第八話 深く、艶やかな夜
ゴシュは長い話を語り終えて一息ついた。オーンの香木は武骨さの残る部屋を何か穏やかで心休まる場にしていたが、それでもこの場に漂う沈黙は重苦しいものだった。
「ふー……。まあそんな感じであたいはここにたどり着いて、ザゲロのおっさんの手伝いをしながら料理を学びつつ眠り女にしてもらったんだ」
ゴシュは少しだけすっきりとした顔をしている。
「待った。魔王殿下には報告済みなのだよな?」
「そうだぜ? でも、『最適の解は眠り人が出せる。だから仕えよ』って言われたんだ」
「おれが最適の解を?」
ルインが腕を組みかけたが、傍で話を聞いていたチェルシーが補足する。
「魔王様には何か見えていたんだと思います。実際、この件って魔の領域として対応しようとすると、色々と面倒な部分もあったはずなんですが、ご主人様なら自由に動けますしね」
「外交問題にせずに解決したいとか? それだとあまり暴れては駄目か」
「いえ、派手に暴れて構わないと思います。魔王様は見たくないんですよ。かつての人間の英雄たちの子孫が小粒になっている様子や、英雄たちが守った国の子孫の堕落した姿を。……もっと言うなら失望して怒りたくないんです。きっと」
説明したチェルシーはルインの眼の奥をそっと覗いた。多くの人間は現在の魔の領域や魔王の存在を簡単に考えているものだが、この眠り人はどう考えるだろうか? と気になっていた。ルインは腕を組み、机の上の何かを俯瞰するように視線を泳がせる。
「……わかるぞ。それはおれが受け負う。平和に堕落して増長した人間の醜さは、ある程度理解しているつもりだ。そのような者を見て、魔の領域と人間社会に亀裂が入るのは良くない。ほど良い緩衝をさせてもらおう。世話になり過ぎているくらいだしな」
「あら? 魔王様が動かないことについては疑問を持たないんですか?」
チェルシーは少し深く掘り下げた。
「おれがいなければしっかり動くのだろうが、おれがいる事でより良い解になると言っていたのだろう? なら、それでいいと思う。おれも随分な待遇でここにいるしな」
こんな時のルインの眼はチェルシーにも読みかねる難しさがあった。深く澄んでいるが、わずかに獣のような、楽し気な光がその奥底にちらちらと見える気がする。何かを得ようとしている意志も感じるが、それが何かわからない。
「どうした?」
「……いえ。何でもないですよ」
「ゴシュ、復讐はもちろんだし、何が起きているのかを暴く必要もある。どのように落ち着けば理想的だと思ってる?」
ゴシュはルインの質問に対して、水を飲んで呼吸を整えていた。
「あたいはさ、いずれはヤイヴの勇者を見つけて婚姻でも結んで、うちの氏族を盛り返したいんだ。だけど、まずはネズや父ちゃんやみんなの復讐を果たしたいし、『不帰の地』が父ちゃんたちの功績で後の世に伝わるのが大事だって思ってるんだ!」
「そうだな。異端審問会は身柄をなるべく拘束すればいいとして、問題は姿の見えない魔物か……」
「ルイン様、心当たりがあるのですが……」
シェアが慎重に口を開いた。
「心当たり?」
「はい。異端審問会には、かつての『退魔教会』の退魔教導士たちが編入されています。おそらく、ひっそりとですがかつての私の師、特級の退魔教導士エドワード様も暗躍しているはずです。聞いた話の魔物の特徴……笛のような鳴き声に、姿の見えない点、そして脳を食べる特徴は、退魔教会が追いかけていた赤い月シンが起こす災い、『月の落涙』によって地上に落ちてくる未分類の魔物の中に同様の存在がいたのを記憶しています」
「え? じゃあ……」
絶句するゴシュ。
「確か、退魔教会はその『月の落涙』を間違って起こしてしまい、解体されたと聞いたが」
ルインの眼がわずかに険しくなった。
「はい。おそらく彼らは『月の落涙』を秘密裏にどこかで起こし、何らかの方法で姿の見えない月の魔物を利用していると見た方がいいでしょう。それくらいはやる人たちです」
「彼らはなぜそんな事を?」
ルインの問いに対し、伏し目がちなシェアの眼が少し暗みを帯びた。
