第十話 夢魔たちの夜
リリスは三日月に腰かけたまま、少女のように楽し気に足をぱたぱたとさせている。
「あの『人類の敵』がご主人様になびく可能性はまだわかるんですけど、ご主人様が気に入るかもしれないのはちょっとわかりません」
チェルシーは少し気分が悪かった。リリスが何を言うかうっすらとは予測がついており、それが自分の懸念でもあったためだ。
「まあ単刀直入に言うよ。お前たちは男を知らず、汚されてもいない。つまり生の穢れを積んでいない。それはまあ『夢繋ぎ』には最適解だったさ。だけどな、ああいう男が好むのは、ある程度男を知っていたり汚されてもなお誇りを失わないような女なんだよ」
得意げなリリスの様子に、チェルシーはもう少し深入りした話が来る予測を立てていた。
「それ、遠回しにリリス様も含まれるって言ってません?」
「察しがいいじゃないかチェルシー。でも実際、お前もあのキュベレの女も、ダークスレイヤーが『美女と災いが不可分』って考えだったのに気づかなかったろ? それがお前たちの乳臭い所だよ」
「うっ! ……夢の世界で穢れを背負う程度じゃ、やっぱり話になりませんか?」
チェルシーにとって、それはうすうす気づいてはいたが一番指摘されたくない、出来れば考えたくない部分だった。
「ならないねぇ」
リリスは手をひらひらと振り無慈悲に否定した。
「つまりお前と同じ状態にあるキュベレの女もって事だ。……一方で、穢れてない女もあの男を救うのに必要な大事な因子でもあるのさ。だから今さら自分たちを変えようとするのは悪手だな」
「その上で、あの『人類の敵』ネイ・イズニースも大事な因子だし、あろうことか憎からず思われるって事なんですね? うーん……」
チェルシーは考え込んでしまった。
「それが分からないところはしかし、お前とあのキュベレの女のいい所でもある。……乳臭いがな」
「乳臭いは余計です。私とラヴナちゃんのいい所ですか?」
「そうだな。そして、おそらくあの危ない女はお前たちと深く関わることになるし、間違えて拒絶してしまうなよ? という話なのさ。間違えると、お前のご主人様はあの女と世界の果てを探す旅に出てしまい、二度と眠り女たちの元には戻らなくなる。……逆に言えば、眠り女たちはそれくらい、あの女と揉めかねない」
「ああ……もう! アルカディア以外にもそんな厄介が隠れていたなんて! しかもこれは、人間社会と完全に敵対しちゃいますよね?」
「人間社会の腐敗と退廃部分とは完全に敵対するだろうが、それは別に問題ないだろう? 人間なんていくらでも湧いてくるんだ。いくらでも殺せばいい。魔城の主になる男だ、畏れられるくらいでいいさ。 ……それに、この話の本当の『厄介』はまた別のところにある。私にとっては話せる古き友がまた増えるだけだがな」
あえて後半部分を小声で言ったリリスの意図通り、チェルシーの理解は前半部分で手一杯に近い。
「はぁー……」
チェルシーは深くため息をついた。一方でリリスは実に楽しそうにしている。
「おや? ため息なんて珍しいじゃないか」
「そんなに目を輝かせて言わないでくださいよ。私、頑張っているんだけどなぁ」
「何だそんな事か。どこへ行こうが、あの男がお前を手放すことはないから、そこは安心しろ。例えば世界の果てに行く旅だって、お前もついていく考えだろうし、あの男もそれは拒絶しない」
「へ? なぜです?」
「……あまりとぼけない方がいいと思うがな」
リリスの眼が一瞬だがぎらりと光る。その鋭い指摘にチェルシーは一瞬固まった。
「まあその件はいい。とりあえず慎重な姿勢は忘れるなよ?」
「うーん、まあちょっと頭がいっぱいなのでもう少し考えてみますね?」
「それがいいだろうな。この件にはとても賢い奴らが絡んでる。お前がいかに賢くても、全て対応しきるのは大変だぞ? うまくやるんだな」
逆光でもよくわかる目が熾火のように赤く燃えると、リリスもニスバも霧が散るように消えてしまい、チェルシーは一人で雲海に立ち尽くしていた。
「リリス様、もしかして知っているの? ……それに、悔しいけどとても楽しい……」
チェルシーは久しぶりに自分の知性で読み切れないものに相次いで遭遇し、困惑はしつつも自分の人生に大きな喜びを感じていた。悩みが増えても、退屈で死にたくなるよりよほど素晴らしい事と思えていた。
「それにしてもあの年増……」
