が無いし、変に意識もしていないので、クロウディアさんは一方的にあの強い心に触れてしまう事になります」
「待って、ルインはどう感じているの?」
「おそらくですけど、ちょっと心地よい感触かな? くらいでしょうか。まあ、クロウディアさんみたいな無垢の美人さんの『本質』に触れてるんですから、気分が悪いわけないと思います」
「えぇ……」
クロウディアは混乱しかけていた。自分がこれほど動揺しているのに、ルインはそんなに落ち着いていられるものだろうか? と。
「おそらく普通はそんなに影響受けないものなんですよ。ただ何というか、ご主人様はちょっと変わってるんです。クロウディアさんは考えすぎずに、心の支えになる部分だけ受け取っておけばいいと思いますよ?」
チェルシーはクロウディアの隣でバルコニーの手すりに手を掛けつつ、にっこりとほほ笑んだ。少女の顔をしていても、長く生きている者の深淵な知性を感じさせる何かがその眼の奥に感じられる。
「もう一つ、聞いても?」
「もちろんです」
クロウディアは少し逡巡していたが、意を決したように口を開いた。
「その……これって、例えば、他の誰かのもとに嫁げなくなるような出来事ではないわよね?」
「あー……どっちだと思います?」
チェルシーはおかしみを抑えた言いかたを匂わせていた。
「もしかして、そんな事なのかなって……私が意識し過ぎなのかしら?」
「……他の人に元に嫁ぐのに問題になるような事ではないですよー。人間の女の人は特に、こういう事気にしませんし」
チェルシーは背伸びをしつつ答えた。
「そうなのね? 私が未熟なだけね?」
「未熟と言いますか、純粋なんですよ。とってもいい事だと思います! ……おそらく、ご主人様にとってもね」
「え? ルインにとっても?」
「ええ。クロウディアさんがご主人様の心に触れて何かを感じているとして、それはクロウディアさんがご主人様の心の深い部分に立ち入れるって事ですからね。いつかはそれが意味を持ちますよ」
「そうなのね?」
クロウディアにはその意味がよく理解できなかった。しかし上位の魔族の姫たちは一人一人が何らかの魔術などの深遠に近い存在でもある。人間に近いクロウディアがそのすべてを聞いただけで理解するのはそもそもかなり難しい事のはずだ。それでも信頼のできるチェルシーがそう言っているのであれば、考えすぎる必要はなさそうに思えていた。
「ただ……」
「ただ?」
チェルシーは付け加えた。
「他の人のもとに嫁ぐなんて考えられなくなる可能性は高いでしょうねー」
「うっ、そうなのね?」
「あっ、心当たりありありな顔をしていますね? まあそれは無理もないですけど」
「その、とても話すのが楽だけれど、まるで心の中を全て見透かされているみたいね」
チェルシーは得意げに笑った。
「相手の夢を理解するのは私たち夢魔の本質ですからね。……そして、分かりやすく言うと、男の人には独特な保護性みたいなものがあるんです。何といったらいいでしょうかねぇ? 人間の学者が男性性とか言ってるものです。女の人が男の人に求める、強さと優しさみたいなものですね。ご主人様はそういうのがとても強いわけです。直接触れたらとても心地よいと思いますよ? たとえば、危機の時に無敵の戦士にずっと守ってもらっているような感覚ですね」
「ああ……とても分かりやすいわ」
クロウディアが見ているルインの夢そのものの指摘だった。
「ありがとう。少し落ち着いて眠れそうよ」
クロウディアは礼を言ってバルコニーから立ち去った。その気配が消えてから、チェルシーは櫓の開口部に向かって独り言ちる。
「……ごめんなさい。これしか方法がなさそうなんですよ」
魔の都の夜景に目を向けて、チェルシーはため息をついた。そこで、ラヴナの魔力の気配を感じる。
「見てたんですか?」
チェルシーの問いに、夜空から何者かが降りてきた気配がした。
「ん、まあ途中からね」
オーンの黒絹のナイトガウン姿のラヴナだった。
「ご主人様は?」
「まだ調べ物してるわ。腕輪の妹のほうに書類読んでもらいながら。……クロウディア、強く影響を受け始めているのね。それでも自分のまま。流石だわ。マヌの育て方がいいのね」
ラヴナの声は普段の可愛らしいものではなく、年季を感じさせる賢く経験豊富そうな大人の女の声だった。漂う色気は変わらないが、その色合いが深みを増している。
「あら? 何か真面目に話すつもり?」
チェルシーの声もまた、深い魅力のある、しかしどこか剣呑さを感じさせる大人の女の声になった。
「あなたこそ。まあ、たまにはね」
ラヴナはチェルシーの隣に来て、同じように手すりに手を乗せ、その上に顎を乗せた。
「セレニアの言う通りだったわね。本当に最後の眠り人としてダークスレイヤーが現れるなんて。しかも、その近くにあなたや私を置くなんて。当時は疑問ばかりだったけど、実際に会ってみるととても甘くて良い男ね。今は離れたくないわ。魔族の女にあの人は相性が良すぎるのよ。道理でお綺麗な女神たちでは駄目だったはずだわ」
「人の部分を持ちながらも闇に由来する、凄まじい暴力とそれをしのぐ理性は、女神たちでは闇に落ちてしまうものね。まあ、あの中身が人食い鬼みたいな戦闘狂の女神は別かもしれないけど……」