「魅入られているんです。何か……おそらく力と神秘に。しかし、私は底知れない邪悪しか感じられず、あの人たちのようには憧れを感じられませんでした。非常に良くしていただいたかつての我が師、エドワード様から私が離れた理由が、まさにそれです」
「理解はできます」
今度はメルトが発言した。
「私が調べている古き巨人の力の魔術のように、独立した体系の魔法や知識は特別なものをもたらしてくれますから。でも、赤い月シンは狂気と邪悪を封印した月とされています。忌まわしい力は理由があって封じられていますし、まして異端審問会がそのような力を手にしようとするなんて……」
しばしの沈黙が流れたが、ルインがそれを破った。
「こんな事は呆れるほど繰り返されている。だが何のことはない、その試みがいかに間違った考えかが魂に刻まれれば、しばらくは手を出す愚か者も減るはずだ。……何より、早く城を構えて影人の工房も創らなくてはな!」
こうして、かつて『不帰の地』にて何があったかを把握したルインと眠り女たちは、この日の打ち合わせを終えて解散した。
深夜。
考え事をしていてまだ眠れないルインは、『不帰の地』の地図を眺めつつ、今後の対応について考えていた。
「御屋形様、詩でも読みましょうか?」
フリネが微笑んで気遣っている。
「嬉しいが、考え事をしながら聞くにはもったいないからな」
「あら、恐縮ですね」
柔らかな微笑みに気が緩みかけたルインだったが、レティスの声がそうさせなかった。
「せっかくの姉さまの申し出を断るなんて、贅沢な人ね」
「いや、いつも綺麗な声で詩を読んでくれるんだぞ? 作業しながらじゃ悪いだろう?」
「断る方が失礼よ! もっと気やすくでいいのよ?」
「ならまずその喧嘩腰をやめろよな。こう、もっと柔らかく話せばいいだろう?」
「私の話し方が気に入らないというの?」
レティスはいつもどこか角の立ちやすい言い方をしてくるが、その声が美しいためにルインに不快感はほぼなかった。フリネの声が柔らかく、優しく脳や心を揺らすような心地よさなのに対して、レティスの声は夏涼しく、冬に温かい清水に触れているような声であり、それはいつも足りない何かを与えてくれるような凛とした優しさがあった。
「いや、きつい言い方をしていても声が綺麗で全く気にならないが、せっかくだから柔らかめの言葉を選んだ方がいい、という話さ。まあ、怒っていたって全然気にはならないけどな」
深夜の長考が続いていたルインの頭は、レティスの声で激しい清水に洗われたような清涼感と心地よさを感じており、そのために言葉に棘は全くなく、優し気な感謝を帯びた声となってレティスに届いていた。
「……あ、あらそう。まあ、姉さまを気遣っているのならいいわ」
どこか言い合いをしようとしていた気持ちがほだされてしまい、歯切れの悪くなるレティス。
「私、姉さまに近づく有象無象の男が多かったせいか、男の人に対してはどうしても言い方が少しきつくなってしまう部分があるの。あなたはそんな人ではないと分かってはいるのだけれど、長い間の癖はなかなか抜けないものだわ」
「ああ、気にしなくていいさ。別に苦にならないしな」
「そう」
ルインは再び視線を地図に戻す。今度は階段室から誰かが上がって来る気配がした。深夜にルインの部屋に来るのはチェルシーかラヴナしかいないが、元気のある足音でそれがチェルシーだとルインは見当をつけた。
「やっぱりまだ起きてました? ご主人様」
「何というか眠りも不規則でさ」
「それは不規則なのではなく、眠りからも自由って考えておけばいいんですよ。夜食を持ってきました。オーンの黒蔦のお茶と、エンデールの大葡萄の砂糖漬けを干したものです! ……で、一息入れても眠くなかったら黒曜石の王城に散歩しに行きません? すぐに帰って来れますし」
チェルシーの持ってきた銀の盆の上には、黒い茶と、皿に乗った紫色の、ところどころ白い粉を拭いたような乾物が乗っている。
「いただこうかな。そして、その後の予定も」
「決まりですね!」