チェルシーが少しだけ悪態をつきかけた時だった。
「あ、そうだ! 大事な事を言うのを忘れていたよ」
いきなり、三日月に腰かけたリリスとニスバが再出現した。
「うわっ⁉」
腰を抜かしそうになるチェルシー。
「忘れていたのを指摘したのはわしじゃけど」
呆れるように言うニスバ。
「細かいことはいいんだよ! ところで、誰が年増だって?」
「細かいことはいいんですよ! びっくりしましたが何ですか?」
「ふん、夢魔のくせに不幸にも、そして幸運にも、表向きは乳臭い純潔のままで思い人に出会ったお前に、女の魅力の大事な秘密を教えてやるよ。日の光を浴びない影人の皇女の肌も、イシリア人の褐色の肌も、魔族のような浸透する魅力のある肌も、のびやかで張りのある神獣の肌も、多くの種族の血を奇跡的に受け継いだ匂いたつ魅力のある肌も、それぞれ素晴らしいがな……」
リリスは銀製の長い煙管を取り出すと、深く吸い込んで薄紫の煙を吐き出し、楽し気に煙の輪を作り出したのち、威厳のある笑みを浮かべて続ける。
「それでも、程よく男の精を吸った女の肌の肌理と、そんな女の捧げる純愛こそが至上なのだ。そして、あの男はそれを知っている。まあ靡かぬだろうが、知ってはいる。これは頭に入れておけよ? ではな!」
言うだけ言って、今度こそ夢魔の女王は消えてしまった。虚実入り乱れた話は終わり、薄紫の闇めいたリリスの気配が完全に消えてからチェルシーは独り言ちる。
「あー……そういう話ね? でもそれって価値観の一つですよね?」
チェルシーは指を鳴らした。一瞬で、そこはウロンダリアの空の上ではなく、青みがかった薄明の世界に変わり、ぼんやりした灯火が窓からこぼれる、輪郭のはっきりしない建物が並んだ夢の都となり、鏡のように磨かれた円形の展望台からそれを見下ろす位置に、チェルシーだった女は立っていた。
「絶対的な存在は、絶対的な変えられない過去を持つものだけれど……」
背は高く、聴色の艶を持つ宵闇のような長い髪に、夢魔の聴色の目。半透明の長いマントと、黒い蝶の羽のように時おり赤い熾火のように燃える柄を持つ、深い切れ込みの入った長いスカート。それはチェルシーの本当の姿の一つだった。
──夢の都の主『名もなき思い人の君』
周囲にも眼下の街にも、蝶のようにあるいは火の粉のように舞う、暖かなオレンジ色の無数の人々の夢が漂っており、『名もなき思い人の君』はそれに手を遊ばせた。
「リリス様はもう気付いているのね。この夢の都イーストリエが生まれたのは、殺されても仕方ないほどの無礼をあの人が許してくれたからなの。そして、あなたの言う事もわかるわ。だから私は……」
女ははめていた二の腕までの黒い長手袋を外し、その肌の肌理を眺めた。
「あの人で自分をそんな女にもしていくつもりなのよ。それは夢魔だからこそできる事だわ。現世ではあの人を大切なご主人様として、ね……」
『名もなき思い人の君』は、夢の都イーストリエの彼方に建つ、薄明の雲に届くほどの幻想的な建造物を眺めていた。帆船の三角の帆のような、または大きな鮫のひれのようなそれらの建造物は、自然なのか人工なのか分からない滑らかさと複雑さを持っている。
「少しだけ心を遊ばせたら、現世に帰りましょうか」
いつまで見ていても飽きない、柔らかなオレンジ色の人々の夢が遊び漂う夢の都を眺めつつ、チェルシーだった女は微笑んでつぶやいた。
時間は少しさかのぼり、魔城から帰ってしばらく後の寝静まった西の櫓。珍しくチェルシーの気配のない中、ラヴナは静かになったルインの部屋を階段室から見上げていた。
(変な事するわけじゃないし……)
ラヴナは意を決して静かに階段を上がる。月光の射しこむルインの部屋は照明が消えていたが、ルインは横になってはおらず、長椅子に座りベッドに寄りかかって目を閉じていた。しかし、眠りに落ちているわけではなさそうだった。
「ルイン様、眠れないの?」
ラヴナの小声の問いかけに、ルインはうっすらと目を開けた。
「ああ、何だか全然眠れない。あのアンブローズって飲み物は効きすぎるな。疲れてない体には元気が出過ぎるようだ。かと言って今日はもう何かしたいわけでもないしな」
「わかるわ。あたしがいるんだから、したい事してすっきりして寝たら、と言いたいところだけど、ルイン様の力って、とても繊細な扱いをしないと危ないのでしょう?」
「知っていたのか?」