「ふふふ! 言い過ぎよチェルシー! こんな夜中に笑わせないで。確かにそうだけれど、あなただって大概でしょうに」
ラヴナは可笑しそうに口元に手を当てた。
「まあ、そんな戦闘狂と何度もやり合って、結局友達になってるあなたも大概だけれどね」
「まぁね」
ともに夜景を眺めるラヴナとチェルシーの背中は、可憐な少女と言ってもいい二人の姿に似つかわしくない威厳が漂ってさえいた。
「で、クロウディアの事なんだけれど、あの子とてもいい子よね。暗黒世界の影人の最後の生き残りでもあるし。マヌがとても愛情を注いで育てたのね。闇の力を持つのに無垢な愛も持つ、稀有な良い女よ。何とかして、『永遠の渚』まで連れて行きたいわ」
ラヴナの謎の言葉にチェルシーが頷く。
「あまり良い方法ではないけれど、結果が同じなら過程にこだわって後れを取るよりいいかなと思って」
「わかるわ。きっと間違ってないと思うもの。あたしたちが魔族だからこそ出来る事よ」
「魔族ねぇ。……で、自称魔族のラヴナさんは、欲しいものは順調に手に入っているのかしら?」
チェルシーは意味深な質問をした。
「……見たい?」
一瞬目を伏せたラヴナは、やや暗い笑みのある眼をした。
「ええ。とても興味あるわね」
「わかったわ。あたしとあなたの仲だしね」
ラヴナは周囲の人の気配を感知し、何も問題がない事を確認すると、バルコニーの中央付近まで移動して黒い円状の結界を張った。その全身は黒いもやに包まれたが、黒曜石の質感を持つ、二対四枚のドラゴンのような翼が大きく展開し、その付け根付近には目のような紫の光が二つ、闇を通して淡く輝いている。
「これはまた……!」
絶句するチェルシー。ラヴナはすぐに元の姿に戻った。
「ほんの少し触れて寝ているだけでこれよ?」
「やっぱり別格ね……」
「でしょう? あたしはもう何も言う事はないわ。……あなたはどうなの? リリスが出張って来るんじゃないの?」
ラヴナはチェルシーの種族、夢魔リリムの母体である『永遠の寡婦』リリスに関する懸念を口にした。チェルシーもそれには思い当たることがあるようで、束の間星の海に視線を遊ばせ、再びラヴナに向き直った。
「リリス様は今のところ静かにしているわ。私がご主人様と良い関係だから手を出しづらいのでしょうけれど、……でも、リリス様も可哀想だし、私たちの母体だから、あまり邪険にもしたくないのよね」
「まあ気持ちはわかるわ。あなたに無理を通したら、ルイン様を怒らせかねないものね。となると、あとは……」
チェルシーとラヴナの間に、ある種のおかしみが漂い始めた。二人は同時に口を開く。
「アルカディア!」
「ね!」
「でしょう?」
二人は魔王とは異なる派閥に属する魔族の姫、アルカディアの名を挙げて笑った。かつて、上魔王の座をかけて先代の魔王ダイングロードと争い、敗れた吸血鬼の王、クロード・オード・ブラッドの一人娘にして、魔王側に従わない上位魔族の派閥の首魁をつとめる厄介な女だった。
「あの女、最悪な性格だけど自分の女の部分に気付いてないから厄介なのよね」
「眠り女を絶対に狙っているでしょうし、何をどうしてもご主人様を怒らせると思うわ。こればかりはもうどうしようもないと思うの」
「はぁ……」
「面倒な事になるわね……」
人間は先の事について話すことをあまりせず、時にそれは愚かな事だとさえする気質がある。しかし、上位魔族はやや異なる。先に起きる、避けようのない事柄についても積極的に話す。人間はしばしば魔族のこのような気質が理解できないものだが、大抵は後になってから『先の事を論じる大切さ』を痛感させられる。チェルシーとラヴナにとって、吸血鬼の姫アルカディアは既に避け得ぬ禍そのものだった。
同じ頃、魔の都にある大財閥オード・ブラッドの大邸宅の豪華な寝室では、天蓋付きのベッドから起き上がる金髪のしなやかな女の姿があった。女は白い薄手の肩出しの蠱惑的な夜着(※寝間着のこと)姿で、やや寝惚け気味に暗い部屋を見回す。女の横の毛布がもぞもぞと動き、愛らしい猫耳のある、銀髪に銀絹の夜着姿の獣の民の女がうっすらと目を開けた。
「どうしました? アルカディア様」
「ケレサ? ……ああ、起こしてしまった?何でもないわ。力ある者が私の噂をしていたようよ。ネルセラなら感知できるかもしれないけれど、どうでもいいわ。寝ましょう?」
「少し、吸われますか?」
獣の民の女ケレサは寝惚けた目をしつつも起き上がっては頭を傾けた。美しい首筋には小さな充血の後が幾つかと、二つの小さな丸い傷跡がある。
「いい。ここしばらく忙しくて寝ていなかったし、十分にお前を堪能したしな。今日は一日中お前を抱きしめて寝ているわ。また寝ましょう」
「アルカディア様……」
アルカディアはケレサを抱きしめると横になり、そのまま目を閉じた。ガシュタラの高価な媚香が甘くかぐわしく香り漂うベッドの中、二人の美しい女は再度深い眠りに落ちて行った。
first draft:2020.08.30
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