オーンの黒蔦の茶は涼し気な香りが口の中に強く残り、微かに後味が甘い。それが干した大葡萄の酸味と甘さによく合う組み合わせだとルインは気づいた。
「この組み合わせは良いな。干し葡萄の甘さもまたいい」
「でしょう? これ、夜中向けの高貴な組み合わせなんですよ! エンデールの干し大葡萄は甘さと疲れを取る養分が豊富で、オーンの黒蔦のお茶は口をすっきりさせて虫歯も防ぐんです。良い香りもしますしね」
「ああ、これは確かに良いな」
チェルシーは腕輪の姉妹に向き直った。
「腕輪の姉妹さんたち、ごめんなさいね、生身になったら一緒に楽しみたいんですけれど……」
「そうだな、それはおれも気になる」
チェルシーの気遣いに二人は柔らかく微笑んだ。
「いいのよ。思い起こせば私たち、過去は黄金と美酒の溢れる天界で、何不自由なくそれは豪奢に暮らしていたものだけれど、それ自体が罪だったのよ、きっと」
珍しく遠い眼をして語るレティス。フリネも頷いて続ける。
「そうね。地上の人々の事を何も考えていなかった時期が長すぎたわ。だから納得して今を過ごしているのよ。いつか生身の身体になったら一緒にお茶を楽しみたいものね」
「そうですね!」
ルインがティーカップに再び手を伸ばした時、今度は黒いナイトガウン姿のラヴナが上がって来た。ルビーの様な赤い髪と、オーンの黒絹のナイトガウンが良く似合っている。
「やっぱりまだ起きてたのね? ルイン様ってば。……あれ? チェルシー、随分いいものを喫んでいるようだけど、あたしの分が見当たらないわぁ」
「は? 何でそうなるんです? しかもラヴナちゃん、何で当たり前に押しかけ妻みたいな感じでここに入ってきてるんですか?」
「んーまあ、戦いの熱を冷ましてあげたいだけね。別に変な事しないからいいじゃない!」
チェルシーはラヴナの少し悲痛めかした言葉を無視するようにルインに向き直った。
「……などと供述していますが、実際のところどうなんですかご主人様、あの押しかけ女魔にみだらな事とかされてませんか?」
「ふふふ、供述って」
ラヴナはくすくすと笑っている。
「いや、全然そんな事はないぞ。気付けばいつも少し離れて遠慮がちに寝てるようだし」
「ほーらね! あたしはそんな軽い女じゃないもん!」
「男の人のベッドに忍び込もうとする人の言う軽さの概念はよくわからないんですが。……まあいいですけれど、それよりこの後魔王様の所に行きますが、ラヴナちゃんも一緒に行きますか?」
「んー……あたしはいいわ。別に用事無いし」
「ですよねー。じゃあ留守をお願いします」
「あ、じゃあ行くわ!」
「ちっ、すぐにそうやって言葉をひっくり返す!」
チェルシーがわざとらしく舌打ちをする。
「一言にこだわるべきなのは男の人だけよ? 二言三言吐いてもか弱くて美しい女なら通っちゃうのよ? あたしだったら千言くらい行けちゃうわね」
ラヴナは全く悪びれずに自分を肯定している。
「はいはい。まったくもう」
「ふふふ……」
二人のやり取りが面白かったのか、フリネは口元を上品に隠して笑っている。
こうして、ルインは深夜にもかかわらず魔王の城オブスガルに向かう事にした。
ルインとチェルシーそしてラヴナは魔王の城に向かった。いつもなら城内直通の転移門を用いるが、今夜は散歩を兼ねて正門前広場に出ている。
深夜にもかかわらず、上位黒曜石の魔城オブスガルは魔導の青白い灯火や人工精霊(※魔法によって作られた様々な姿と反応を持つ半実体)のぼんやりした鬼火に冷たく照らし出されており、屈強な上位魔族の兵士たちが精巧な人形のように直立不動で夜警の任に付いている。
「正門から入るのは初めてだが、はは……これは壮観だな……」
ルインはその巨大さと壮大さに言葉を失った。人の暮らす現世でこれほどに巨大な城を構えている存在はそう多くなく、このウロンダリアという世界の特殊性が現れていると、ルインは感じ取った。
「いや、これは本当に驚いたぞ」