「なんとなく、だけどね」
ラヴナはルインの背中側からベッドに上がり寝転がると、頬杖をついて月の光の逆光となるルインの背中を見た。
「アーシェラさんの誘いも、うまく躱したんでしょ?」
「ん、まあな。もっと自分を大切にしたらいいと言った」
明らかにルインはこのような話題を好んでいないのが伝わってきた。ある程度親しくなった今のラヴナにはわかるが、ルインは何か理由があって色恋や夜の話題を避けている。それはおそらく強大な力の制御に関わっているとラヴナは目星をつけていた。
そして、欲が無いに等しいルインの心を見通すのはとても難しかった。欲に濁った男の心や、ラヴナの血に宿る武人の心の記憶より劣る者の心は容易く見通せたが、それがラヴナを深い孤独に落としてもいた。しかし、この男に対しては一人の女のように、少女のように、その考えを聞いてみるしかなく、その面倒さはラヴナの心を震わせてもいた。
(こういうの、ずっと憧れていたのよ……)
心の読めない男と話すのがこんなにも楽しいものかとラヴナは胸が熱くなった。無防備な姿でベッドに転がりつつも、魅力の塊である自分の色香に惑わされず、背中を見せている男。逆光になった月の光に影なす男の背中の向こうに、男が戦ってきた無数の力ある存在が見えているようで、その孤独な背中がとても力強く尊いものに見えていた。
(ああ……だめ……)
気を付けているのに、ラヴナは言葉が止められない。
「ルイン様、さっきは変な事聞いてごめんね?」
記憶の中の女の話についてラヴナは詫びる。
「ん? ああ……気にしてないさ。それより……おれの事は怖くないのか? 色々と見えているんだろう?」
「怖かったら、ガウンでこうしてベッドに寝転がってないと思うわ。ふふふ」
ルインの空気が少し緩んだ。
「そうか……。まあ怖くないかもしれないが、幸せや喜びも与えられない類の男だぞ、きっと」
ルインの声には気遣うような温かさが感じられる。
「大丈夫よ? あたしの求める喜びは意外と厄介で高尚なものだから。……少し昔話をするわね。ルイン様の持ってる剣にオーレイルってあるでしょ?」
「あるな」
「あれを手にしていた武王ガイゼリックは、壮年も後半になってから、国も何もかも捨てて、たった一人で墓標の無い戦いの旅に出たの。その様子に胸を打たれて、募る心を止められなくなって同道を申し出たのが、『美しい人』と呼ばれる女の魔族メティアの孤独な姫、詩人セシレよ。あたしの先祖に当たるし、その心をあたしもよく理解できるの」
ルインが何かを思う気配の沈黙が漂った。
「それで、セシレは何を得ようと?」
「鋼のような武人の心が、あたしたちに一番必要なものなのよ。だから別に、必ずしも分かりやすい形で結ばれたり、婚姻を結んで農夫のように暮らしたいわけでも、きらびやかな宮殿で暮らしたいわけでもないわ」
「興味深いな」
「でもね、これはとても厄介なのよ? 大抵はとても孤独になってしまうの」
「そうだよな?」
「ルイン様は長い人生に孤独を感じる瞬間はある?」
またしばしの沈黙が流れた。
「考えれば孤独なのだろうが、孤独を感じる暇が無かったと言ったところか。確か、寝る間も惜しんで戦い続けていた気がする。いつまでも戦いの続く、永遠の現在が続くような。だからどういうわけか、穏やかなここでの日々は様々なものが見られて楽しくはあるんだ。たまにはいいものだな」
ルインの声は微かに笑っている。最近は下層地獄界で戦ってきたうえに、おそらく厄介な問題を抱えた美女ばかりだというのに、この状況を穏やかで楽しいと言っている。実際、ルインの言葉も、この部屋も静かなものだった。
(大王の至宝の『腕輪の姉妹』がいる上に、ウロンダリアで一番魅力のあるあたしがいて、この静かな空気ねぇ……)
呆れるほどに心が戦いか何かに磨かれており、ラヴナは少し言葉が出なかった。しかし、だからこそラヴナはこの男に惹かれてもいる。
(試そうかな……)
今はなぜかチェルシーがいない。過ちが発生しても止める者はおらず、最上の成果でなくても現状は十分に喜ばしい。そして、いつかはその日が来るのだから……と、ラヴナは覚悟を決めた。
「ルイン様、ちょっと試してみたい事があるの。苦しくなったら無理をしないで、心のままにしていいからね?」
「うん?」
ルインの視界は突如として暗黒に変わり、ベッドの重みが増す音と、何かがはじけるような音がした。