正門前の転移門から出ると、いくつもの噴水と暗い色の様々な不凋花の咲く庭園通路が続いており、そこから見上げる魔王城は大まかには四角錐型をした黒く滑らかな山のようで、正門は一辺が数歩ほどの二本の四角柱と、その柱に吊られた青銀の精巧な彫刻の施された扉で出来ているが、この柱と扉がまず上が見上げられないほどに高い。
さらに、その手前にはモノクル(※単眼鏡のこと)を掛けた角のある学者のような魔族と、甲冑に剣を杖のようにして両手をあてがったいかめしい壮年の魔族の、精巧かつ巨大な、着色された金属製の像が向き合うように建っている。
「ルイン様、学者みたいな像は初代魔王スラングロード様で、向き合う甲冑の像は二代目の魔王、ダイングロード様よ。あたし、どっちの魔王様の血も入ってるの。少しだけだけどね」
黒曜石の階段を上りつつ、ラヴナが説明する。
「え? とんでもなくやんごとない血筋って事じゃないのか?」
驚くルイン。
「んー……まあそうなるのかな?」
「あのーご主人様、ラヴナちゃんってこんなんですけど、実は現状で、ウロンダリアで一番魅力ある人って事になってますからね? まあ、本当の姿のほうですけれどね」
「は? チェルシー、こんなんってどういう意味? この姿で十分に可愛いのよ! 魅力十分なの!」
「まあ大したもんだとは思ってますけどね」
ラヴナはくるりとルインに向き直った。
「あのねぇルイン様、あたしがいると、ルイン様相手に汚い色仕掛けとかしてくるヒキガエル女は全部よりつかなくなるのよ? だってウロンダリアで一番魅力のあるあたしがいるから、色仕掛けしても無意味になるからね!」
得意げに笑うラヴナの笑顔は本当に屈託がなく、ルインは微笑した。
「んーまあ、変な人が寄って来ないって点は同意ですねー」
「そういえば二人とも不思議な魅力があるよな。見た目はもちろんだが何だ? 人間にある卑屈さが無いというか何というか……」
ルインの疑問にラヴナとチェルシーは一瞬顔を見合わせて笑った。
「ああ、それはご主人様が魔族の女の子と相性がいいからですよ。虚栄心が無いでしょ?」
「身に過ぎた欲望もね。そういう人は実力があって冷静なものだけれど、そんな人でないとあたしたちは信頼を示せないの。逆に言えば、虚栄に過分な欲望のある、弱く穢れた魂の人間にとっては……」
「私たちは魅力とともに、未知と恐怖の存在でしかないですねー」
二人はそれを話す事がとても楽しい事のように見えていた。ルインにはその理由がうっすら推測できた。
「つまり孤独だったのか、以前からそう聞いてはいたが」
ルインの少し後ろを歩いていたラヴナが、少し足を速めてルインの左腕を掴む。
「そうよ? 凍え死にそうなくらい、ね」
先を歩くチェルシーは振り返ってその様子を見たが特に何も言わず、再び歩きつつ話を続ける。
「ウロンダリアは特に、神も魔も上位者は女の比率が圧倒的に多いですからね。寂しさや虚しさを感じている人は多いんですよ。……というわけでご主人様、悪い女に引っかからないように気を付けてくださいね? みんながみんな、私たちみたいに可愛くて強くて性格がいいってわけじゃないですから」
チェルシーの声は笑っていたが、言いながら振り向いた一瞬の表情の中に、ルインにはレダの月の光がそうさせたのか、深遠な賢い女の顔が一瞬見えた気がしていた。
「ああ、気を付けておくよ」
三人が上部の見えない青銀の大扉の前に立つと、大扉の各所に青白い鬼火が灯り、聞き覚えのある上魔王シェーングロードの声が響いた。
──今やこの大門を開いて迎するに足る友は数少ない。夢魔の姫の粋な計らいであろうが、余は嬉しく思う。入られよ。
(そういう事か……)
ルインは納得した。深夜の散歩はチェルシーの何らかの先見と気配りによるものらしかった。そしてチェルシーが言っていた魔王の『見たくないもの』と孤独。また何か大事な話が聞けると確信したルインは、静かに開いた大門の奥に姿を消した。
first draft:2020.10.28
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