「この暗闇をそのままにして後ろも見ないでね? 何かひどいことをするわけではないの。そして、……触れてもいい?」
ラヴナの声はとても緊張していた。
「……まあ、普通の範囲なら」
ルインの声は自分よりラヴナを心配している類の気配が漂っていた。ラヴナはそれを信じて、ルインの鷹揚な背中にそっと抱き着いた。密着してその腕がルインの胸の前で結ばれるが、ルインは静かなままだった。
「……ん」
ルインはわずかに息を呑んだ。胸の前で交差する、華奢ではない柔らかな腕、背中に当たる、おそらく豊かに過ぎるラヴナの胸や柔らかな腹の感触が、肌を通して温かな香油のように身体と心にとろりと浸透し、身体の奥底に心地よくも激しい炎を巻き上げかけたが、それはすぐに心の中の黒炎に消えていく。
「はぁ……!」
煽情的なため息とともに、ラヴナの腕は何かに痙攣するように震えた。
「大丈夫か?」
しかし、ラヴナはすぐには答えなかった。
「ラヴナ?」
「……大丈夫。……ルイン様は何ともないのね?」
「おそらくものすごい魅力の波が来たが大丈夫だ」
「ああ……複雑だけど嬉しい。待ってて、今すごいものが見えているけどもうすぐ収まるから」
ラヴナの眼には暗黒の泥濘の広がる世界が、さながら創世のように形を得ていく様子が見えていた。激しい嵐が暗黒を吹き飛ばし、泥濘横たわる薄明の世界に、鋼色の無数の稲妻が光り、落雷と共に大地が現れていく。
(ああ、触れただけなのに……! あたしが寂しすぎたの?)
おそらく『眠り女』をしていたせいで心の障壁がほとんどなく、その為に本来は起きないはずの事が起きてしまった。
(どうしよう、これ……)
「何をしているか分からないが、大丈夫か?」
その焦りが伝わったのかルインが心配そうに訊いてきた。ラヴナの見ている世界は遠ざかり、ルインの部屋の空気感が戻ってくる。
「……あ、うん大丈夫。『暗闇』を元に戻すわね」
ラヴナはそっと離れると、眩しいほどの月光が差し込むルインの部屋に戻った。
「バルセとかも言ってたと思うけど、あたし、真の姿は人に見せたくないの。もしかしたら婚姻を結んだ旦那さんでも。だけど、普段からルイン様に絡んでるのにそんなのどうかって思ってたのよ。それで、まずは強すぎる魅力の力がどうなるか、ルイン様は大丈夫そうなので試させてもらったの」
「結果は?」
「たぶん大丈夫というか、びっくりするくらい大丈夫。あたしの方が色々と大変かも」
「ん? それこそ問題ないのか?」
ルインはラヴナを気遣っていたが、まだ振り向かないようにしていた。
「あっ、もうこっちを見ても大丈夫よ?」
「何が起きたのやら……」
心配そうだったルインは、そんな事を言いつつ振り向いたが、ラヴナの上気した顔を見て、さらに一瞬視線が下まで下がると、ひどく驚いた顔をして前に向き直った。
「えっ? どうしたの?」
「飛んでいる! ボタンが全部飛んでいるぞ!」
ルインが見たのは、可愛らしい座り方をして月光でもそれとわかる熱気と上気をはらんだラヴナだった。しかし、薄手の白い夜着と黒絹のガウンのボタンが全てはじけ飛んでおり、月光を吸い込んだ白い首筋から胸の谷間、腹とへそ、その下の可愛らしい薄紫の下履きまでが全て見えていた。胸の二つの秘所は隠れていたものの、元々が魅力の塊のような存在の為に、ルインもさすがに息を呑んだ。
「ごめんなさい! こんなつもりじゃなかったの! 今日は色々と駄目な感じだから、あたし、部屋に戻るわね! おやすみなさいルイン様!」
ラヴナは慌てて服をかき抱くように合わせると、猫の様な素早さで部屋を出て行った。
(信じられない! あたしがこんな小娘みたいな!)
息の止まりそうな驚きと楽しさ、そして接触に、弾む心の止まらないラヴナ。かつてのセシレやユリアでさえ、相手に全力で甘えることはできなかったはずで、それができる相手と出会えた幸運に、ラヴナは心から感謝していた。
(でも……)
ある事を思い出し、ふと冷静になって歩き始め、ラヴナは本棚の多い自室に戻ると、本だらけのベッドの隙間に寝転がった。幾つかの重ねた本がどさどさと崩れるが、ラヴナはそのままにしてため息を漏らす。
「本当に、『時の終わり』が近づいているのかもね……」
ラヴナはそれでも、心地よい余韻にひたりつつ、そっと目を閉じた。
first draft:2020.11.08
コメント